2014年12月14日日曜日

まつりごと

まつり

政治屋がたまに気取って、政局のことを「まつりごと」などという。

 下品極まりない言い方だが、それを批判する声を余りきかない。

 まつりごと、とは正に神様を「祭る」+「こと」(意義や理論)である。

 ギリシアの神々や、道教の神々たちと同じく、日本の神道も多神教である。タブーを基調とした民族宗教で、魚以外の動物死体や汚物など、不衛生なものは禁物である。

 高温多湿な風土のなかで、神々がこうしたものを嫌うのは当然で、腐敗を嫌悪する文化の基礎となる。

 こうした神々を尊崇する作法はシンプル。

 不浄なものは身に着けず、不浄な考えも捨てる。高潔であろうと心がける美意識に、神は呼応する。

 神道的な観点で、現在の政治屋のいう「まつりごと」など、到底許されるべきことではない。

シャーマンと世俗王

歴史学で古代と中世を明確に分ける区分は何か。

 宗教的権威が、世俗権威と分離した段階で、近代と古代を分かつ、期間となる。

 つまりローマ法王に任命された王が、世俗の実権を握ること。実効支配が法王庁にないこと。

 後白河法皇ではなく、征夷大将軍源頼朝の命令に、全国が従うこと。

 民俗学でいう、神聖王(法王、天皇)と、世俗王(王、将軍)が合い並ぶのが、中世である。

 そしてその中世を脱して、国民が直接選挙で民意を反映するのが、近代である。

 もし、この民意を組まず、皇室が国政を動かしたり、世襲的な土着の有力者が談合で政権を運営するようなら、それは中世社会である。我が国のご一新とやらが、司馬遼太郎が語るほど、ロマンチックな成功を修めていないことになる。

 選挙前日まで、候補者の名前を、選挙カーが連呼する。

 おそらく、ソビエト連邦の五カ年計画のほうが、まだいくらかましなくらい、ビジョンを持っていないのだろう。訴えることは、名前以外にないのだ。CDを買わなくても、投票できるというのか、売りなのか?

 投票にいっても、変わらないという意見には賛同できない。報道されるほどのことは起こらないし、多分増税されるだろうし、景気は来年、もっと悪くなる。

 だが、与党にはそれを回避する能力がなく、野党にはそれを代行する能力がなかったとしても、投票にはいかないといけない。

 自由であり、権利であるが、それよりもあとで、スケープゴートしないためにである。

 あのとき、選挙結果が変わっていればと思うことなど、いくらでも想像していい。しかしそれはリアルではない。

 リアルに投票して、なおかつ負ける。不条理、不愉快、理不尽きわまりないことを、見据えて、初めて増税に舌打ちができるのだ。

 投票に行かなかったのなら、単純に逃げただけである。舌打ちすら許されない、奴隷ではないか。

 投票日で試されているのは、立候補者ではない。有権者である。

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