随筆という表現
兎園小説という江戸時代の随筆集がある。一人が書いたものではなく、八犬伝の馬琴がプロデュースして、彼の知人が集い、見聞した摩訶不思議な出来事や、所感を述べる会をまとめたものである。現代では、江戸時代の文化を知る一級資料だろう。(江戸時代にUFOが来ていたという話題は、ここに掲載されている)
現代であれば、ブログやSNSで発信できるだろう。そしてそれらがない、最近まではこうした紙媒体が当然である。
しばしば古本市でみる、同人雑誌なども、観念的な文学作品にまじって、個人の随筆が多い。今ならブログで充分な内容だが、デジタルがここまで普及するまでは、原稿用紙に書いて、それを写植で印刷していたのだ。
報道番組を見ていると、画面の端にツイートが表示されたりする。馬琴が見たら、愕然とする速さというべきだろう。
楽しいは伝染するとは限らない
しばしば自己表現として、製作する人がいる。しかし中にはこちらの鑑賞など、まるで無視して、自分さえ楽しければいいという自己陶酔に辟易させられることがある。
映像でも、テキストでも、いい迷惑である。
「自分が楽しいと思っていれば、きっと人に伝わるはず」
そうか? トルストイは毎回締め切りがあるから泣く泣く新聞連載をして、『戦争と平和』を書き上げた。
ドイルは本当に『最後の事件』でホームズを殺して、アーサー王や勇将ジェラールを書きたかったのに、母親の激怒と、読者の脅迫文に屈して『空き家事件』で復活させた。
山田風太郎だって警視庁草子を書きたくて仕方がないのを押して、角川書店に忍法帖を書かされていた。
みんながみんな、楽しく作ったものではないのではないか。
楽しいは決して、伝染するとは限らない。ポップカルチャーの安っぽさを弁護するときに、しばしば使われる、この呪文は注意すべきではないか。
テクノロジーが発達して、表現が個人でもカンタンになった。だからといって、人を楽しませようとする姿勢を失ったときに、たちまち魅力は色あせてしまう。パッケージとしてはそれらしいものになるが、決して人を楽しませるものではない。
人が楽しくなくても、自分が楽しければいい。
それも一つだろう。だが、それしかないのなら、逆にそれは反社会的な衝動というべきではないか。人に共感してもらえるような、面白いことを吐露するから、ブログが他人の時間を捕らえるだけの存在価値があるのではないか。
という、一つの意見。
なんとなく、自分の中で、整理して共感を呼べたらいいのになぁとスケベ心を出してしまう。
昔、東大寺の夜間ライトアップで、カメラを前に女の子たちが背広きて、 魔物とかかんとかケッタイな台詞いうてたなぁ。 京都ほどではないにしても、奈良にも不思議ちゃんって、いてるんやなぁって思った。 |
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