2014年12月18日木曜日

働きの定義

罰と労働


 神は知識の樹の実を食べてしまった、アダムとエバを楽園から追放する。

 そのときに、アダムには労働の苦しみを、エバには生みの苦しみを神は設けた。

 つまり労働とは、キリスト教文化の中では神が与えた罰なのだ。

 それに対して、日本の神々は自らが耕し、収穫している。つまり労働は神々自身が生業として行ったことであり、生きていく自然な営みであるという。

 そんなことを梅原猛が書いていた。

 まあ、比較が戦後の知識人らしく、ステレオタイプすぎるきらいはあるが、面白い見解である。

不労所得と詐欺

 嫌いな言葉は「不労所得」である。働かずして、得ることができる収入。

 宝くじに当たったり、膨大な遺産が転がり込んできたようなイメージ。いいなぁ、とは思うが、なんかまともに働かずに、不労所得を得ようと血眼になっている人(行政になんとか申請して、生活保護をぼったくろうとする輩)を見ると、居たたまれないし、やりきれなくなる。

 そして思う。卑しいと。

 テロとは別に、イスラム文化圏の影響力を、一番怖れているのは他でもない。キリスト教文化圏である。(仏教文化圏では、カーラチャクラが編まれた、11世紀のインド以外、イスラム教への警戒はない)

 キリスト教文化圏では、イスラム教の何を怖れたか。文化的な背景はあるが、代表的な一つとしては徹底した互助組織の実現にあったらしい。

 つまりイスラム教の中で、働かずに所得を得ることは、神に反する行為にあたる。そのため、イスラム銀行は存在するが、利子を取って儲けることは許されない。

 さらに融資先の倒産があっては、資金が焦げ付くので、融資先の成功を周辺が手厚く守り、助け合う。

 およそ過激派やテロ組織とはかけ離れた、互助組織が構築されている。二十世紀末に西側より、東側共産文化圏との親和性が高かったことは、当然の帰結といえるだろう。

 働かずして、儲けることへのタブー視は、年配が語りたがる、古きよき日本だけではなかったのだ。というか、本来の世界標準であったのだ。

 働くことが惨めなこと。働かず、収入があることが、恵まれたこと。なんとも貧乏くさい発想ではないか。

 世にもまれて、時にしたたかに生き延びる。その豊穣な経験の前に、不労所得の胡散臭い論理など、たちまち色あせてしまう。

 そんな感覚が自然であっていいのではないか。

 不労所得どうのこうのという文字を見るたびに、いつもそう思う。浅ましく、惨めなのは、本当はどっちなのだと。

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