実は知らない
色々、勉強しそびれていることがある。今となっては、どうしようもないこともある。
ロシア文学を読みたいと思って、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』、『罪と罰』をそろえてみるが、精読できていない。
では一般文芸を読んでいるのか。面白かったから、大沢在昌の『新宿鮫』をシリーズで集めたが、四巻まで読んだのか、五巻まで読んだのか、今や分からない。
ハリー・ポッターに至っては、確か三作目でよく分からなくなっている。エド・マクベインの87分署は大好きだが、実際は5巻ぐらいで、六巻目がなんだったのか、タイトルすら薄れている。
絶対、ローダン・シリーズや山岡荘八の『徳川家康』だけは手を出してはなるまいと、幾度も誓っている。これ以上、自分を惨めにすることはない。長いこと放置している『指輪物語』に至っては、単なる自傷行為というべきではないだろうか。
もし、トルストイとドストエフスキーのどちらが好きか、問われたらどうしよう。新宿鮫は何巻が一番いいのか、87分署は作者が死んだとき何巻読んでいたか、などを問われたらどうしよう。
いやぁ、実は、恥ずかしながら、と詫びるように応えないといけない。いまだかつて、そんなことを問われたことはないが。
読みたいということに対しては、強欲にできている。浅ましく、卑しいぐらい、むさぼろうとしている。
蔵書が狂おしい
たまに友人と本の話題になった時に、見覚えのあるタイトルが出てくる。自分も持っている本を先に追い抜かれて読破されるのだ。
面白そうと思っていたが、つまらないと言われれば腹が立つ。どうしてネタバレさせるのかと。面白かったと言われれば、一層腹が立つ。俺も同じものをもっているのに、先に堪能しやがって。
読みたいが、他の人に読みを追い抜かれることが、悔しい。本を抱えすぎている自分が悪いのだが,手元にある本が、地球上で最後の一冊なら、さぞかし気分がいいだろう、などと浅ましいことを考えてしまう。
たまに珍しい本を手に入れる。例えば、戦国時代末期から、江戸時代初期の説話集『備前老人物語』。ジュンク堂で手に入れたものだが、なかなか書店に出回ることもなく、確か群書類従にもなかったから、図書館で貸し出しも難しいはずである。
それを持っている。ああ、あの資料を多用することで知られた作家も、この本を基にかいたんでしょうな。ここに、あの小説のエピソードがちゃんと書いてある。そういって、自慢したい。
さんざん自慢をして、人が読みたいというと、しのごのまどろっこしいことを言って、断る。相手の残念がる顔。
そんなことを思って、本を捲るが、一度たりとも、借用を願われたことがない。
岡本綺堂の随筆に、そうした読書家の世界について、取り上げた一節があった。
貸し出しできないから、軒先で読ませてもらう。気が利く家だと、お茶やお菓子を出してくれる。日がな一日、そうした書を読んで日が暮れると帰る。
中には近くに泊まって、翌朝また尋ねてくるということもあったらしい。
流通業者との契約で本を作り、返品の山を作るだなんて、不毛なことは一切ない。本を持つことが社会的ステータスなのであり、また本を愛好する者同士が助け合ってきたのだ。
岡本綺堂の作品は全然読んだことがないが、そうした世界があったことに憧れる。
はっきりいって、こんなのは平積みのうちに入らない。本を横に重ねただけ。 |
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