2015年1月11日日曜日

巨匠の虚像論

ルーツ


 浦澤直樹が手塚治虫に絶賛して、こう言っていた。

 漫画家として、今、製作現場で使っている指示(たとえばスミベタなど)を書いて指示することは、手塚がやっていたこと。そのまま使っていることがスゴい。

 横尾忠則がスゴいという人は、こういう。原画に対して、どういう色を配置するのか、横尾はしっかり書き込んでいた。それを元に、あのサイケデリックなイラストは出来上がっていった。

 手塚と横尾。配色の指示を考案したのは、どちらか。

 正解はどちらでもない。

 すでに平安時代に描かれた、仏画の図典『別尊雑記』にすでに、登場している。仏の衣類や、光背について、墨でデッサンしたものに、細かくメモをしているのだ。

 その方法が伝えられ、手塚や横尾が活用しているにすぎない。手塚だからいい、横尾だからいい、というのでは、作品を楽しんだことにならない。

 手塚の子息が鉄腕アトムの放映の時間帯に、他の番組を見ていた。それを見とがめて、夫人がアトムにチャンネルを替えた時、手塚は激昂したという。子供に好きなものを見せてやれと。

 彼を崇拝したり、ブランド化されることは、実は彼自身が嫌悪したことであったろう。

記号論の功罪

特に手塚に関しては、批判することはタブーな側面が多い。

 世界に誇る日本のマンガ文化を育てた神を冒涜するような、非道徳が責められるような気がするからである。

 確かに彼が登場する以前の漫画は、北斎漫画の延長でしかない。ストーリーや、キャラクターデザインなど、素朴なものである。それを大きく変換させたことにおいて、異論はないだろう。

 ところが問題は、彼自身の著作『マンガの描き方―似顔絵から長編まで (知恵の森文庫) 』には厄介なことが書かれている。

 マンガとは、記号である。表情も、動きも、記号をもって表現したものであり、それらを組み合わせて、展開を表現するものだというのだ。

 手塚の記号論と呼ばれるものが、これである。

 なるほど、面白い。人間の動きを、抽象化したのが記号であり、それらを使いこなして、ストーリーマンガは成立しているという、彼の主張はシンプルであり、彼の作品の特徴を端的にとらえている。

 そして、この方法を実は映像で捕らえている。『NHK特集 手塚治虫・創作の秘密 』だ。このドキュメンタリーのなかで、手塚は無造作に御茶ノ水博士の鼻だけを延々と描いていたり、ストーリーに悩む姿をとらえられている。

 ナレーションは彼の仕事ぶりをまるで、神がかったかのように伝えるが、最初から天才手塚ありきで話されている。

 そうではない。

 もし、彼のいうように、マンガが記号表現の複合体であるのだとしたら、量産することは可能だろう。御茶ノ水博士の鼻、という記号を描きこむのに必要なのは、天性のスキルではなく、集中力である。

 つまり、手塚は記号であると自白し、まさにそれを証明してみせたのだ。

 そして、この映像で結構衝撃的な独白をする。晩年の手塚がいうのだ。僕は絵が描けないからなぁと。

 つまりイラストを描いて、そこにストーリーと構図という手法を実現して、第一線で仕事をし続けた結果、デッサンをもとに描く、臨場感ある(彼自身が晩年試みを繰り返した)映画のような、漫画表現ができなかったのである。

 その彼にとどめを刺したのが、大友克洋といわれている。

 空間を自在に操り、手塚の描いたイラストトーンとは全く異なる、デッサンを基調とした漫画表現が彼によって立ち上がった。(実は現代の漫画のうち、写実的な表現はほぼ、彼の手法を模倣されている。)

 こうした作品はもちろん、記号論とは対極の、写実表現で構成されている。当然、量産はできない。

 物理的な労力を考えて、漫画が低予算で、量産できるわけがない。量産するための方法は実は手塚の記号論であり、彼自身が絵が描けない(デッサンが不十分である)という独白との兼ね合いは完全に、切り捨てないといけないところに、答えがある。

 世界に誇るマンガ文化などといっているが、ドラゴンボールや北斗の拳など、八十年代以降、世界を席巻したほどの代表作品は誕生したか? ジブリ作品によりかかっているだけではないのか。

 マンガを量産できると印象付けたのが、手塚の記号論であるが、それは実は一定以上の深化を妨げるものであったのではないか。そして、製作に対して、ノウハウさえ習得すれば、量産が可能であるという、誤ったメッセージを伝えたのではないだろうか。

 手塚がマンガの神さまである、というようなこと、マンガが現在進行形で世界を魅了しているメディアである、というようなこと。それらの話題をテレビで見るたびに、なんとなく胸の奥がざわつく。

 スター・ウォーズは第一作目のNew hopeから38年たって、新時代を迎えるという。クリエイターが一人のものではなく、ソフトウェアとしての作品が権利として、行き続けるからだ。藤子の没後、ドラえもんはどうなる? 手塚の没後、アトムのように、リメイクされることは可能なのか。

 ソフトウェアとしての作品に対して、ファンはもっと多様な向き合い方をすべきではないだろうか。海賊版や、違法コピーなど、論外である。

マンガの話題だけに、鳥獣戯画。
生き物にも仏となる可能性があるという理解は、美化しすぎ。実はただの落書き説。

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