神様におまかせ
初詣の楽しみは出店の次に、おみくじである。おみくじの文面をみると、吉凶以外に細かく指針を告げられている。
神様のお告げは、古代においては巫女にしか得られないものであった。
中世以降、沐浴潔斎し参篭して初めて感得できるようになる。
さらにそれを手軽にしたのがおみくじである。
文面を読んでみると分かるように、意外と易にちなんだものが多い。
盛り上がり、極まると、やがて失速する。その間は大人しくして、周囲の信頼を得ること。
記紀神話にこうした協調性は説かれていない。易経にかなり近い世界観である。
実は神道の教義そのものは、教派神道以前は比較的教義が潔斎以外に少ない。
そのため、民間に広まっていた易の概念を取り込んだのだろう。
ところが、意外なのが、勝負事について予言していること。争いごと、勝つ。
我々の神々は人間の勝負を予言する。イエスをつかわした神様ほど、プラトニックなものはない。
中世の訴訟世界
訴訟大国であるアメリカの実情を知ると、日本人はそんなに争いが好きじゃないから、よくわかんない、みたいなことをいう人がいる。
ところが中世に生きた、我々の祖先は違う。めちゃくちゃ訴訟をしている。所領の相続について、である。
実は訴訟の文書が多かったがために、中世の実態研究は進んだといわれている。
和紙と墨という、羊皮紙に比べて圧倒的に耐久性の強いため、当時から訴訟の資料として使用されてきた。
この所領をだれそれが次ぐ、という文面を、誰がいつ発効したのか。(安堵状)
もちろん、現代のように公文書を保管する期間などない。偽造も可能であった。賄賂を渡して結果を変えることも可能であった。(実際、適切な裁決ができなかった建武政権は、敵対する足利尊氏に中央を追われることになる)
もちろん、賄賂がなくても、安堵状が曖昧で、裁決できないことも発生する。
そうなったときの解決手段。神任せなのだ。カラスがどっちの訴状に向いたか、闘鶏でどっちが勝ったかなど、もう人智ではなく、神意をうかがって決定するという、今では考えられない不合理なものであった。
正に神様の言う通り。あきらめろ、というルールだった。だから、現代のおみくじでも、勝負事は勝つのか負けるのか、記載しているのだ。
右の頬を打たれたら、左の頬も打たれるかどうかを教えてくれるのが、我々の神々なのかもしれない。
それが中世日本人の、注目ポイントであったのだから、当然だろう。そして、現代、毎朝見る占いのカウントダウンは、勝負事ではなく、人間関係や仕事のトラブル回避なのだ。お告げはいつも、人間くさい。
チベットのことわざ。人は困ると神様に頼むが、神様は困ると嘘をつく。
本当に困っているときに、神様とか、お告げとか、カウントダウンなど、当てにしてはならない。最後は自分で切り開け。占いやお告げなど、それ以外の心構え程度に聞いておけ。そんな意味合いだろう。
シンプルだが、的を射ているようにいつも思う。
神様だからブランコに乗った志村を探してみたけど、やっぱりなかった。 古代キリスト教のシンボルの魚マーク。イエス様はお刺身好きだったわけではない。 |
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