今年だめだったこと
手帳を買って、毎日でなくても、一週間の反省を書くようにしたかった。何年か前に、勝間和代が言っているのを聞いて、面白そうだと企んでいた。
予定表はスマホなどで管理して、一切手帳にはかかない。その代わり、一週間の反省を振り返り、予定していたことがどこまでクリアできているのか、確認するのだという。
それをまねようと、何回か試みるが、結局、二月で飽き始め、三月でほとんどかけず、連休前には思い出して、手帳の所在を探し始める始末。
トルストイの『文読む月日』を毎日読む。いきなり、長編読んじゃいましたとしたいが、なかなかそうもいかない。それよりちょっとずつ読めるなら、できるじゃないか。トルストイ語れるなんて、かっちょいいし。第一次宗教ブームと呼ばれる時代の開祖たちは、この本に感化されたのだろう。日記を書いて、内面を吐露し、それを弟子たちに読ませるようになる。
モチーフとしてトルストイの翻訳があったのではないだろうか。
そんなゲスいことを考えながら、筑摩文庫で、揃えようと企んだ。中巻も、下巻も、レジに持っていくたびに、
「これ途中ですが、お間違いないですか?」
「はい。上巻、途中ですが、がんばります」「はい、中巻大分残ってるけど、がんばります」
案の定挫折した。
どこから読んでも面白いとは思うのだが、初期の実篤ほどトルストイストにはなれなかった。結構、重い話やったり、前提がへこむような設定やったり。そんなに慌てて、光あるうちに進まんといかんのか、とか思う。気持ちが負けた。
ならば、剛毅に楽しめ、三国志を読もうとした。在庫の三国志は確か十二作品(十二冊ではない)。柴田錬三郎、吉川英治、反三国志、直訳。。。毎月三国志を読もうとしていた。
ところが、陳舜臣の「曹操」で挫折した。それも三月に。
その後、何度か巻き返しをはかったがことごとく失敗。結局、手つかずのまま、残っている。
挑まなければ負けない
絶対負けない方法は何か。
勝負しないことである。敗北を喫することは絶対ない。そして同時に、勝利することも絶対にないのだ。
しかし天知る、地知る。最後は実は自分が自分に負けたことう思い知らされる。
手帳に何もできなかったことを毎週書くのは、惨めである。トルストイや三国志を途中で投げ出すのは無様である。
そんな気持ちをネガティブにするようなことは、意味がないんだ。そんなことを二十代なら思っていただろう。ポジティブこそが正義だと。
今は違う。そんな幼稚なことで、何が解決するのか。
惨めさを、一番底まで痛感して、惨めになろう。誇らしく、快適なことだけが、正しいと思えるのは二十代までだ。
多分、来年も失敗するだろう。ひょっとしたら、あわよくば、失敗しないことがあるかもしれない。しかしそんなことは、いわば儲けものである。
決して簡単に、達成できるようなことに妥協してはいけない。
やっと、大人らしい自戒を感じるようになった。
トルストイの効能の一つなのかも。
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