2014年12月30日火曜日

会話能力について

検尿コップはどこに消えた

思い込みが激しく、結構沸点の低い人を見る。会話能力が低く、絶望的なヒアリングスキルなのだ。

 以前、会社の社屋で健康診断をする際、彼は検査員と何やらもめていた。

 検尿のコップを渡した、受け取っていないというのだ。マジでか。会話できないとは、その程度のやりとりすら、ままならないのか。

「半分使います?」

 自分のを差し出して、その場はお茶を濁した。

 多分、ちょっと待ってくださいとか、ここに置いてくださいを、ちゃんとヒアリングできていなかったし、誤解があったのだろう。会話が本当にかみ合わない人だった。

 その手の誤解は日常あるだろうが、それがあったときに、誰が悪いかを確認してきた人はまた、別の機会に誤解の前でたじろぐ。問題は”Who”ではなく、”How”なのではないだろうか。

荒波

新卒の面接であったり、学生の研修に出くわすことがあった。

 こっちも息がつまるくらい、がちがちやったりする。当然だろう。彼や彼女は、ピンボケなクライアントの眠たいオーダーに振り回されたことも、不条理な果ての尻拭いに休日出勤したこともないのだ。

 それらの修羅場に比べたら、初対面の人に気軽に話しかけるなどと、試練のうちにも入らない、屁みたいなものである。

 中国人は気軽に話しかけることは、軽薄だと今でも思うらしい。『阿Q正伝』や『駱駝のシァンツ』の世界から、変わっていない。

 話しかけて、ご機嫌を取ろうとすること自体、卑屈な態度だと思うらしい。

 それはそれで、彼らの文化である。しかし日本の大手企業でも、しばしば見たことがある。大企業さまだぞと。気を使われることになれて、気を使うことに慣れていない、稚拙さである。

 少なくとも日本では、それを尊大な虚飾だと思われる。我が身一匹で、何もできない人間ほど、得てして身の丈以上に、大きな所作にこだわる。

 若い人たちが会話できず、悩むという話を聞くが、先輩やOBに話さないといけないという、緊張を強いられることはなかったのだろうか。

 いや若い人だけではない。いいおっさんたちも、尊大なだけで、相手の発言をヒアリングできていないで、状況を悪化させたりする。もっと恥ずかしいことではないか。

 こんな風にいつも思う。

 マンモスを追う、原始人たち。作った落とし穴に向けて、マンモスを追い込む作戦。

 奇声を上げて追い立てる者。槍を突き出して進路変更させる者。落ちたマンモスに石を落とすもの。その頭蓋骨に向けて、とどめを指す者。

 我々ホモ・サピエンスの最大の武器は、火でも、自由に動く手でもない。言語であり、会話能力である。

 会話ができない種族など、滅ぶ運命が待っているのではないか。

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