そぞろな記憶
色々泣いたり、怒られた記憶しかないが、幼稚園を卒園することができた。卒園式当日のこと。
「大事なことを二つお話します」
園長先生か、その次に偉い人がそう言い放った。母が厳しい表情になるのに、釣られて、その人を見上げる。
しかしそれどころではない。幼稚園なのに、仕出しに紛れて、一人ずつにグリコのおまけ付きキャラメルが出たことに気を取られて、何となく上の空だった。
ちゃんとお話はきかないといけない。しかしさっき、友達とおまけを開けたときに、彼らはウルトラマンで、自分はしっぽが動くだけのしょぼいワニだった。
正義の味方になったダーク・ヒーローのワニなんだと主張しても、まるで通じなかった。ただの怪獣だと。なんだって、人生の節目を悪役で飾らないといけないのだ。どうあがいても、ウルトラマンに勝てる訳がないではないか。
いや、ゴジラを見ろ。最初は悪役だったが、人間を助ける正義の味方になったではないか。詳しくは知らないが、ウルトラマンと同じレーベルではないか。バットマンとブレイドが闘うか? モスラだって、ゴジラと闘ったが、途中から地球をともに守ったではないか。
ワニの話を考える。凶暴で、悪の組織に属していたが、攻撃の途中で怪我を負う。
そこで人間に助けられる。人間の優しさに気づく。そして残虐に、人間を殺そうとする、かつての仲間、悪の怪獣軍団と闘うことになる宿命を背負うのだ。
そこまで考えて、気がついた。
話が終わっていた。二つとも、完全に聞き逃していた。何か、大事なことを聞き逃したような気がした。
いいことを話すまい
成人式で歌う市長がいるらしい。メディア受けするのだろうが、無様なものだ。彼自身が気づいているかどうかはさておき、新成人にはちゃんと伝わっているテーマが一つだけある。「正しい足の裏の舐め方」だ。
とかく、人前に立つと、いいことを言わないと、と張り切る気持ちは分かる。大学の後輩たちを前に、もったいつけて、御託を並べ立てていた記憶すらある。もっと無様ではないか。
卒業後、部の創立三十周年として、開祖の直弟子であった先生が挨拶に立たれた。
「沢山もうしません。三十にして立つ。この一言をみなとともに、胸にしたいです」
おお。あれから、不惑の年もすぎたのではないだろうかと思い出されるが、強烈な印象であった。三十にして立つ。やっと、これからではないかと。
技については、細かく語ることで知られた先生だったので、端的な言葉が確かに印象的だった。
いいことを言おうとあれこれ考えると、大体蹴つまずくし、往々にして伝わらない。本当に言いたいことなど、あったのだろうか。
この場で言わないといけないかどうかではなく、話したいだけなのではないか。尊敬されたいという、虚栄心を満たしたいのではないか。話している人に、そんな疑念すら覚える時もある。
話題が一般的になり、結論がぼやけ、まとめにもたつき、結局時間だけが過ぎていたということは少なくない。
そういう場に居合わせると、ふと思うのは、あのワニのことである。彼はやはりダーク・ヒーローで、尻尾で悪の怪獣どもを一撃するんだと。既製品のウルトラマンで遊ぶより、はるかにクリエイティブである。
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