2014年12月1日月曜日

全然

全く然るべき

違和感を感じていたこと。

「全然」

 という言葉の使い方。

「全然、できてない」「全然、電話がつながらない」

 そうあるべきなのに、それができていない状態を指す、ネガティブな言葉である。精一杯がんばった成果を、上司に報告した時、彼が、「全然。。。」と言葉を発したら、しょんぼりすることになる。

 これが逆な使われ方をした場合。

「全然、おかしくない」「全然、さっきよりいい」

 違和感を感じる。全然は否定的な意味なのに、後ろに肯定的な意味がつく。全然、間違っている気がした。

 ところが、これが実は間違っていたのだ。

 たしか金田一春彦の随筆だったと思う。

「最近の日本語は乱れてきて、『全然』という言葉のあとに、否定的な意味の言葉をつなげるという、誤用は目に余る」

 ということを書いていた。

 考えれば、全く然るべき、なのだから、『全然』は肯定すべき言葉なのだろう。金田一がウザがっていた誤用が、定着したあとで、今度は反転したのだ。裏の裏は表、という現象なのかもしれない。

盛り塩に清めパワーなし


 神道において、塩は清めの象徴である。明確な出典は知らないが、イザナギノミコトが黄泉の国から帰ってきて、海でみそぎをしてたことから考えれば、海のエッセンスを凝縮したイメージの白い塩は、確かに清めの効果がばっちりな気がする。

 京都などにいくと、古い店にしばしば盛り塩がしてある。

 このことを清めや、魔よけのように、印象を持つ人もいる。これはイメージが混濁している。

 もともと古代の中国で、皇帝(晋の武帝とか、秦の始皇帝)が、後宮に沢山の女性がいたため、ランダムに選ぶために、牛車の牛にまかせることにした。

 しかし皇帝の寵愛を得れば、出世ものである。後宮の一人が塩を軒先に持ったところ、牛が止まり、皇帝の寵愛を得ることができた、という由来。

 伝承に過ぎないが、哺乳類の動物が汗をかいて、ナトリウムを摂取したくなるときに、塩(塩化ナトリウム)を嘗めるという性質は科学的に成り立つ話だし、この女性が胡国(モンゴルなど騎馬民族)出身とする伝承などは、ロマンある設定といえるだろう。

 この故事をもとに、唐代の貴族を呼ぶために、店の軒先に塩を盛っていたらしく、江戸時代の文化に継承されたという。貨幣経済や流通産業が発達しないと、成り立たないことである。つまり古代の奈良や、京都でそうした風習が早くから伝えられていたとは考えられにくい。万葉集にも、梁塵秘抄にも、そうした題材がないことが傍証といえるのではないか。

 業者のサイトで盛り塩について、説明しているが、神道の禊とイメージを混濁している。艶っぽい発端がたちまち葬式じみたオカルトチックに見えてしまうのだから、失敗だろう。

本来よりイメージ


 大乗仏教の中で面白いのは、仏に対しての供養の裾野の広さである。

 小さな仏像でもいい。いや、なくてもいい。思い描いた仏像でもOK。そこにお米や香、灯明を備えたら、どうなるか。もうめちゃくちゃいいことしたことになるから、現世で確実救われる、と何回も説かれる。

 つまり線香は、仏像のあるところをデコレーションして、心地よくなるものだから、ハッピーが確約される縁起ものなのだ。

 ところが不信心な人たちは、参拝しないため、線香がまるで死臭を隠すためのものであったかのように思ってしまった。

 現在でも、結婚式場で線香を使うことは禁止されるらしい。葬式を連想されるからだ。

 本来がどうあれ、イメージが先行してしまう。それが正しいかどうかは別にして、それが文化になってしまう。そんなものではないだろうか。

 だから、ふと思う。いつの日か、『全然』がまた、否定的な意味に復活する時代がやってくるのではないかと。

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