2014年12月21日日曜日

俗説と冷静のあいだ

円が360円

1947年、円相場が固定から自由相場に解禁になり、日本も戦勝国と自由貿易を果たせるようになった。

 そのとき、一ドルが360円からスタートした。

 円は360度だから。

 そう説明してくれた人がいた。

 なるほどなぁと思いながら、ふと思った。ほんとか?

 円という漢字は、確かに日本の通貨の単位だ。しかし中国でも圓(円の旧字。元は圓と同じ発音yuánであるための略字として代用)を使う。ならば、中国でも似たような話がないのか。

 そう疑ってみた。

 調べてみて、すぐに嘘だとわかった。正解は金1オンスの値段が日本円で360円=1ドルだったから。

 俗説はしばしば耳障りがいい。分かりやすい。だが、往々にしてフィクションの度数が高い。

神無月

 十月の旧称である神無月。出雲大社に神々がみんな集まって、地域の婚姻を相談するから、神さまがいない月という話。

 もちろん、記紀神話に出典はなく、出雲大社が神々集まるという設定すら、根拠がない。

 もとより神無月は、神+連体助詞「な(の)」+月であり、収穫をもたらした神々が里に来る月であった。それが漢字表現の入ってきた奈良時代以降に、神無月という表記が定着し、平安時代には出雲大社の設定になったというのが、現代有力な説である。

 では、なぜ、そんな俗説が生まれたのか。

 御師(おんし)と呼ばれる、社寺への参詣を案内する人たちが紡いでいった可能性があるという。
 神々が集い、打ち合わせを行い、くつろぐ聖地。そんなイメージは民間に流布しやすい。出雲いいとこ、神様もおいで。そんなキャッチがあったなら、それはそれで楽しい。

 高野山だって、高野聖たちの民間流布によって、祖師と聖地への信仰をたからしめたのと、同じモデルが熊野大社や、伊勢神宮など、各地にあったのだろう。

 厳密に教義的な観点で見るなら、天照大神の子孫である皇室の、勅願寺である東大寺が、日本の鎮護国家の総元締めである。(現にお水取りと通称される、修二会では、全国の主だった神々に対して、功徳が回向している。古来の神々を、聖武天皇の悲願でもある、仏式で祈っているのだ)。

 しかし、神々が不在であるとか、出雲大社では神在月と呼ぶとか、そっちのほうが面白い。

 本来なら、沐浴潔斎して神々を迎え入れることを強要されてもいいのに、そういう硬いことはぬきにして、神様ご一行いらっしゃいませ、なのだ。

 こうした、俗説の正否ではなく、その成り立ちを理解することが、実は一番面白い。

 だが、これはいけない。

 出雲大社で神々が、地域の若者の婚姻について協議した=神々は日本人の婚姻を司る=国内で神前式を行わなかった女性アスリートには不幸がおこる、などと、呪詛とも、恐喝ともつかぬこと言い出す占い師を、テレビで見たりすると、うんざりする。

 バアさん、年くった割りに、学がないのをさらけ出すなよと。

 十月が神の月だったとしたなら、この占いバアさんの根拠が全て覆されてしまう。そもそも、神々が嫌うのは、人をさげすんだり、ねたんだり、うらむような、ケガレ(気枯れ)なのではなかったか。

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