2015年1月1日木曜日

日の出ずるところ

初日の出

元旦。初日の出を今年は見れなかった。

 何年か前に市内で見たが、富士山のご来光でもないので、大して感動はなかった。

 日本という国号にもあるように、我々は太陽を信じている。日光浴すれば、滅菌されるし、陰干しかどうかはちゃんと聞くし、鉢植えを貰えばそれは直射日光に当てていいのか気にする。

 太陽を直接崇拝している年配のおばあちゃんもいる。彼女の曲がった背中を暖めるのは、お天道様である。

 それゆえ、太陽を崇拝するアトランティス大陸の人々が、日本人の祖になったという荒唐無稽をいう研究者が二十世紀初頭のヨーロッパにはいた。ナチのチベット・フェチみたいなものである。

太陽か皇帝か

網野善彦の紹介している中で、面白かったのは、聖徳太子が随の煬帝に宛てた親書である。

「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をおくる」(太陽が出るところの皇帝から、太陽の沈むところの皇帝へ書をおくります)

 日本史の結構最初に学ぶ、このフレーズ。煬帝がマジ切れしたという。日本が随の属国ではないことを表明した。

 授業ではみな聞いたはずである。

 日出ずるところ=これから盛り上がる国。日没するところ=これから沈んでいく国。

 だから煬帝は怒ったと。網野善彦はこれを中国の留学生に、煬帝目線で読んで貰った。

「なんで、怒るの?」

 日出ずるところ、没するところ、という表現は東西の詩的表現にしかすぎない。日が昇るところ=勢いがある、と感じるのは日本人が持つイメージなのだ(煬帝は世界に一人しかいない、天子という言葉を、漢民族ではない蛮族が名乗ったことに怒ったのだ)。

 国旗日の丸は正式には旭日旗。

 木曾義仲は旭将軍。勢いのあるもの、未来のあるものは、日の出によって表現される。

 初日の出。見たくもなるし、見れなくて、がっかりする感覚。すでに太陽を愛している証拠なのかもしれない。

光という漢字が、なぜ放射状に伸びているのか分かるような気がする。

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