2015年1月5日月曜日

声援と罵声のはざまに

偉業をめくる


 ウィンストン・チャーチル曰く。

「新聞を読むとき、私はスポーツ欄から読む。なぜなら、そこには人間の偉業について書かれてあるからだ」

 かっくいぃー。

 社説だ、偽証だ、謝罪だ。そんなことは一面や三面でいい。いっぱい言いたいけど、ここでいうほどのことはない。

 チャーチルのいうように、スポーツで快挙の記事を見れば、国籍を問わず、喜ばしい。

 古代のオリンピックでは戦争の代わりに、国を代表した選手同士が戦ったが、今はそんなことはない。今どきプロパガンダに使う無粋は、せせら笑うべきだ。

 やはり称えられるべきは、選手のひたむきさと集中力である。その後、結婚離婚、出産など、俗な話題にずり落ちてしまうのは、スポーツそのものへの冒涜ではないか。

敗北の覚悟

オリンピックも去ることながら、大きな大会で、選手が敗退すると、随分な口調で言い募る人がいる。選手を、手塩にかけて育ててきたかのような言い方だが、実に無様である。

 長いこと声援を送った程度のことで、まるでその投資が丸ごと勝利として還付されるかのごとく錯覚している。どこに元本保証が約束されていたのだ。

 そんなに確実なものが得たければ、最初から個人向け国債を買って、国の借金の話題のときだけ耳をふさいでおけばいいのに。

 精魂こめて、練習に練習を重ねたのに、負ける。練習量と結果には、直接な因果関係はない。全身全霊をこめて、戦うために練習をするのだ。練習量が勝利を保証するような、高利回りなら、こんなカンタンなことはない。

 しかしそれはスポーツではない。勝つか負けるか、最後は分からないから、スポーツは興奮する。

 そして何より、勝つにしろ、負けるにしろ、それを甘んじて受け入れられるためには全身全霊で戦わないといけない。そのために、練習を積み重ねるのではないか。

 成績を口汚くいうのは品性を疑う。ましてや、それをアスリートの人格につなげて、あしざまにいうなど、スポーツを鑑賞する姿勢として見苦しい。日ごろの行いがよかったら、パチンコで玉が沢山出るとでもいうのか。世の中、そんなに甘いのか。

 負ける覚悟もなく、勝負に挑むなんて、アスリートとはいえない。そして負ける覚悟もなく、応援するなんて、スポーツマンシップに反しているのではないか。

 負けたことを悔しがるのではなく、なじるなど、勝負を愛しているとは、ちょっと思えない。

ボクシングの観客でないことは確かw

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