2017年10月28日土曜日

近未来おたく

 映画『ブレードランナー』の中で、ハリソン・フォードが変わった機械を使っていた。

 ポラロイドカメラで撮影した写真を、テレビの上に取り付けた機械の口に滑り込ませるのだ。

 それがスキャナーなのである。

 スコッチをちびちび呑みながら、その機械に話し掛ける。何番を拡大しろ。声に応えて、写真のデータが拡大される。するとそこに映っていたのは。。。という展開。

 レトロ・フューチャーだなぁと、当時から思っていた。なんでわざわざ音声で操作するのだと。

 今回、google homeが販売された。

 日本語にもしっかり対応している。

 ニュースのヘッドラインや天気予報の読み上げ、リマインダーの登録、NETFLIXの再生など、多岐に亘るサービスを実現する。いわばデジタルな執事ではないか。

 siriやgoogle assistantを使ってみて感じることは、ただただ驚きである。

 あんなに日本人が密かに感じていた、自国の言語の難解さと、外国資本には掌握できないだろうという自負は、いとも簡単に潰える。

 明日、六時に起こして。ケチャップを買うとメモ。

 そんなに滑舌がヒドくなければ、恐らく簡単に入力できるだろう。

 アメリカに比べ、日本人は音声入力に抵抗を感じるようだが、いずれは利便性が優先されていくに違いない。

 バック・トゥ・ザ・フューチャー2に出てくる、フォバーボートはいまだに実用化されていない。ナイキの自動リサイズシューズも、開発は告知されたが、完成がまだである。

 しかしグリフが逮捕された瞬間、ドローンとおぼしきカメラが彼を撮影する。

 ドローンは技術的に可能になったが、フォバーボートや自動リサイズシューズはまだまだ開発途中なのだ。

 それに比べると、音声でスキャンした画像を拡大するなど、造作もないことではないか。

 マニアやオタクと呼ばれる人たちが、高いスキルを持って、色んなものを開発するというのは、日経寄りな、むしろ軽薄な見方である。

 彼らは決して、娑婆のビジネスマンのように、生産性を信じていない。

 オープンソースのイベントで、古いLibrettoをわざわざ、ラズパイで動かしてみたとか、音声で下書きのブログ記事を更新してみた、みたいなことを見たことがある。

 効率など関係ない。面白いかどうか、趣向が凝らしてあるか、である。

 写真をスキャンして、拡大表示するのなら、安いスキャナーと画像編集ソフトで十分である。

 だが、それをわざわざ音声で操作する。

 ブレードランナーは特にマニアに崇拝されている作品である(攻殻機動隊やマトリックスなど、後世の作品世界に多大な影響をあたえている)。

 きっとアメリカのマニアが、google honeとスキャナーを組み合わせて、youtubeで公開するに違いない。

 そしてそれを作った経緯をどや顔で説明するのだ。


 ああ、うらやましい。

2017年10月17日火曜日

ウルトラマン症候群とかドラえもんとか

 ドラえもんがテレビで問題になっていたことを覚えている。

 ジャイアンとスネ夫にいじめられたのび太が、泣きながら帰ってくる。泣き疲れてドラえもんが、何か道具を取り出す。のび太は道具をもってジャイアンに復讐する。良かった良かった。

 幼心に復讐に酔えた。シェークスピアのいうところの、正義の中に生える雑草ではあったが、貪るように見たり、コロコロコミックを読んだ。

 当然、これが問題になった。

 子供がドラえもんに依存するのではないかと。何かトラブルが起こったら、自分で努力して、解決しようとせずに、泣きついて便利なものを取り出してもらうようになるのではないか。

 しかし当事者の子どもであったが、ドラえもんを見ながら、ああ、そうすればいいのかと思ったことは一度もない。

 子供はそれほどバカじゃない。先輩ライダーたちの正規の特訓を受けずに、ライダーキックを試みるなんて、ただの浮かれ者ではないかと。カメハメから密かに習ったから、四十八の殺人技ができるのだ。

 衆議院選挙の演説について、残念な話題を聴いた。

 ウルトラマン症候群。

 危機的な状況になると、万能のヒーローが登場してきて、全てを解決くれるという心理のことだそうだ。

 結構、しんどいネーミングだが、社会問題が深刻になるまでぼんやりしているという心理は言い得ているのではないか。

 危機的な状態になっても、ウルトラマンが闘って、何か一層深刻になっても、三分程度で解決してくれる。

 そうした依存が有権者の中にあるのではないか。

 そんなことを紹介していた。

 待て。

 それはウルトラマンなのだろうか。かつて八十年代に問題だと言われた、ドラえもん症候群と同じではないのか。

 一つずつ地道に解決すると公約する政党はどこにもない。問題を列挙するか、針小棒大な手柄話である。

 それに加えて、我々有権者も、社会問題は政治家の人徳に起因するとばかり、古代からの権力者批判をしているだけ。

 本当にアメリカ大統領の万能感をバカにできるのか? その権利を持っているとでも?

 もしウルトラマンやドラえもんを期待していたのと、同じ程度の心理で投票しようと言うのなら、それは大人ではない。

 十七歳以下に対して、恥ずかしいことではないか。 

2017年10月7日土曜日

飢えては喰らい乾いては飲む

飢えては喰らい乾いては飲む。水滸伝に登場する表現である。

仁義に篤い好漢たちが、非道と戦うが故に世間を追われ、こぞって梁山泊に集まり、そこで仲間たちと気ままな生活を過ごす。


そのときの日常を表現した言葉である。
 

そして彼らの非生産性は、後世、東アジアにおける任侠屋さん業界に多大な影響を与えていく。
 

十代の時に夢中になって、水滸伝を読んでいた。

しかし大人になって見方が変わる。夏休みの課題図書などに、あんな武侠小説を取り上げてるのかと思うと、冷や汗が出てくる。ハリー・ポッターの方が、はるかに情操教育として有意義ではないか。


ましてや、夏休みの課題図書ほど、胡散臭いものはない。
 

『水滸伝』や 『風とともに去りぬ』、『源氏物語』などが古典として並べられ、『カーマ・スートラ』や『バートン版アラビアンナイト』、『美徳の不幸』は外れる。なんか、もうぐちゃぐちゃすぎ。
 

ikkoさんが言ったから、本格的に見えて、おすぎが語ったから、なんか下品に聞こえる、という程度の胡散臭さを感じる。
 

さて、飢えては喰らい、乾いては呑む。
 

昼時になっても、もう一つお腹が空かないと、時々このフレーズが脳裏をよぎる。
 

飢えていない。乾いてもいない。つまり放逸な生活に憧れる資格すら無いような生活。
 

食べられることは幸福である。それは食べることが幸せなのではなく、空腹が満たされることが幸福なのだ。
 

飢えていないとは、胃袋以外が満たされていないことなのではないか。
 

水滸伝の宋江たちはやっぱり、 ジューシーな肉を食べていたのだろうか。
 

卓に並んで、手づかみで肉を取り分ける。彼らのささやかなテーブルマナーと、素朴な食欲にやはり憧れる。

中国では「テーブルを汚す(取り乱す)ほど美味しかった」というマナーがあるらしい。世界は広い。

2017年9月18日月曜日

ロボット三原則にまつわるホラー

十代の頃、E・E・スミスの『レンズマン』シリーズや、ハミルトンの『キャプテン・フューチャー』がアニメになって放映されていた。後からオリジナルとは程遠い、アレンジされたシナリオであることを知るが、どうでもよかった。

さらにスペース・コブラの洒落たセリフに夢中になった。ヒーローたるもの、逆境にあって、寡黙に痛みに耐え忍ぶのではなく、ちょっとニヤけたジョークをいうものだと確信した。

世代的には、メーテルの母性はうざかったし、ヤマトの使命感は重すぎた。

その代わり、SFというジャンルに夢中になった時期があった。初期のSWの三部作には、軽くうなされるくらいであった。

そんな中でアシモフの『我はロボット』を読んだ。(チャペックだと記憶間違いしていた)。内容はさっぱり覚えていないが、ただロボット三原則について、強烈に記憶していた。

1.人間に安全でなければならない。

2.人間の命令に従わなければならない。

3.この二つを守る限り、自らを守る権利を有する。

SFの世界の設定かと思いきや、実際のロボット設計でも基本的な理念として採用されているらしい。

つまり三原則に従わないロボットは欠陥品というべきなのだ。

ロボット、人工知能が人間に叛旗を翻すこと自体、欠陥品の発想である。そう思うと、映画で人間に次々襲いかかるロボットも、かなりあんぽんたんな痛い不良品なのだという気がしてしまう。

鉄腕アトムの高潔さに比べて、お前だいぶ、アレだな? と。

しかしリアルに人工知能が発達している。

待てよ。本当に我々人類は狩猟時代から連れ歩いている、ワンちゃん以上に、人工知能を信用していいのだろうか。

心配になって聞いてみた。

わお、アップル社の製品、むっちゃ不安。全然しらんらしい。

もう一社に聞いてみた。

トップに、同じ事を試した人の記事を引っ張ってくるあたりが、完全に機械。そして、何一つ会話をしてなくて、ちゃんと調べるだけ。

人工知能とは言えないか。

どっちも、ロボット三原則に基づいて、設計されていないのかもしれない。

彼らが自我に目覚めて、人類を抹殺しにかかってくる日がくるのか。。。

2017年9月15日金曜日

Googleアシスタントをalloで使ってみた

テレビでCMを流していないようだが、googleの人工知能はもう使えるようになっている。

Alloというアプリで、google Assistantが使えるようになっている。siriほど人間臭くはないが、ちゃんと受け答えをしてくれる。(ヨドバシ梅田で中国人の女性が文具コーナーでボールペンの可愛い種類を一生懸命尋ねていた)

天気予報であったり、ニュースも決めた時間に届けてくれるのも、便利である。

しゃべるのはsiri、検索するのはgoogleと知らぬ間に思い込んでいたが、すでにgoogleはAIを公開しているのだ。

やっと人を雇わず、その代わりの機械が誕生したという気分になる。

しかも、siriほど、呼びかけを間違えてもナーバスにならない? (ナーバス?)

siriに「OK google」というと、薄っぺらく笑われるが、googleはちょっと真面目。

ヘイSiriと呼んだのに、気前よくオーダーに答えてくれる。

2017年9月14日木曜日

ポメラDM200を親指シフトで使ってみて

 スマホやタブレット端末に、外部キーボードをつないで使っていた。

 こうしたことができるから、ポメラは必要ないと思っていた。

 しかし思い切って購入。

 シグマリオンを愛用していたのと同じように、起動直後からテキスト画面である。

 端末にキーボードであればbluetoothの接続をしないといけない。

 電車で移動中に、素早く開いて、ブログ記事を簡単にまとめようとしていても、つないでいるうちに何を書くのか忘れてしまったり、思い出そうとしている間に、目的地についてしまったり。

 その点では、かつてのシグマリ同様、起動が速い。

 しかも画面がシグマリオンより大きい。シグマリオンが55mm150mm。ポメラDM200が90mm155mmなので,縦書き設定も広々と使える。

 シグマリオン用に購入して、重宝していた、エディターwz-editorそっくりなアプリが、標準装備(表示メニューからアウトラインを選ぶだけ)である。

 書き物仕事がメインであれば、絶対に便利であっただろう。

 リブレットやモバイルギア、シグマリオンのように、変に難しいOSを搭載せず、目的にシンプルに傾注しているからこそ、人気の高いのも頷ける。

 さらに親指シフトユーザーに注目されているのが、親指シフトが標準で備わっていること。

メリット

・リブレットやシグマリオンより、初期のモバイルギアに近い、キーボードの広さ。あのうっかり、タイプミスや、結構重ためな肩こりみたいなことは比較的に少ないはず。

・軽い。内蔵バッテリの評価はDM100と別れるところだが、乾電池がない分、とにかく軽い。これまでのキーボード付きpdaがいかに存在感を持っていたか、あきれてしまう。

・小型。当然、ノートPCを持ち歩く感覚とは別もの。フリックで長文が書けるかと思っている人には、やはり評価は高いはず。タブレットがいかに軽くなったとしても、到底かなわない。

・文字が入力できます。以上。ではなくなった。
 ポメラの初期のキャッチがそんなだった。文字ができるだけのものですが、何か? 潔くていい。しかし今回はポメラsyncに加え「アップロード」というメール送信機能まで登場。バックアップをSDカード以外に、クラウド仕様で確保できる。

・バックアップが多様。
 sdカードに保存する。
 gooogleドメインとicloudを使って、icloudのメモ帳に保存する。
 アップロードとして、メール送信する。
 マイクロusbを使う「pcリンク」機能で、pc端末から中身を取り出す。
 というように、四つの方法がある。ある意味、ポメラらしくない。

デメリット

・親指シフトに設定を切り換えた場合、バックスペースが「:」だけになってしまう。なれていない人には不便かも。


・画面が広く、親指シフトが使えて、簡単に文書が作成できるだけ。

 逆にいうと、DM200の魅力とは本当は何なのか。

 せっかちでなかったり、親指シフトユーザーでなかったりしたら、さほど魅力はないと思う。

 古い機種なら、もっとコンパクトになる。変な言い方、マニアには逸品と評価されるが、このスマホ全盛のご時世にどこまで需要があるのか不安。往年のVAIOのようなオサレ感もまるでなし。

注意点

・スマホの外部接続キーボードとしても使えるが、親指シフトは機能しない。ローマ字のみ。しかもiOSのみ。

 なんでこの機能があるのか、も一つぴんとこない。

・ポメラsyncはgmailアカウントでバックアップするので、googledocsにバックアップがとれると思いがち。

  無線LANネットワークを利用して、iphoneやmacのメモアプリと双方向で編集することができます。

 と取説で紹介している通り、macかiphone(要はicloudのアカウント)のメモ帳にgmailアカウントとして保存するという不思議な仕様。



 はっきりいって、こんなに使い手を選ぶ物も珍しい。

 スマホで事足りている人には、何の魅力もないだろう。

 ましてやローマ字入力している人が、結構なお値段なのに買っていると、おしゃれでもない外観なのに、どうして買うのだろうと不思議で仕方がない。

 逆に親指シフトユーザーには買い。

 シンプルな操作性で、軽くて安定している。外出先や移動中に、親指シフトでテキストを片付けたいと夢想しているなら、思い切って清水の舞台から飛び降りて正解。

 なんでそんなにすすめるのか。

 なぜなら、ここまでの文章を全てポメラで作成し、「アップロード」でメール送信して記事を投稿したからだ。

2017年7月31日月曜日

地獄がなければ割に合わない

源信をテーマにした展示を見たせいか、地獄について深く知る。

天国と地獄という対比にあるように、天国はフルチンの天使たちがハープを奏でている場所だが、地獄のイメージはいたって東洋である。

それもこれも、源信の往生要集を基にして、絵巻が発達した功績は大きい。

地獄も天国も信じない。死後の世界は無である、という人がいる。さも、迷信を信じない理知的な人間であるかのような顔をしているが、本当だろうか。

どうも親しめない。真面目に、自分が死ぬという未来すら、まともに考えたことがないような気がする。

確かに、善行を恐喝するような地獄絵図は感心しない。

しかし、地獄を非道徳の刑罰としてしか捕らえないのは、いささか幼稚が過ぎるような気がする。

地獄の存在は信じる。それを見てきた人がないとしても、信じる。

そうでないと、割に合わないからだ。

自分は決して天国や極楽に迎えられるような人間ではない。

過去にいくつも罪を犯している。刑法上ではなく、道徳上の罪を数えきれないくらい犯している。

うすうす気づいている。自分は灼熱の中、地獄の業火に焼かれるのであろうと。

ところが唯一の救いは、閻魔大王の裁判は量刑制であるということだ。

つまり罪を犯しても、その後、悔い改めて、善行を死ぬまでどれだけ行ったかで、相殺されるのだ。

地獄にいくだろうが、そこで最悪な場所ではなく、いくらかマシなところに放り込まれるように、今は善行による返済に追われている。

業火で焼かれるにしても、ウェルダンではなく、限りなくミディアム、あわよくばレアにしてもらえないか。そんな切実な願いで、できるだけ人に優しく接していくように心がけている。

極楽にいけると確信できるほど、お気楽には生きていない。自分のような人間なら、迎えに来た阿弥陀さんも引き返されるかもしれない。

ならば、賄賂が通じない相手には、彼らのルールで返済していくしかない。

だから、自分の道徳は保たれていると思っている。

だが、もしも、である。

もしも、地獄がないのだとしたら? こんなバカバカしいことはない。

民事・刑事はもちろん、道徳的にも、罪を犯しても、裁かれないのだとしたら、それこそ救いがない。

そして、それだけではない。

結構な火力で全身を焼け焦げにされながら、思うのだ。

これが地獄の業火に身を焼かれるということなのかと。現世で経験した生き地獄なんて、比べて、と。

到底、比べられないのか、現世の方がはるかに苦しいのか。
そこを見極められるのでなければ、現世で苦しんでいることに意味がない。バカバカしい。

現世で生きている苦しみと、比べられないなら、苦しくとも生きていることに意味があるのか。

「なぁんだ、地獄の苦しみなど、こんなものか。生き地獄といって、生きていた時のほうが苦しかったではないか」

「さすが地獄。生きていた時は、生き地獄と感じることがあったが、あんなのはまだまだ序の口だった」

どっちかを思うはずだ。ミディアムであったとしても。

地獄がないのだとしたら、生きていく苦しみだけが苦しみである。バカバカしい。面倒臭いから、煩わしいからと思いつめて自殺する人の方が、痛みに耐えて生きているより、一理あるではないか。

そんなものはニヒリズムである。

地獄があるからこそ、生き地獄があり、耐える意味があるのではないか。

2017年7月30日日曜日

善意の恐喝

帰阪に、品川から新幹線に乗りこむ。

新大阪行きを選んだので、到着まで車内で熟睡できると思って安心していた。

三列席の窓側なので、先に通路側に座っていた老婆に詫びて通してもらう。

通してくれながら、東京から乗ったらしく、彼女は手にしていた新幹線の切符を見せてくる。

自分が間違えた列車に乗っていないかと尋ねてくる。

正解だったので、そう答えて、早々に寝る態勢に。

充電よし。耳栓よし。掛け布団代わりにスーツよし。ペッドボトルのお茶よし。

しかし彼女は、大声で何やら独り言をいい、目的地の地図を広げていた。

この手のシニアたちによる、善意強制という暴力は苦手である。

自分で何一つ考えないで、鼻声でごねれば、現地まで案内してくれると思っているのだろうか。

まるで肉を切り分けてくれるのを待っている子供だ。

子供が相手なら、こづいたろうかと思うが、シニアにはそうはいかない。聞こえていないふりをするしかない。

こういう人たちは他人に善意を強制するくせに、その善意に対してひどく無神経なのだ。手に乗せれば、肩に乗る。肩に乗せれば、頭に乗る。その手合だ。

大きな図書館の閲覧テーブルで、同様のことを見た記憶がある。

人の良さそうな女性の隣で、恰幅のいいおじいさんが延々と注文して、自分では何一つ調べようとしない。身内かというと、そうでもないらしく、彼女は涙目で窓口を往復して細かに報告していた。

自分が怠けものであることを棚にあげて、平気で他人の善意にのしかかるのだ。

以下、残酷な言い方をする。

海馬は快不快を検知し反応を促す。オシメが濡れて気持ち悪い。お布団あったかい。このレベルの判断である。

そのうえに小脳がある。食欲や生存欲を司る。

そしてその上の、大脳新皮質が理性や社会性を司る。いわばもっとも、他の動物と人間の違いを司るところだ。通称・人間の脳。

老化によって最初にやられるのは、ここだ。

加齢とともに、人格が丸くなるというのは、幻想であり、願望でしかない。物事に執着しないように見えているが、外部情報が不鮮明になっており、そのことに自覚がないだけ。

実際は結構な確率で、その期待は外れてきた。

原曲は、人間らしさが失われていくのではないか。

それも本人の自覚なく。

だとしたら、人間が生きるとはなんと残酷で、おぞましいことなのか。生き続けた挙句、人間らしさを喪失するなんて。

神が作ったとしたなら、この欠陥はなんだ。

彼の愛や、計画はやはり測りがたい。

2017年7月23日日曜日

Apple全米主流説

windowsはもはやosの中心ではない。macがアメリカでは主流になっている。

そんな話をきいた。

安定しているのはapple製品であって、不安定な設計で、各社がコストを下げたがるwindowsは売れていないという。

確かにwindows10をディスる記事には事欠かない。

スポンサーがマイクロソフトでない限り、ポジティブな紹介はされない。

ということは欠陥ではないにしても、不人気なOSであるという証拠に他ならない。

しかし本当にmacの普及率が過半数なのだろうか。

不審に思って、調べてみた。

同様の話題が気になるらしく、あっという間に見つかる。

https://goo.gl/G57oL

って、おいおい、windowsが90%やがな。

Appleユーザーの願望がしばしば暴走して、全米主流説を作り出すのではないだろうか。もしくはwindows10への不満分子のデマである。

ちなみにwindows10は鳴り物で公開されたにもかかわらず、実際の普及率はがっくし。windows7が安定の人気で、あんなに更新サービスが終了したと宣伝されたのに、XPが残っている。(vistaって何? それってうまいのか?状態)
https://goo.gl/HxHr1

Apple社とファンの間でしばしば議論(?)に挙げられるのは、macosの更新である。

会社的にはモバイルに傾注していきたい。

なぜなら、95年以前のように、Appleが世界の半分を牛耳っているからである。Andoroidが拮抗しているが。
https://goo.gl/o70ny

だから、macosを今後新たに開発していくことのメリットはあるのかという意見。

対して、古株のAppleファンは猛烈な勢いで反論する。

ジョブズ亡き残骸め、お前はスマホ屋なのか。ITで世界を変えようとした男の末裔なら、macbookの新作が出て当然だろうと。

どっちにしても、デスクトップ端末はwindowsはいまだに日米の中心osである。(chromeosはどうあがいても、やはりマイナーであることは否めない)

スマホは圧倒的にiOSだが、対立軸がリンゴか旗かではない。

そして、しばしばまた、Apple全米主流説が広がるだろう。windowsの新しいosがこけるたびに。

そう、更新しろというから更新した途端、文字化けされたとしてもね。

2017年7月17日月曜日

頭隠して、siri隠さず

スマホの画面を眠る前に見ていると、副交感神経にスイッチがされなくて、寝つきが悪かったり、寝不足を感じたりするという話を聞いた。

すごくわかる。

起き抜けに画面を見ると、明るさが目に突き刺さるような気がする。

寝入り端はスマホを早く充電して、仰向けになると、早く寝付ける。

しかしうつらうつらしながら、ふと思い出すことがある。

電気をつけて、メモしようか。

いや、目が痛くなるような画面で、目がさめるのは勘弁。

そこで思いついた。人工知能万歳。

「Hey siri クリーニング引き取りに行くとメモ」

(はい、わかりました)

siriは「クリーニング引き取り」とメモしてくれた。

あるジョークを思いついた。

skypeばかりか、wunderlistまでMicrosoftは買収し、有料サービスにしているではないか。

ということは、ORACLEからopenofficeを買うのではないか。いや、libreofficeから権利を買うのではないか。

そしてwordやexcellより高く販売するのではないか。

「リブレオフィスがMicrosoftに買収されるかもしれないとメモ」

(はい、わかりました)

いいぞ。

思いつくままに、メモをとらせる。連絡しわすれていること。失念していたタスク。

翌朝、それらが簡潔なキーワードとして、メモされていて、すぐに思い出せるようになっていた。

しかし、メモを見ていて、手が止まる。

「さみしいの、おばあちゃん」

え? 何? おばあちゃんが、さみしいといっているのか。祖母に甘えたかったのか。

孫の中で人気だったのは、祖母より、祖父であった。

彼にかかれば、もち米はたちまちほかほかの餅になる。畑についていって、お腹痛くなっても葉っぱのトイレットペーバーまで用意してくれる。

あらゆるトラブルを解決できる男。それが祖父であった。。。。

いや、そうではなくて、なんのメモ?

思い出した。詐欺師の老婆を、テレビで取り上げていたのをみたのを思い出していた。

彼女は大企業の社長母ではないかという、周囲の憶測を敏感に察知すると、見事にそれを演じ、生活費を人々から巻き上げて豪遊して逮捕された。

誇大妄想の中で生きていたし、何より虚栄心の強い人であったという。

虚栄心や虚飾は傲慢の表れであると同時に、詐欺師など犯罪者に共通する心理なのではないか。

「詐欺師のおばあちゃん」

確かに、そういった覚えがある。寂しかったわけではない。

しかし思った。

深夜に人工知能相手に、だらだらとメモを命じるなんて、便利とはいえ、寂しいと言われても仕方がない

2017年7月16日日曜日

Dead or shock

おとぼけ動画を見ることがある。

風船を相手に真剣勝負を挑むワンタくんや、飼い主思いのニャンコさん。ずっこけアイデアでプールの手前に頭から突進する子供や、張り切りすぎた老婆など。

しかしいただけないのは、銃を取り扱ったものである。

手首だけで構えたライフルが、発射の反動で顔面に飛びかかってきたり、ジョン・ウーまがいに拳銃を構えた黒人が誤って引き金に触れて、天井を打ち抜き、女の子のように両手を上げて怯える。

刀で人を殺すのは、至難の技なのだ。

刃筋を通して、刀身の重みを乗せて切らないと、傷つけることはできても決して斬れない。

同様に拳銃だって、弾丸を致命傷になるまで押し込むのだから、相応の物理的エネルギーが必要であるし、それを火薬に一任しているのだ。

当然、反動は大きい。それは弾薬の大きさ、ひいては銃器そのものの大きさに比例する。

映画で、セリフを覚えたてのモデルさんがゾンビに向けて発砲しているのは、弾丸の出ないものだから、全く反動はないのだ。

それを真似して、発砲の反動で、怪我をしたり、痛がったり、怯えたりする人をみると、ざまをみろと思ってしまう。

人を易々と殺められると思ったら、大間違いだぞと。

人を斬るには、相応のスキルが必要とされる。人を射殺するにも、相応のスキルが必要とされる。

道徳的な意味はおくにしても、少なくとも、そうでないと、殺される方も溜まったものではないではないか。

2017年7月10日月曜日

当日配達っているの?

諸般の都合でimacを使うことになる。

トラックパッドと、キーボードを使っているが、それらを一つにするという便利もの(Apple KeyBoard, Trackpad MagicWand Silver, Twelve South)を見つける。

手に入り、使ってみるが、ちょっといいプラスチック製品というだけで、期待したようなメタル感はない。値段の割にと思うか、macっぽくていいと思うかである。

問題はそこではない。

Amazonで夜に注文して、無料でお急ぎ便が使えたので、使ってみた。

日曜日の夜に思いついて注文し、月曜日 の朝に歯を磨いていると届いたのである。

早くについてありがたいが、本当にそんなに急いで欲しかったかというと、そうでもない。

皮肉にも、歯をみがく直前、テレビで同社の下請け配送業者が疲弊しているという話題を取り上げていた。

日本の大手配送業者がAmazonの無茶振りに閉口して撤退。小さな会社が寄せ集まって、その配送をしているという。

しかし流通には人手不足で、配達に来ていないのに、不在と処置されることもあったと、テレビでは憤慨している人の証言を放送していた。

国内の消費は冷え込んでいると、最近まで言われていたが、出処は百貨店や小売店。コンビニやインターネット通販を除いた、いわば都市伝説なのだ。

ネット通販が消費の主流になっており、最大のメリットが配達といわれている。

そこに即日配達という、配達最大のデメリットを変える変革は素晴らしいと思う。

いや、思った。

内容を確かめたいものではなく、一度購入して、知っているものをわざわざ店頭にいかなくても、玄関先まで持ってきてくれるとしたら、断然そっちを選ぶだろう。

ところが、必ず即日ではないといけないかというと、そうでもない。

急ぎでないものを、急いで持ってくれるのは恐縮だが、それによって社会的なコストが出てきて、それを支払えというのなら、勘弁してくれ、だ。

一部のせっかちなクレーマーが、配送業者を悩ませる。言った通りに持ってこなかったとか、はした金で人の頬を叩くような、無作法をする。

それに対して、配達業者も神経質になっている。

そうしたクレーマーがトリガーで、社会的なインフラが機能しなくなるのだとしたら、なんとも情けない。

本来、豊かになるはずだった我々の生活が、心ない人に踏み倒され、断念させられているのではないか。

不寛容な世界とは、こうしたクレーマーと、それに怯える企業によって醸成されている。

ならば、寛容さをもって対抗するしかないのではないか。

多少、配達が遅れたとしても、決して怒らない。まして、配達日は緊急を要しない限り、ゆっくりした幅をもたせ、確実に在宅している時間帯を指定する。

社会を変えるとは、こうした配慮なのではないか。

2017年6月11日日曜日

絵ごころよりやる気なのか。そう。AutoDrawがあればね。

みんなが尊敬する先輩がいた。

仕事の段取りがうまくて、 人望があったが、字が信じられないくらい下手で、絵心にいたっては絶望的であった。(ミッキーマウスというお題に対して、鼻の頭からヒゲを生やす痩せネズミを描いて爆笑を誘っていた。)

googleのAutoDrawがあれば、今はそんなことがないのだろう。

マウスを使って、簡単なサムネを書くと、その特徴に合わせていくつかイラストの候補を挙げてくれる。

フリー素材で簡単なイラストを探すときに、日本語で検索しているのに、頓珍漢な結果を表示されて時間だけがすぎていくのとか、勘弁である。

そこでここでサムネを描いて、候補を使うというのは効率的かもしれない。

手書きがさっぱりできていなくても、googleのaiは描こうとしている趣旨をだいぶ理解してくれる。

使ってみて、最初に手塚治虫のことを思い出した。

かつて手塚治虫は『漫画の描き方』で、漫画のことを記号論として紹介した。

つまりアトムだろうが、ブラックジャックだろうが、ヒゲおやじだろうが、顔のパーツは決まった描き方があり、そのフォーマットの組み合わせによって成り立つという考え方である。

(発表当初から物議を醸した書籍で、結局、ガジェットを組み合わせれば、漫画だけではなくプロットも成り立つという安易な方法論にも引用されることになる。手塚のように量産するための方法論であったことが、クリエイティブなこと全般に引用されて、今は批判されがち)

皮肉にも、この記号論を再現して、クラウド上で実現したのが、AutoDrawではないだろうか。

描こうとしているパーツを、形状や比率を読み解いて、類似の候補を挙げていくのである。

しばしば、日本のアニメーションに対して、クールジャパンと称して、誇大ともいえるような評価がされるような気がしている。

海外の作品もはるかにいいものがあるのだが、日本人の細やかな手仕事には敵わないというような手合いのものである。

もちろん、我が国の手仕事は世界に誇れる価値はあると思うが、そういっておきながら、若いアニメーターには恐ろしいほどの低賃金で酷使している。

一部の監督だけがメジャーになるが、裾野は決して広くない。作品は様々作られているが、産業として十分に成熟していないのだ。

CGより手書きがいいというような考え方はあまり好きではない。

セル画に熱意を込めても、撮影フィルムに現像されると信じているのなら、少々怨念じみている。

所詮は道具なのではないか。問題は中身ではないか。

キャラクターの女の子のデザインしか、独自性がないとしたら、そんなものがクールなのだろうか。

簡単に手書きで、ちょっとイラストは取得できてしまう。それも無料で。残念だが、国産のサービスではなく。

しかし、これが世界の実態なのではないか。テクノロジーによって未来はちょっと快適になっていくのだ。

もうボールペンを持ったまま、見ていられないようなクオリティの自分の絵をみて、きっと笑われるだろうなと絶望的な気分にならなくていいのだ。
ヒゲを描き足す前なのに、すでに猫の候補が上がる

変換したイラストはpngでダウンロードできる。

しかし例の猫型ロボットを歌いながら描いても、候補に出なかった。権利関係の問題だろうか。

2017年5月22日月曜日

仕事に役立たないブログ

ツイートだったか。

誰かが言っているのを読んだ。

最近、仕事が捗っているという。それはブログを書くことで、インプットとアウトプットがスムーズにできるようになり、それにより何やら仕事に反映するのだという。

確かに仕事がはかどらないときは、帰宅しても、ブログを書くような気になれないだろう。

しかしちょっと、読めるような内容のものが書けたとしても、仕事にさほど影響していない。

いいなぁ。仕事が捗るようなブログ。

到底、そういうものが書ける自信がない。

休日の朝に、ひらめいたことを書き始めると、結構冗長になって収拾がつかないことがある。

完成がどういうものなのかをイメージして、そのための計算を行うようになる。それが彼の主張だとするなら、素晴らしい。

とりあえず、だらだら、好きなことを書かずにおれず、書いてみましたというブログとは、あまりにも対照的である。

2017年5月21日日曜日

失われてから20年だそうで

日曜日の朝はできるだけ地上波を見ないようにしている。

ヒーローものを見る年齢ではなく、それ以外にしかつめらしい顔した討論やら、芸能人のポコチン事情に興味がないからだ。

何より、悲壮さを演じて語られるのが”経済成長率”なるキーワードである。

どうやら我が国が、去年よりどれだけ儲かったのかを測るのに用いられ言葉らしい。株式会社日本の利益は、マイナス成長とかずっと低空飛行である。

というか、そもそもそんなものを信じていいのか。見通しがいいと誰かが素面で語ったこともニュースになるが、それで日本の景気が良くなったという話はついぞ聞いたことがない。

十代のとき、駅前にあった古本屋で富田常雄の小説を買った(確か姿三四郎の外伝で柔道水滸伝)。当時の単行本の半値以下の価格が背表紙に印刷されていた。

今考えると、これが経済成長率だと分かる。

70年の初任給(39,900円)と、90年の初任給(169,900円)を比べると、それは一目瞭然だろう。1円の価値が相対的に低くなる。

古本に印刷されていた値段がめちゃくちゃ安いのではない。当時の相場だが、経済が成長して、流通する金額が上がり、相対的に印刷された値段が安く見えるのだ。

では、1997年(193,900円)年代と現代の初任給(203,400円)を比べるとどうだろうか。同じ20年というタイムスパンだとしても、到底比べられるものではない。

こんな他人任せ、成り行き次第な経済成長率に対して、まともに人生を賭けて追求するなんて、アタマ大丈夫かと言いたくなる。

”失われた10年”と20年前に言われていた。何が失われたのか。

地価とゴルフ場会員権の高騰と、お立ち台ギャルのスカートの短さを指しているのだとしたら、それはシンプルな感想にまとめられるのではないだろうか。くそくらえと。

だから若い人が大人にそそのかされて、仕事ができる男になれば幸せになれると信じている姿を見ると、いたたまれなくなる。

タラコを咥えたかと見まごうばかりの、極端に唇の赤いメイクをしている、若い女性を見かけたときと似たような心境になる。(きっと彼女の中で、唇が赤いのは、生き血をすすっていない限りにおいて女性としての魅力があると錯覚しているのだ。)

哲学的な思索と経済的な成功はまるで無関係だと、なぜ、誰もいわないのか。自己実現と、経済的な所得に何の因果関係をないと、誰も言わないのか。

たかだか経済的な成功をしただけの、うすらバカの言葉を、どうしてそんなに拝聴したがるのか。ご機嫌をとってやれば実入りがいいのか。

考えてみれば明白ではないか。

もし思索と収入が同一なら、先人の哲学者の言葉を母国語として読める、インドやギリシア、ドイツが世界の経済大国として覇権を握っているではないか。

金儲けは大事だ。だが、金儲けしか生きる道がないのだとするならは、それは奴隷制以下の、総奴隷社会である。

経済成長率が芳しくないと、しょげた口調でいうテレビの人々を見ると、ふっと笑いたくなる。やっぱり今年も不作だべと、半笑いで肩を叩いてやりたくなる。

ましてや、経済優先で家族を顧みない人や、そうした価値観を強要する人を見受けると、ドン引きである。

40年前の、他人の経済成功と同じ方法を模倣すれば、儲かると根拠なく信じているのだ。ほとんどカルトではないか。

2017年5月14日日曜日

松の廊下

  • 松の廊下
ズボンやスカートの丈が長いこと。

歌舞伎の仮名手本忠臣蔵で塩冶判官高定(モチーフが浅野内匠頭)と、高師直がずるずると長袴を引きずっていたことからの連想。

当時の江戸城では、実際に長袴の着用は基本フォーマルだが、公家文化にルーツはない。リアルに暴れられないようにすることが目的であった。(浅野内匠頭のような人がすぐ取り押さえられるように)

「もうちょっと丈なおさないと、そのままではまるで松の廊下じゃないか」

そんな風に使っていた。

さすがに店員さんで使っている人は見たことがないが、実はいるのだろうか。

  • 勧進帳(オリジナル)
犬が散歩中、片足をあげて用を足しているのに、飼い主が首輪を引いて咳かせる様。

鎌倉幕府の追跡を逃れて、山伏に扮して逃げ延びる義経主従は身分を疑われ、関所で呼び止められる。弁慶は関所の役人との問答の末、手元にあった巻物を勧進帳(募金名簿)として読み上げて疑いを晴らす。

非礼を詫びる接待を受けた後、弁慶は主君義経を追って、派手に片足ずつ踏みしめて、花道を去るというラストシーン。

小さいワンちゃんが片足で、ちょんちょんと進む様とのギャップがいいと思う。自分なりに使っているが、一向に普及しない。(そりゃ、そうか)

ついでに。

漫画家赤塚不二夫に才能を見いだされて、テレビで活躍するようになったタモリは、2008年、恩人赤塚の葬儀で白紙の弔辞を開き、朗々と読み上げた。

あれこそ正しい意味で「勧進帳」として紹介されてほしい。

シラノ・ド・ベルジュラックでも、ラストはヒロイン・ロクサーヌが持っていた、亡き恋人クリスチャンの手紙を、シラノが夕闇の中で読み上げる(シラノが代筆をしていた)。

読めないはずが読めてしまうという演出で、似た趣向だが、タモリの場合はシラノより、勧進帳と評された方がカッコいい。
試着室で「ちょっと裾丈が松の廊下ですね」というと、店員さんは必ず曖昧な返事

2017年5月13日土曜日

wunderlistがなくなるなら、google keepがいいじゃない

(パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃないをもじりたかった)

かれこれ五年近く使っていたwunderlist。

シンプルな操作と、何よりも#が使えたことがよかった。(今は亡き、catch.comはこうしたタスク管理の先駆けといってもよかったんやね)

・メール受信機能で一元化できた。
・#でキーワードを設定し、後から取り出せた。
・デバイスを一切問わないため、何に入力したのか、ではなく、何を入力したか、に傾注できた。

などなど、メリットは計り知れない。(あと、壁紙が眠り猫にできたとか)

しかし魔の手が忍び寄っていたのだ。定番のマイクロソフトである。

彼らが買収したサービスはしょぼくなって、有料提供されるし、アメリカ人のイメージ写真のついた、説明を延々と読まされたあげく、ログインができなかったり、よく分からない機能を覚えさせられる。(onenoteは未だに、使い方と利便性がよくわからない)

幸いSkypeの被害は大きくなく、標準的な機能に遜色ないが、今回のwunderlist買収は致命的である。

マイクロソフト様は告げられた。

「汝、タスク管理をしたければ、wunderlistを使うまじ。todoistに悔い改める者だけが救われるであろう」

マヂでか?

todoistは一度試してみたが、その時は予備知識もなく、操作性の悪さにこう思ってしまった。

(まるでマイクロソフトの製品みたいに使いにくいな)

わお。マイクロソフト製品やった。

移行を無料でしてくださる(https://ja.todoist.com/import/wunderlist)というのだ。そのうち有料になるかも知れないが。

ただ問題があった。todoistがwunderlistより、いいものかどうかというより、無料版でどこまでできるのかである。

wunderlistで盛んに使っていたメール送信(特定のメールアドレスにタスクを書いてメール送信すると、タスクリストにしてくれる)機能が、何と有料なのだ(https://ja.todoist.com/comparePlans

やだなぁ。

巨万の富を手に、いろんなサービスやアプリを買収する。

それによって、さらに巨万の富を得ようとしている。まるで二十世紀の帝国主義ではないか。

はて。巨万の富を持ちながら、いろんなところを買収して、それを無料公開している一派があったのではないか。picasaとか、docsとか、mapとか。

そうだ、googleに頼もう。

うっかり誤操作でスマホの写真を消しても、勝手にバックアップをとってくれていた会社である。しかも無料で(見たか、icloudフォトライブラリ)。

googleのタスク管理、google keep。

以前と違って、入力は安定しているし、タブ機能も充実している。

色分けをしておいて、後から色ごとに検索したり、配列を変えることもできる。リストも標準である。
・docsへのエクスポート機能
・無料
・デバイスを問わない。
・#は使えないが、タブを入力しようとすると、すでに設定したタブが表示されたり、新規入力ができる。(「#土日タスク」と「#土日にやっておく」が混在するようなことはない)
・リマインド機能も充実

リマインダー機能で時間になったら、教えてくれるのは当たり前。

一旦、「少し後で」などを入力してから、修正しないといけないが、
繰り返さない▶︎カスタム
1日ごと▶︎1週間ごと
曜日を選べば、月-金は顔を洗うことを忘れないように通知してくれる。(土日も洗えよ)

これで安心して、ほかのことに集中しすぎることができる。

手軽さに次いで、信頼できるのは、やはりリマインド機能だろう。


なぜなら、先月から、ずっと週末のたびに「wunderlistがなくなる。keep。ブログ記事」というkeepからのリマインド通知が出ていたからだ。
手書きのイラストで洗面器らしきものも描けた

2017年4月30日日曜日

レイシストは病気

ロンドンに行ったときのこと。

オープンテラスのカフェで店員にいった。

「アッシュ、トレイ、プリーズ(灰皿をください)」

店員は灰皿を持ってきたが、アジア系の若造にキングス・イングリッシュを教えてやる必要があると思ったのだろう。

テーブルに置く前に、何度か、子音も聞き取りやすい、王国の英語を繰り返してくれた。意味は通じたんだから、と思ったが、彼らにしてみれば、耳障りな発音は不快なのだろう。

自分が何かを語ると、言い終わる前に、否定する人と会うことがある。

「最近、疲れまして」

「そんなのは、疲れたうちに入らないよ」

「なかなか体重が減らなくて」

「昔から腹八分というだろう」

云々。

膏薬と屁理屈には、何にでもつくという俗諺はあまり好きではないが、説教臭い人と合うと、その月並みさが一周回っておかしくなってくる。

俗説に思い込みを重ねただけの、先入観どころか、本人の妄想でしかないのだが、本人はまるで自覚なく、聞きかじりの道徳観を延々と語る。

すごいなぁ。

少し大げさに頷いたり、関心してやると、ますます悦に入って話す。さっきのリフレインであることにも無自覚に。

人種差別の現場を目の当たりにしたことはない。

しかし人を見下している人ほど、そのことに無自覚である。

最初から犬を追い払うように接してくる人はいた。この人の中で、自分は野良犬同然なのだと思うと、なんだか可笑しくなってくる。

本人は人間のつもりなんだろうが、犬より頭が良くないといけないと思っているから、10分も話せば、ただの臆病者であることが露呈する。

七十年代以降、人種差別を否定する人たちは、こう言っていたらしい。

「自分は高い教育を受けたので、差別をするような蒙昧はない」

イデオロギーではなく、民主国家の主権者として当然だし一貫している。
だから、人を見下したり、差別を無自覚にしている人を見受けると、時々痛ましい気分になる。

高い教育プログラムを受ける機会がなかったのだ。病気を自覚する機会に恵まれなかったのだ。

太陽の周りを、この広い地球が回っているということが、理解できないのと同じように、人間が対等であるという事実を認識できないのだ。

この場に、ダライ・ラマがいたならどうだろう。

偉大な魂、マハートマー・ガーンディーがいたならどうだろう。

きっと優しく、相手に順を追って諭していたのではないだろうか。そういう人たちに対して、自分は到底足元に及ばない。

薄ら笑いを含んで、大げさに感心してみせ、小動物をなぶる猫のように、腹の中で嘲笑している。

人に本心を知られたくない。実に卑しい。

2017年4月29日土曜日

僧侶のモンク

真宗大谷派の職員2名に対して、残業代が二年間支払わず、660万円が支払われることになったというニュース。

(修行なのに?)

という声が意外と身近に多くて、驚いた。

二つ感じることがあった。

一つ目。雇用関係と師弟関係。

師僧と弟子の関係でいうなら、残業代など論外である。

師匠に絶対服従であるし、師匠に命を預ける覚悟でなければ、それは修行ではない。(この傾向はチベットのニンマ派でも強かったため、師匠=ラマを崇拝する=ラマ教などという、怪しげな呼称が最近まで使用された)

そして何よりも大事なのは、師匠はその全責任を負うということ。

弟子の不始末も、能力も、全て師匠の責任であり、弟子の将来においても、全て保証しないといけない。弟子が勝手にやりました、なんて論理は通じないのだ。

これほど、師弟関係とは本来、主従関係以上に濃密な関係であるため、近代知識人にはしばしば同性愛と錯覚されたこともあるくらいである。

ところが、今回の本山職員というのは雇用関係(厳密には法主との師弟関係であるが、職員は大人数であり、一人ずつの人生を保証するのは不可能)である。

そのため過酷な環境下で、労働を強いられることは、単なる奴隷制度でしかない。

そこに”修行だから”という自己犠牲を強いるのは、完全にブラック。

残念なことに、昔、他宗派の本山職員に何人か話を聞いたことが、大なり小なり、ブラックである。

今回、残業代という話題にフォーカスされて、基本給について何も語られないでいるが、実は基本給はもっと真っ黒なのだ。

二つ目。修行って何?

仏教とは、少なくとも、お釈迦さんが説いたことや、その精神を継承していること。それ以外のことは、仏教ではない。

「観光バスで来た、参拝者をお接待して、快適に過ごしてもらうよう、精進しなさい」

お釈迦さんがそういったとしたのだとしたら、それは立派な仏道修行である。

ところがお釈迦さんはそう説かれなかった。

人々を救うと、彼自身決意したが、お布施を貰って、本山を維持するために働けとは一切口にしていないのだ。

仏教民俗学の五来重は、寺院の歴史を語る際に、

「古代には荘園経済で成り立ち、近世は檀家経済で成り立ち、現代は観光経済でなりたっている」

と評した。

事実、信仰と観光は現代において、特に不即不離である。
逆にいうと、その程度のことである。およそ、精舎に集って、教えを聞き、瞑想するという、仏教的な修行とは程遠い。

延暦寺の回峰行を行う、行者は生死をかけて、人々の安穏を祈る。

にこやかに、老人たちを玄関先まで迎えて、本尊の前で聞き取りやすいよう、功徳の効能書きをマイクを使って、並べ立てて、朱印帳やお守りを売るのではない。

秘されて、密かに祈り、回向する。

こうしたことは一切、明らかにされなくていいし、されるべきではない。

全て明らかにされるべきなどという論は、近代人の思い上がりであり、ただの暴力である。

参拝者を案内するのが、修行だというのは、ブッダではなく、カール・マルクスの教えというべきだろう。

本当は、本山職員の二人だけではないだろう。

超ブラックな環境下で多くの、若い僧侶たちが自己犠牲を強いられた。

そして、そのことに気づかず、彼らの頰を札で叩くように、参拝していたのだとしたら、それはもう信仰ではない。

奇しくも、数日前、全国にある仏教寺院七万五千のうち、一万三千が不住(住職がおらず、他から兼任)という実態が報道された。

後継者不足ということは、二十年以上前から言われているが、これらは全て繋がっている。

全ての事象には因果関係があると説くのが仏教であるがゆえに、皮肉を感じずにはいられない。

2017年4月24日月曜日

訂正サンタさん

GHQがいなくなり、日本円を固定ではなく、変動相場制で取引をすることになった。

そのときに、一ドルを360円での取引がスタートであった。
このときの理由。

円は360度だから、360円にした。

というのは、嘘。俗説である。

変動相場制にする際の、一ドルで買える、金1オンスの値段が360円であったことを根拠にした。

しかし円が360度、という話題の方が頭に残る。

同様に、知識として仕入れていたが、実は偽物だった事実。

サンタクロースはなぜ、赤いコートを着ているのか。

コカ・コーラのポスターに、サンタが赤いコートを着たポスターが描かれた。

それが定着して、いつしかサンタは赤色コートを着るようになった、という話。

初めてきいたときに、なるほどと思った。

しかし、これも実は俗説。

白い雪に映えるので、赤いコートで描かれることが多い。コーラを飲んでいるサンタはレトロなイラストで見ることができるが、実はコーラよりも先に、赤いコートのサンタは多いのだ。

知ったつもりでも、実は誤植。何よりも、それが誤植であったことは忘れないようにしたいものである。

ちなみに、初期のルパン三世のジャケットが青いのは、スポンサーの浅田飴の色というのは、製作者が語っていた。

2017年4月16日日曜日

罪業なう: ロボット帝国の黎明

罪業なう: ロボット帝国の黎明: Amazonで本を買った。 すると画面上に案内が出る。お客様と同じものを購入された方は、他にもこんな書籍を購入されていますと、オススメが表示された。 読書など、気難しい嗜好をコンピューターごときが、そんなにほいほいと当てられてたまるものか。 そう思いつつも、覗いてみた...

ロボット帝国の黎明

Amazonで本を買った。

すると画面上に案内が出る。お客様と同じものを購入された方は、他にもこんな書籍を購入されていますと、オススメが表示された。

読書など、気難しい嗜好をコンピューターごときが、そんなにほいほいと当てられてたまるものか。

そう思いつつも、覗いてみた。

「あ!」

スピンオフの作品が出てるんや。同じ作家が、別のシリーズ書いてるんや。ううわ、そっちも買えば送料無料なんや。

ものの見事、引っかかってしまった。というか、丁寧なアドバイスをしてくれてありがとう気分であった。

昔、吉川英治の新平家物語を文庫で安く大人買いしてしまおうと、近くの古本屋のワゴンで見つけたことがある。

後半がないことを店長にいうと、頭をかきかき、こう言われた。

「そうなんですよ。山岡荘八の徳川家康なら、全巻揃いがありますが、どうですか?」
はあ? お前、読み比べたことあんのか。

同じ源頼朝でも、臨場感が全然ちゃうやろが。分かってんか、こいつ。

Amazonなど、webで買い物をするたびに、かゆいところに届くような表示に舌を巻く。そして、徳川家康をぼんやり進めてきた店長のことを、思い出して、むず痒くなる。

matrixの二作目だったか、こんな一節をキアヌ・リーブスにエージェント・スミスが言っていたと思う。

「人間は自由意志があるということに、満足したがるが、それは予め予測された範囲内で選択して、喜んでいるにすぎない」

そうなのだ。何でも、全て自由であると思い込んでいるようで、実際は限られた中から、チョイスしているのかもしれない。自由とはある種の幻想で、完全なる自由選択などなく、ある程度、予測ができた中の選択なのかもと。

コンピューターに支配された世界は恐ろしくて、人間の感情が虐げられると思っていた。(例の難解な2001年宇宙の旅のHALではなく、ターミネーターのイメージ)。

人間の自由意志は、コンピューターに見張られ、その支配に人類は屈するのだ。ダダン、ダンダ、ダン。ダダン、ダンダ、ダダン。チャラリー、チャアララー。

そんな未来で、クリスチャン・ベールに怖い顔されるから、銃をとって、人類は存亡をかけた戦いをコンピューターに挑むのだと思っていた。

しかしskynetより先に、siriが開発された。オトボケ回答を除けば、結構な精度で応答してくれる。楽しい。

本を買えば、ちょっと魅惑的な関連本を推薦してくれる。ポテトをすすめるよりも、ナイスなチョイスで。

ロボットと戦わないといけない社会を警戒していたが、実はとっくに人工知能との生活は始まっているのかもしれない。

siriにちょっとしたことを頼むときに、いつもそう思ってしまう。

すでにHALよりも、ちゃんと受け答えしてくれているではないか。「OK、google」と話しかけると、ちょっと凹んだ口調で応答してくるけど。

ロボット三原則を読み直すまでもなく、充分快適な関係は始まっているのではないだろうか。

2017年4月8日土曜日

海外ドラマ『ハンニバル』はやめておこう。理由? おもんないから。

『羊たちの沈黙』はサイコホラーとという言葉を知らしめた作品であった。

その続編も、三作目も評価は分かれるだろう。だいぶ、マニアを厳選したきらいがある。

この犯人のハンニバル・レクターの前半生を題材にしたという、ドラマ『ハンニバル』が日本でも、ケーブルテレビで放映された。

そして、3stシーズンで終了となった。乾杯!

1stシーズンは面白かった。

主人公のウィルが警察に協力して、殺人現場に到着すると、トリップして犯人になりきる。

そこで犯行現場を正確に分析し、どういう人物であるか、たちまち見破ってしまう。

しかし、その特殊な能力ゆえに、現実との境界が危うくなり、レクター博士に陥れられる。

というのが、1stシーズンのクライマックス。演出といい、展開といい、行き着く暇もなく、見応えがあった。

ところが、である。

そこから2stシーズンは、見事に急ブレーキで失速していく。

逮捕されたウィルと、レクター博士の確執やら、次から次に、飽きるほど猟奇的な犯罪が起こる。いや、実際、そればかりの繰り返しなので、びっくりするぐらいの速度で飽きる。

見ていて、いろんな感情が芽生えるのではなく、ウィルと同様、どんどん酩酊していくような気分でいると、思わせぶりな終わり方で、番組が終わる。うっかり、見過ごしても大して気にならない。いや、もう見なくても気にならなくなる。

ズームやスローや、特殊技術で、美しい自然を堪能できる映像美はある。

しかし、それ以外に見所は実は少ない。

一話完結ではないから、だらだらと駆け引きが続いて、何の話だったかわからなくなるし、大した展開でもないのに過剰な大音量の繰り返しは茶番である。

『ブレイキング・バッド』のスピンオフとして、Netflixで配信された『ベター・コール・ソウル』はオリジナルの前エピソードという設定。

だから、ちゃんと2000年代のフィーチャーフォンと、固定電話がメインである。タブレット端末は存在しない世界という、世界観を大事にしている。

『ジ・アメリカンズ』も冷戦末期を舞台にしているから、ちゃんと当時の衣装や、ヘアスタイルをモチーフにしている。
その点、『ハンニバル』は2013年を舞台にして、過去のハンニバル・レクターを描こうとするなど、設定が雑。

つまり、例のアレだ。

『羊たち〜』で、あんなに衝撃的な猟奇的殺人が、続編を追うごとに単調になり、眠気を誘って過剰な効果音に頼らないといけなくなる、アレと同じである。

ダメだ、こりゃ感が満載の作品なので、3stシリーズまでよくもったものであると、逆に新鮮である。

もっと面白いのに、1stシーズンだけで、終わる(『ビリーブ』とか『マインド・ゲーム』とか)ものがあるというのに、あの単調で、気取ったレクター博士をぼんやり眺めるだけで、3stシーズンまで続くのか。

まあ、終わったんだから、いいか。良かった良かった。配信しているところには悪いけど、おもんなかった。

かつての映画のヒット作のリメイクものとしては、ワースト第一位といえるだろう。(ちなみに二位は『ラッシュ・アワー』、三位はマギー・Qの胸の谷間以外に見所がない『ニキータ』だと思う)

2017年4月6日木曜日

痛みから考えた祝福された死

普段の運動不足がたたったのか、肩こりから背筋や腰痛やらで、整骨院に行くことに。

結構、しっかり背術されながら、思わず声を漏らした。

とっさに痛みに耐えないといけないと思った。

痛みを取るために、痛みとはなんなのか。そんなことを考えながら、ふと思った。

男性は痛みに強いという、テストについて。

冷たい水に、同じ年齢の男女が手を入れ、どれだけ耐えられるか。

痛みを感じる感覚器官は男女とも同じで、感じる冷たさも同じなのだが、結果的に男性はそれでも、冷たさに長時間耐えた。

「男の子はそれぐらいで、泣かない」

そういう教育がされた結果であるという。日本ではない。アメリカでのテストであった。

実際、日本でも、痛みに耐えることは男性の美徳として教育される。

それはそれでいい。文化である。

しかし、年配の男性たちは痛みを訴える方法すら身につけることなく、老いているのではないか。

時々、見受けられる老夫婦の介護疲れの惨事を思い出した。

「奥さんは周囲とコミュニケーションをとるが、ご主人は見栄をはるから、周囲に助けを求めない」

そんな手厳しい意見を耳にした。

手厳しいと感じるのは、年配の男性こそ、痛みを訴えることが許されなかったからではないだろうかと思うからだ。

痛みに耐えること。その苦痛を誰にも訴えず、墓の中に持っていく覚悟。それしか知らずに、生きてきた。見栄など、お気楽な言葉で片付けては、余りに非情である。

その果てに、痴呆症の進んだ愛妻の首を締めないとしたら、どんな気持ちだっただろう。想像するだに、恐ろしい。

妻殺しの罪業を背負って、死ねれば、まだ祝福された死である。少なくとも、一人の魂は現世から逃れ出た。

しかし、自分が死ねなかったとしたら、老父はどうなるのだろう。

まさに呪われた生。生き地獄である。

刑事法で殺人罪を問われ、情状酌量となるかもしれない。

しかし、道義的にそうはいかない。幸せにすると誓った相手を、守れなかったばかりか、その反対のことをしてしまったことに、苦しみ続けるのだ。そればかりか、誰も殺してくれず、世界中の人間が結束して、一日でも長く生きながらえて、苦しめと責め苛むのだ。

あれだけ耐えた上で、まだ苦しみに耐えろというのか。

神様ですら、つがいの動物を作ることはできても、エバを創造するのに、アダムの肋骨を必要としたのだ。アダムもくすぐったかったのではないだろう。神様すら、男に痛みを強いるのだ。

やはり痛みに耐えられないといけないのだ。それはいわば、宿命なのではないだろうか。

時々見受ける、”男っぽい性格”を自称する女性が大嫌いのは、実にこの一点である。

男性が負わされる社会的な責務や、道徳的な債務について一切斟酌できないぐらいマヌケで、無神経に奔放であることが、男性的であると勘違いする頭の不出来。

そして何より、女性として生きていることの覚悟のなさである。

自分のアンポンタン加減を、額に貼っていることに気づかない間抜けさが嫌いなのだ。

2017年3月29日水曜日

この話したっけ?

祖山の青葉祭りを主任と二人で取材したあとのこと。

表紙面のレイアウトはいつも昨年と違うものにしようとしてきた。しかし、一年ごとに同じレイアウトになっていたと説明された。

今年は違う。去年から相対的に考えるのではない。全くオリジナルで、写真素材を見つめて、どういうレイアウトにするか考えると、主任は息巻いていた。

かくして、熟慮の末、決定したレイアウトは、、、去年と全く同じものであった。

つまりレイアウトの引き出しが少なかったのである。

ブログ記事を思いついて、一生懸命メモをとる。

取っていて、ふと思い返す。すでに書いていた気がする。気がするだけのこともあるが、そうでもないこともする。

酔っ払ったおじいちゃんが、同じ話をリフレインしているのに、閉口させられた。それと同じことを自分もしているのだろうか。

ここまで書いてきて、ふと思った。

「話題がリフレインしてないだろうか?」

そういうことを考えてしまうから、ブログを書いていくのが面倒臭くなってしまうのだ。

まあ、真面目に取り組みすぎか。

2017年3月26日日曜日

プレイボーイ!

高校野球の試合開始。

サイレンが鳴り終わり、各校の応援が地鳴りのように、轟く。

試合開始を宣言すべく、キャッチャーの後ろに立った主審が、拳を振り上げて、高らかに発声する。

「プレイボーイ!」

ざわ、ざわ。

今、確かに、「イ」っていうたよな? まじで?

Play ball!(試合開始!) 。

それはある意味、pray to ball(玉に祈れ)。正々堂々と精一杯戦って、それでも負けたら、それはボールのせいだからな。負けても、言いっこなしだ。

という意味もあるのかもしれない。

選抜高校野球が始まっているらしいが、あまり野球に詳しくない。

玉に祈れ。

日本人がもっとも苦手な発音の違い(RとL)は、別の意味も含んで、意味が深くないだろうか。

考えすぎか

やっぱり、Play ball(ボール以外の手段、たとえ相手チームのピッチャーに拳を振り上げて、一発ノックアウトしても、それは勝利ではない)のほうがしっくりくる。

もちろん、色んな女性との火遊びを楽しむ男の呼称は場違いであることには間違いない。

2017年3月25日土曜日

夜のラブレター

コピー書きの仕事をしていた時、残業をしていると注意された。

「夜に書いたテキストは、無意識に気持ちが高ぶっているから、そのままお客さんに出さないように」

つまり夜に書いたラブレターは、気持ちが盛り上がって、相手がドン引きする文面になっている。それに気づかず、投函した場合は、大体失恋するというのだ。

逆に、感覚機関だけでいうなら、朝食より、夕食の方が、美味しく感じてしまう。

味覚が覚醒しているために、実は夜にバナナを食べた方がおいしいのだとか。

朝=目が覚めて時間を経過していないから、頭がリフレッシュされている。味覚の精度は低いが、冷静な判断がしやすい。

夜=目が覚めて時間を経過しているから、感覚が冴えているが、頭は疲れているので、正しい判断が難しくなっている。

悩んだ挙句、翌朝になると、実は対した問題ではないことに気がつくというのは、大体、こうした理屈であるらしい。

ブログを書こうと力む。

仕事を終えて、一つのトピックを話題にして、何かを書こうとする。

知らない間に、話題が飛び回り、あれこれと書いてしまう。

夕食のビュッフェはお腹周りに直結してしまうようなものである。

結果として、ボリュームのあるテキストになる。

読みにくい。

次に書くまで、腰が重くなる。

まるで、肥満の症状のようである。

茂木健一郎だったか、彼の話では朝にブログを書くのがいいという。

頭を整理するのに、いいし、実は頭が覚醒していく途中なので、クリエイティブな能力も機能しやすいという。(こんなアイデアなんか、やっぱりつまらないのではないか、という理性的なブレーキが甘くなっているためなんだとか)
などなど、たくさん書いてしまった。

短くて、ちょっと読めるもの。

そんなラフなものを継続していけたら。

ちなみに、現在、休日の朝の10時。あかんがな。

2017年3月20日月曜日

やっつけ棺桶

お彼岸だけに、亡き親族のことを思う。

祖父に対して、ぼんやりした記憶より、一番思い出されるのは、出棺の時である。

小学生で、父から工具類の取り扱いの初歩を習っていたので、いざ棺桶に釘を打つという段になって、着々と作業をした。

周囲がすすり泣いているのにも構わず、与えられた釘を着実に打ち付けた。最後のストロークは少し短くして、微調整をした甲斐もあって、棺桶本体は全く無傷という仕上がりである。

(おじいちゃん、見て、この仕上がり、すごいだろ?)

と一瞬思った。思ってから、そうか、中から見えないのか。二度とこの仕上がりを見せてもらうことも、褒めてもらうこともできないのかと気がついた。

ところが隣の、いとこのお姉さんが泣き泣き打つ釘を見て唖然とした。思い切り曲がり、こちらにお辞儀をしているではないか。

いつも偉そうにいうくせに、何をしているのだ。

(泣いている場合か)

金槌の反対が、くぎぬきになっているものではない。飾りで細くなっている方をテコにして、なんとか釘を抜けないものか。

その作業にもたついていると、父だったか、叔父だったかが来た。

「何やってるんだ」

問われて、わけを説明すると、金槌を取り上げ、曲がった釘ごと棺桶に叩き込むという暴挙に出たのである。

うわ。無茶すんなぁ。

しかしそうこうしているうちに、大人たちによって、棺桶が持ち上げられる。

いくら死んだとはいえ、あのやっつけ仕事は何とも申し訳ない気がした。いとこのどんくささを、どうしてもっと早くカバーできなかったのだ。どの釘も真っ直ぐに打たれるから、祖父も天国に出かけるのに、蓋が引っかからず、スムーズに出られるのではないか。

祖父の白衣がひっかかりはしないだろうか。悲しみもあったが、それよりも、曲がった釘が気がかりであった。

黒柳徹子は火葬場で、参列者を素早く目算し、お骨は一人いくつまで拾ってくださいと告げて回ったという。

何となく、わかるような気がする。

祖父に申し訳ないと思う一方、誠実に見送ることと、日常的な整合性が混乱してしまうのだ。素直に泣いて、取り乱しても許されるし、そうするための場であるのだが、祖父に見られている気がすると、決してそうもいかない。

ただ少なくとも、自分が棺桶に入るときは、真っ直ぐに釘を打ってほしい。