2015年1月28日水曜日

ボキャブラリー

絶句
 本当に言葉を失うことなど、滅多にない。

 色々挫折することはあったが、それでも、言葉を失った記憶はない。絶望的な状況にあっても、それを整理しようとか、何か思う言葉はあった。

 しかしツイートを見ていて、案外、簡単に絶句してる人を見ると、逆に可笑しくなってしまう。わざわざ、名詞だけをつぶやいている。たとえば、

「たこやき。。。。」

「鍵が。。。。」

 というような、語尾がはっきりしないもの。

 語尾が曖昧な人は、大体、文章が下手なだけではなく、意見を求められても、何も出てこない。自分の意見ではなく、それを問われている状況に基づいた、私見を述べているだけということが多い。そういう人を沢山みてきた。

 おいしいとか、寒いとか、自分の主観を言わず、体言止めにしているツイートを見ていると、言葉の座りの悪さを感じる。そしてそれを感じない相手の感覚に、座りの悪さを感じる。

 まるで後半のドラゴン・ボールである。

 鳥山明が集英社に無理やり書かされて、とりあえず毎週描かされて、何かが破壊された後、登場人物が、ひたすら、

「ああ、あああ、ああああ・・・・・・・」

 と、言葉を失う。

 声優も気楽な商売だなと思った。あ、をコピペすればいいのだ。集英社も楽な商売であったろう。鳥山明さえ酷使してれば、あとはお札を刷ったようなものだったろう。

一本調子
 ネイティブ・アメリカンは生きている牛のことを、年齢によって20近くの呼び方で分けていたという。彼らの生活に因んだものは、それだけ細かに認識されていたのだ。

 日本語で青を意味する言葉は、12から18種類あったと聞いたことがある。現代では再現できないが、それほどたくさんの色を、認識できたのだ。そしてそれぞれに意味があった。

 推敲という言葉は、奥が深い。門を「推す」のか、「敲く」のか、どっちがいいかを熟慮する様。適切なのはどっちだろうか。それを問いかけ、自分で考える。

 決して、「門を。。。。」という他人任せなことはしない。そうだ。体言止めのツイートは結局、テキストを書きかけて、結論を他人に預けて、相手の類推に依存しているから、不快なのかもしれない。

 ときどき、自分の言葉すら発信せず、リツイートを延々と繰り返しているような人をみると、何か空しくなる。本当に主体性のない人なんだなぁと。ばかっぽく見られていることに、何ら抵抗がないんだなぁとか。

 何のためのツイートなんだろう。何のためのアカウントなんだろう。人との関わり合いを、旨く構築できない人なのではないか、などと、いらぬ心配をしてしまう。

 どうでもいいか。

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