シャーロキアンとしての仮説
シャーロック・ホームズの話。短編『六つのナポレオン像』と『青いガーネット』。
実はナポレオンの胸像と、ガチョウというアイテムを使っているが、宝石(黒真珠、ガーネット)を隠すというトリック自体は共通しており、ドイル自身が自覚なくネタがかぶっていた可能性がある。
というようなことを、本国では研究しているのかもしれない。
少なくとも、量産を強要されたドイルが、うっかりしてしまった可能性は否定できないだろう。
山本周五郎の短編も、量産された典型である。
馬琴の時代から続く読み物クリエイターとしてしか、作家が社会的に認められなかった時代。当然、量産できることは収入に直結していた。
周五郎の短編を、大量に読んでいると、実はネタがそっくりな時が散見されるときがある。これは宿命だろう。
ブログの軽さ
ブログの記事を書こうと試みる。この日本語がすでに間違えているのだろう。
ためしに軽く書いてみた、がブログという媒体に対して、当てはまることなのではないか。試みるというのは、もっとリサーチや、ヒアリングを重ねた上で、安い単価で挑戦してみるということではないか。
ブログとはそもそも、などと感じていた。
諸説あるが、ブラジルでのタンカー事故に対して、報道規制が敷かれたため、現地で正確な情報が出なくなった。
当時のホームページはhtmlがメインで、ウェブ上で表記するのに、コードは必須の知識であった。
ところがブログという、フォーマットが決まっていて、テキストだけをどんどん更新していけるものが登場してきて、既存メディアにない報道がなされるようになったという。(web log in語源説)
社会的に役立つものを、書くのがブログの本来の役割であった。
だが、それだからといって、社会に役立つ情報発信することが、ブログの正しいあり方だという定義は、時代錯誤というべきではないだろうか。やっと最近自覚するようになった。
インターネットという技術自体、アメリカで発展したのは、情報共有網というアイデアである。複数の都市が壊滅しても、情報はシェアされているため、リスクも分散できるという軍事目的である。(まるでキューブリックみたいなものいいだが)
だから、もっと話題を短くして、ドイルや周五郎のように、ネタがかぶるかどうか、心配になるくらい沢山のことを書かないこと。
ここまで書いて、気がついた。
ドイル。周五郎。ブログの起源。充分書きすぎた。
作家の写真を探してみたらマーク・トウェインがフリー素材やったので。 |
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