暴君
横柄であったり、社会的立場にかこつけて、人使いが荒い人がいる。本人は偉いつもりだろうが、本当にそれは、本人だけの思い込みでしかない。それに気付けず、エリート社員がホームレスに瞬く間に転落するという話を聞いたことがある。
今までも、そのテの痛い人は幾人も見てきた。
それを目の当たりにするたびに、菊池寛の『忠直卿行状記』を思い出す。
実在した松平忠直という、家康の孫にあたる人が、暴虐の限りを尽くし、なおもそれが勇猛果敢であると、当時は賞賛された。しかし晩年、改易された後は穏やか人物であったという。
菊池はその史実に、魅力的な裏話を盛り付ける。
松平忠直卿は家康の子の中でも、名将の誉れ名高い、結城秀康の息子であり、周囲の期待も大きい。本人もその将来を夢見て、武芸の稽古に邁進していた。
ある日、家臣たちを集めて、槍の仕合をして、瞬く間に勝って、得意になっている。
と、手洗いにいった時、ふと家臣たちの話し声を聞いてしまう。
殿の腕前は、上達したと思うか。その問いに、相手が答えていう。
「以前ほど、勝ちをお譲りいたすのに、骨が折れなくなったわ」
権威とか地位とか
そうである。強い、弱いの二元論ですらないのだ。ちょっとは槍を持てるようになったというのが、家臣の率直な感想なのだ。そこから忠直は狂う。人間不信に苦しむ。誰一人、真剣に向き合ってくれないことに苦しみ、それを求めて、ますます周囲に当り散らす。その惨めさ。
ストーリーは幕府の重臣たちによって改易されて、改易された後は温厚な人柄であったと終わる。
しかし、このテーマは深い。
勝ちをお譲りいたすのに、骨が折れなくなったわ。
この一言が初見以来、二十年経っても脳裏に残っている。傍若無人な人を見かけるたびに、反復しているのかもしれない。
人に優しく接しないといけない。苦言にも、向き合わないといけない。実はそんなことは浅ましくも、自分自身のために貪欲であって、当然である。
それができないのは、臆病なのだ。自分以外の人が、彼を指して、きっと嘯いているだろう。勝ちをお譲りいたすのに、と。負けてやるのが、ちょっとは楽になったと。
なんともいたたまれない気分にもなる。
葉隠の説く、究極の忠義とは、諫言であるという。それは戦闘者の集団が、謝った進行をすれば、自分たちが壊滅するだけではなく、父祖の所領と名誉を失い、子々孫々まで浪々の身になることにつながる。
主君に奴隷のように仕えるのではなく、主家の名誉と家の存続をかけて、諫言できる、徳望を日常持たないといけないというのだ。
一行目の死ぬことと見つけたり、ばかりが目立っているが、チンピラの啓発ではないのだ。現代とはかけ離れているが、ちゃんとテーマはある。
もし忠直の下に、葉隠を読む武士がいたら?
きっと彼は名君として名を残し、菊池寛の目に触れなかっただろうし、彼が題材にすることはなかっただろう。
権威や地位でもって、人を顎で使うような人をみると、いつもこの一言を思い出し、苦い気分になる。もし彼が、忠直のことを知らなくても、せめて、この短編を読んでたらいいのにと思うと、やっぱりやりきれない。
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