ロンドンに行ったときのこと。
オープンテラスのカフェで店員にいった。
「アッシュ、トレイ、プリーズ(灰皿をください)」
店員は灰皿を持ってきたが、アジア系の若造にキングス・イングリッシュを教えてやる必要があると思ったのだろう。
テーブルに置く前に、何度か、子音も聞き取りやすい、王国の英語を繰り返してくれた。意味は通じたんだから、と思ったが、彼らにしてみれば、耳障りな発音は不快なのだろう。
自分が何かを語ると、言い終わる前に、否定する人と会うことがある。
「最近、疲れまして」
「そんなのは、疲れたうちに入らないよ」
「なかなか体重が減らなくて」
「昔から腹八分というだろう」
云々。
膏薬と屁理屈には、何にでもつくという俗諺はあまり好きではないが、説教臭い人と合うと、その月並みさが一周回っておかしくなってくる。
俗説に思い込みを重ねただけの、先入観どころか、本人の妄想でしかないのだが、本人はまるで自覚なく、聞きかじりの道徳観を延々と語る。
すごいなぁ。
少し大げさに頷いたり、関心してやると、ますます悦に入って話す。さっきのリフレインであることにも無自覚に。
人種差別の現場を目の当たりにしたことはない。
しかし人を見下している人ほど、そのことに無自覚である。
最初から犬を追い払うように接してくる人はいた。この人の中で、自分は野良犬同然なのだと思うと、なんだか可笑しくなってくる。
本人は人間のつもりなんだろうが、犬より頭が良くないといけないと思っているから、10分も話せば、ただの臆病者であることが露呈する。
七十年代以降、人種差別を否定する人たちは、こう言っていたらしい。
「自分は高い教育を受けたので、差別をするような蒙昧はない」
イデオロギーではなく、民主国家の主権者として当然だし一貫している。
だから、人を見下したり、差別を無自覚にしている人を見受けると、時々痛ましい気分になる。
高い教育プログラムを受ける機会がなかったのだ。病気を自覚する機会に恵まれなかったのだ。
太陽の周りを、この広い地球が回っているということが、理解できないのと同じように、人間が対等であるという事実を認識できないのだ。
この場に、ダライ・ラマがいたならどうだろう。
偉大な魂、マハートマー・ガーンディーがいたならどうだろう。
きっと優しく、相手に順を追って諭していたのではないだろうか。そういう人たちに対して、自分は到底足元に及ばない。
薄ら笑いを含んで、大げさに感心してみせ、小動物をなぶる猫のように、腹の中で嘲笑している。
人に本心を知られたくない。実に卑しい。
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