2015年1月17日土曜日

愛という字だじゃれ

心を受ける

愛という字は、「受」けるという字の真ん中に「心」という字を書く。相手の心を、正面から受け止めることなのだ。

 ううん、もっともらしいが、かなり後付臭い。

 そもそも、「道」という文字は、侵略した土地の、元の有力者の首をはねて、入り口に掲げ、土地の邪神を脅したという意味。漢字が色々ロマンチックなものを前提にしていたら、我々と価値観の違うドライな漢民族の感覚に圧倒されるのではないだろうか。

 そもそも愛という文字に、そんなプラトニックな意味があるのだろうか。

 古語では、工芸品を愛玩するという意味で、「愛」が使われていた。そこからもっと、生々しい意味で枕草子では動詞に使われていた。現代のようなプラトニックな意味はなかった。

 「愛おしい」という日本語に、「愛」を使っている。

 「いと(とても)」+「おしい(惜しい)」=世界が無常であるとするなら、現代の状態が最高であるのに、変化することは大変残念である、という意味。なるほど、愛玩に近い意味合いだろう。

 つまり明治時代に聖書が翻訳された際、「神は愛なり」という言葉は、「Godは生殖行為」ぐらいの響きで受け止められた。文明開化、間もない頃から、右翼結社が西洋化することを嫌悪したが、情報が少ない時代、こうした曲解された堕落イメージが、波及していたのかもしれない。

 現代の日本で「愛」という文字に、卑猥なイメージはない。カーマ・スートラより、新約聖書での使用例に近いもの、自己犠牲や献身といった意味合いで使用されている。

ハーケンクロイツ

映画の中で、黒い軍服と角ばった発音の演出に、カギ十字(ハーケンクロイツ)が加われば、悪のナチス党を表現である。

 ところがこの、カギ十字そのものに、ユダヤ人迫害や、民族浄化の意味はない。デザインは例のヒゲ男が採用したものである。彼自身がブリル協会というオカルト組織に属していたため、古代のインドでは吉祥の意味であったものを、パワフルなイメージとして受け止めて、採用した。

 皮肉にも、仏教と同時期に存在したジャイナ教の紋章であったため、仏教図像にもリミックスされる。現代でも、万字として、お地蔵さんの祠に彫られていたりする。(戦後、進駐軍の訴追を恐れて、大量に破棄されたという)

 しかし現代の我々は、カギ十字や、万字を見て、経典に見られるような吉祥は連想しない。ハリウッド映画でブラピが砲手を向ける先にある旗だ。

 時代とともに、意味が変わる。すりかえられる。これら諸相がつまり、文化なのだ。

 直江兼続という戦国武将が、NHKに大河ドラマ化したときも、彼が実際に愛用した兜に「愛」の文字があった。彼を育てた上杉謙信が毘沙門天に深く帰依していたように、彼も愛宕権現や愛染明王を深く信仰していた。その一時をとって、兜に飾ったという。

 そんなカビの生えたような経典や、半ば俗信めいたルーツなど、現代人の好みではない。むしろ義を貫き、自己献身を誇りにして戦った武将というイメージの方が、かっこいい。

 すでに意味が変わっている。

 正しい、正しくない、ではなく、こうした解釈の積み重ねで、初めて文化が面白くなるのではないだろうか。

 人という字は支えあっているとか、心を真ん中で受け止めるとか、耳で聞く分には面白いが、しばしば駄洒落でしかなかったりする。それはもう、好みの問題ということでいいのではないか。

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