銃があれば一瞬で
武道を少しばかりかじっていた。技法や思想性について、異文化を知ると面白くて仕方がない。単に筋力の使い方ではないのだ。一つのジャンルでも、多くは細やかな技法や、思想性を持っていることが多い。
そういう話を聞いたり、話したりしていると、心無い人が一言いう。
「どんなに相手が練習してたとしても、もし拳銃があれば、一瞬で勝てる」
そう言われると苦笑いをして返す。もし拳銃がなければ、一瞬で負けるんですよとは言わない。
身体という、一つのフォーマットをどうやって、使い、効率よく戦闘するか。歴史や社会背景が如実に反映される、文化現象の一つなのだ。
たとえば南船北馬というように、中国大陸でも南は船で流通する文化が強い。そのため揺れる船でも戦えるように、重心が低く、腰を落として動く。ブルース・リーやジャッキー・チェンの動き方。
それに対して、北は大地が安定したシチュエーションを想定して、膝が伸びた腰の高い動きをする。ジェット・リーやチャン・ツィイーが演じるときは、この動きが多い。
タイのムエタイや沖縄の空手などは、南の文化に近く、重心を低く取る。
面白いのは、相撲の四股を踏むような動作が、ムエタイにもある。象の足音をまねて、相手を威嚇するのが目的だという。邪気を払うという相撲と、似ていなくもない。
日本で特徴的なのは合気道のなかでも、座技と呼ばれる技法で、座ったまま、戦い、押さえ込む。この技法の起源は諸説あるが、主君の護衛として使える人々に伝えられていたという伝承も、まことしやかに伝えられている。
格闘技と武道
しばしば混同されるのが、格闘技と武道。二つは全然別物である。(極真空手や、コンセプト派ジークンドーのようにボーダーレスなものもあるが)格闘技=パフォーマンス要素も含まれる、対戦相手を倒すことを目的にしたスポーツ。
武道=殺人技法を集約した武術と違い、そこから相手を生かしたり、戦闘能力のみを奪うなど、技法と思想性を兼ね備えた、身体技法。
目的が基本的に違う。目指すところも別物なのだ。
アントニオ猪木を尊敬する武道家の例は聞いたことがない。
中里介山の『武術神妙記』の前書きなどは、流入してくる西洋スポーツに対する反骨があったのだろう。武術は娯楽やゲームではなく、生き残るための手段であったと主張する。本質を捉えた言葉だろう。
ワイヤーの性能もよくなり、CGの技術も日進月歩である。
だから、運動神経がよくなくても、顔立ちのいいモデルが飛んだりはねたり、蹴ったりすることはできる。だが、大体が人体の構造上、不自然な動きをするし、体重の乗っていないつま先に触れただけで、相手は吹き飛ぶ。
ショーとして、楽しく、派手に見せているが、大味くささを感じてしまう。
逆にそういう部分を丁寧に作ったものをみると、魅了されてしまう。
拳銃があれば、とか、重火器があれば、とか、まるで人民解放軍かアメリカ軍みたいな粗忽さではないか。
銃火器にも文化はある。アメリカが新興国だった当時、イタリアやドイツが軍事国家だった。日本陸軍の将校も南部式が登場するまでは、輸入拳銃を携帯していた。
だが、それ以前の文化の広がりは、決して広くない。
カポエイラが両手を縛られた奴隷たちの考案したものであるとか、琉球唐手は薩摩藩の弾圧で武装解除されたために舞踊に、型を隠して残ったものであるとか、歴史や伝承とつながった話題としてはやはり、武術、武道のほうが魅力的である。
多分、第二教を大雑把にかけてる状態 |
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