2017年4月29日土曜日

僧侶のモンク

真宗大谷派の職員2名に対して、残業代が二年間支払わず、660万円が支払われることになったというニュース。

(修行なのに?)

という声が意外と身近に多くて、驚いた。

二つ感じることがあった。

一つ目。雇用関係と師弟関係。

師僧と弟子の関係でいうなら、残業代など論外である。

師匠に絶対服従であるし、師匠に命を預ける覚悟でなければ、それは修行ではない。(この傾向はチベットのニンマ派でも強かったため、師匠=ラマを崇拝する=ラマ教などという、怪しげな呼称が最近まで使用された)

そして何よりも大事なのは、師匠はその全責任を負うということ。

弟子の不始末も、能力も、全て師匠の責任であり、弟子の将来においても、全て保証しないといけない。弟子が勝手にやりました、なんて論理は通じないのだ。

これほど、師弟関係とは本来、主従関係以上に濃密な関係であるため、近代知識人にはしばしば同性愛と錯覚されたこともあるくらいである。

ところが、今回の本山職員というのは雇用関係(厳密には法主との師弟関係であるが、職員は大人数であり、一人ずつの人生を保証するのは不可能)である。

そのため過酷な環境下で、労働を強いられることは、単なる奴隷制度でしかない。

そこに”修行だから”という自己犠牲を強いるのは、完全にブラック。

残念なことに、昔、他宗派の本山職員に何人か話を聞いたことが、大なり小なり、ブラックである。

今回、残業代という話題にフォーカスされて、基本給について何も語られないでいるが、実は基本給はもっと真っ黒なのだ。

二つ目。修行って何?

仏教とは、少なくとも、お釈迦さんが説いたことや、その精神を継承していること。それ以外のことは、仏教ではない。

「観光バスで来た、参拝者をお接待して、快適に過ごしてもらうよう、精進しなさい」

お釈迦さんがそういったとしたのだとしたら、それは立派な仏道修行である。

ところがお釈迦さんはそう説かれなかった。

人々を救うと、彼自身決意したが、お布施を貰って、本山を維持するために働けとは一切口にしていないのだ。

仏教民俗学の五来重は、寺院の歴史を語る際に、

「古代には荘園経済で成り立ち、近世は檀家経済で成り立ち、現代は観光経済でなりたっている」

と評した。

事実、信仰と観光は現代において、特に不即不離である。
逆にいうと、その程度のことである。およそ、精舎に集って、教えを聞き、瞑想するという、仏教的な修行とは程遠い。

延暦寺の回峰行を行う、行者は生死をかけて、人々の安穏を祈る。

にこやかに、老人たちを玄関先まで迎えて、本尊の前で聞き取りやすいよう、功徳の効能書きをマイクを使って、並べ立てて、朱印帳やお守りを売るのではない。

秘されて、密かに祈り、回向する。

こうしたことは一切、明らかにされなくていいし、されるべきではない。

全て明らかにされるべきなどという論は、近代人の思い上がりであり、ただの暴力である。

参拝者を案内するのが、修行だというのは、ブッダではなく、カール・マルクスの教えというべきだろう。

本当は、本山職員の二人だけではないだろう。

超ブラックな環境下で多くの、若い僧侶たちが自己犠牲を強いられた。

そして、そのことに気づかず、彼らの頰を札で叩くように、参拝していたのだとしたら、それはもう信仰ではない。

奇しくも、数日前、全国にある仏教寺院七万五千のうち、一万三千が不住(住職がおらず、他から兼任)という実態が報道された。

後継者不足ということは、二十年以上前から言われているが、これらは全て繋がっている。

全ての事象には因果関係があると説くのが仏教であるがゆえに、皮肉を感じずにはいられない。

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