2015年1月30日金曜日

最短のための型

箸の話

 ちょうど大きいテーブルの向かいに座った茶髪の兄さんが、友人と話しながら、お箸を持ち変える。

 一本ずつを左右の手でもって、左右に開くのだ。驚いたことに餃子のくっついた部分をそれで引き離した。そして右手に持ち直すのだが、何やら親指の付け根に押当てるような、おかしな持ち方をした。指に何か障害があるのかと思ったが、そんな様子もなかった。
 
 単に、箸を変な持ち方をしているだけだった。可哀想に。きっと、フォーマルな場で箸を持つたびに、萎縮して、周囲の奇異なものを見るまなざしに耐えないといけないのだ。本人の人格とは全く関係なく、ちょっとイタい人のように見られるのだ。何故、そんないばらの道を選ぶのだろう。
 
 世の決まり事に逆らってみるのもいいが、ここでは、単なるイタい人になっているのではないか。そもそもそんなことが、自由なのか。不自由ではないのか。
 
 箸の持ち方がおかしいと、母親に叱られた。理由は外で人様に見られたときに、恥ずかしい思いをするということだった。
 
 一面、真理だろう。だが、厳密には本質ではない。無人島ですむことになったとしても、お箸はちゃんと持つべきだ。文明社会に復帰する見込みがないとしてもだ。それは美学の問題などではない。
 
 シンプルな理由がそこにはちゃんとある。


まとめた結果が型


 森鴎外がドイツ留学中に、こんなことがあったそうだ。
 
 教室で一番大きなビーカーに誰かが、鍵を落としてしまった。そのビーカーには水が入っていて、水を他に受けることができない。でも、鍵は急いで必要である。
 
 みんなが途方に暮れていると、鴎外は二本の細い棒を菜箸のように使って鍵を取り出すことに成功した。その機転に周囲は喝采の声を上げた。
 
 この話が中国や韓国など、日本と同じく箸を使う文化の人間なら、そんな奇想天外なアイデアとは思えない。

 しかしこれができない日本人もいる。先の茶髪の兄さんには無理なのだ。
 
 ちゃんとお箸を持てない人は、大体食べ物をこぼす。茶碗の米粒を残す。魚の食べ方が粗雑である。
 
 なぜか?
 
 何のことはない。箸が型通り持てないということは、指先の力を箸の先に伝えることができないのだ。箸の先をくちばしのように、何かを摘んだり、はさみ切ることができないのだ。
 
 つまり型というのは、単なる形式ではなく、合理的なものの極地にあるのだ。これを軽視することは、実は非合理的であるのだ。
 
 キーボードが打てないという人は、大体、指先をフォームに置かずに、キーボードの文字を探している。非合理的の典型だろう。
 
 見た目が無様だから、箸はちゃんともたないといけない、という意見はあながち間違いではない。しかし本質ではないと感じるのは、こうした理由だからだ。
 
 型よりも、即興性を重視する空手の流派や、総合格闘技と呼ばれるものは、しばしば集中力とクリティカルヒット以外に、修練する目標を失う。
 
 しかし型を主軸にしていると、点検項目が多い分だけ、理解も深まっていく。
 
 合理的の極地が、結局は最短距離なのだ。
 
 茶髪の兄さんは、この先、ずっとフォーマルな場所で箸を持つことをためらうのだろうか。テーブルをはさんだ年配の人が、ふっと表情を曇らせると、それが自分のせいではないかと苦しむのだろうか。
 
 余計な心配をしてしまう。頼まれてもいないのに。


ベトナム料理もお箸を使う。
きっと彼らのなかにも、お箸がうまく使えない人もいるハズ。

1 件のコメント:

  1. このあと、年配の男性が同じような箸の使い方をした人を見て、どきっとした。
    なぜ、どきっとしたのか、分かった。
    指にハンデのある人の、止むを得ない所作を見つけてしまったと誤解したからである。
    実際は、ただの箸がちゃんと使えないだけの、おっさんやった。

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