喜びを食む者
大好きなゲーテの言葉。人間は気高くあれ。情け深くやさしくあれ。そのことだけがわたしたちの知っている。あらゆるものと人間とを区別する。(『神性』)
悪魔の仕業で、お釈迦さんがある村で施しにありつけなかった。
悪魔がもう一度、村に戻るように命じるのを拒否して、お釈迦さんはいう。
「われらは何物も持っていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となるだろう」(岩波文庫『悪魔との対話』サンユッタ・ニカーヤ)
どっちも大好きな言葉である。逆境にあって、いつも思い出すのは、このうちのどちらかだった。
家庭内での問題が、行き詰まって、明るくはないが、一つの結論に達しようとしていたときに、上司に言われた。
「たとえ不幸なことが身の上に起ころうとも、厭世的にならず、絶望的になってはいけない」
なるほどなぁ。三つ目の気に入ったフレーズである。実際はもっとフランクな言い方だったが。
名言のボットや、ブログを散見することがある。古典や名作を引用して、面白く紹介してくれるのは楽しい。
しかしスポーツ選手や経済界の著名人の言葉を、それも結構キャッチーな割りに、底が浅いことを金科玉条の如くありがたがるのは、どうだろう。
成功のための明言は節約と努力
名言、とかいいながら、その目的はいたってゲスい人が多い。経済的に成功すること。これにフォーカスしている、自己啓発めいたものによく出くわす。そもそも、ゲーテを読んだところで、何か新しいビジネスができるとでもいうのか。メフィスト・フェレスが肩をすくめているのが見えないのか?
名言や、格言を集めると、確かに高揚した気分になるだろう。ラスコーニコフが老婆を斧で殺す理由を考えているのに付き合わされるより、はるかにハイになれる。
しかしだからといって、それが経済収入につながるのだとするなら、余りにもスケベである。
文芸評論家の縄田一男は、ある大学の文化祭で講演を頼まれた際、前説にたった学長が「時代小説を読むことは、将来何かの役に立つだろうから、氏の話をよく聞くように」といわれて、憤慨したという。
彼は登壇して、開口一番言った。
「時代小説を読んだところで、それが面白いだけで、何かの役には立ちません」
何か楽しむとか、生きるという行為のあらゆるものが、経済とつながっていないといけないと、錯覚しているのではないだろうか。もう共産主義者も、裸足で逃げ出すようながめつさではないか。みんながみんなスクルージを理想としているのだろうか。
不幸を不幸として嘆く言葉を、気分が沈むと否定して、明るく楽しく前向きな言葉ばかりを正解とするのは、結局は本質をみようとせず、逃げ回っているだけだ。
ましてそれが、収入につながるかどうかを考えるなんて、むしろ惨めではないか。近親者の不幸があっても、失恋をしても、笑顔でコンビニのシフトに入ったほうが前向きでいいとでもいうのか。それが果たして、文明人なのか。
名言を収集する人の、そうした軽薄さが嫌いである。いい言葉を集めると、いいことが寄ってくるとか、それが言霊とかいうが、そもそも神々を介在させない、無作法さであり、言霊を間違えている。デンタルフロスの歌をつくっても、虫歯はなくならない。
それよりも、逆境にあって、なお真摯であることの方がはるかに尊いし、そのことは経済とは関係ない。
歌詞やインタビューの気取ったフレーズを、大げさにありがたがるのも、むしろハイになりたいだけなのではないかと思う。
経済的や、スポーツ業績的に、成功した人は、逆に、そうした名言を沢山収集していたのか? 儲かっていない風水グッズの店という、矛盾がないか?
ベーブ・ルースの言葉。「チームメイトがホームランを打って、ホームに帰ってくるまでの間、ハンバーガーを20個も俺が食べたっていう奴がいるが、あれは嘘だ。いくら俺でも、それはムリ。食べたのは18個さ」
ベーブに自分の苦境は救えないし、救って欲しくもない。それでいいではないか。
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