普段の運動不足がたたったのか、肩こりから背筋や腰痛やらで、整骨院に行くことに。
結構、しっかり背術されながら、思わず声を漏らした。
とっさに痛みに耐えないといけないと思った。
痛みを取るために、痛みとはなんなのか。そんなことを考えながら、ふと思った。
男性は痛みに強いという、テストについて。
冷たい水に、同じ年齢の男女が手を入れ、どれだけ耐えられるか。
痛みを感じる感覚器官は男女とも同じで、感じる冷たさも同じなのだが、結果的に男性はそれでも、冷たさに長時間耐えた。
「男の子はそれぐらいで、泣かない」
そういう教育がされた結果であるという。日本ではない。アメリカでのテストであった。
実際、日本でも、痛みに耐えることは男性の美徳として教育される。
それはそれでいい。文化である。
しかし、年配の男性たちは痛みを訴える方法すら身につけることなく、老いているのではないか。
時々、見受けられる老夫婦の介護疲れの惨事を思い出した。
「奥さんは周囲とコミュニケーションをとるが、ご主人は見栄をはるから、周囲に助けを求めない」
そんな手厳しい意見を耳にした。
手厳しいと感じるのは、年配の男性こそ、痛みを訴えることが許されなかったからではないだろうかと思うからだ。
痛みに耐えること。その苦痛を誰にも訴えず、墓の中に持っていく覚悟。それしか知らずに、生きてきた。見栄など、お気楽な言葉で片付けては、余りに非情である。
その果てに、痴呆症の進んだ愛妻の首を締めないとしたら、どんな気持ちだっただろう。想像するだに、恐ろしい。
妻殺しの罪業を背負って、死ねれば、まだ祝福された死である。少なくとも、一人の魂は現世から逃れ出た。
しかし、自分が死ねなかったとしたら、老父はどうなるのだろう。
まさに呪われた生。生き地獄である。
刑事法で殺人罪を問われ、情状酌量となるかもしれない。
しかし、道義的にそうはいかない。幸せにすると誓った相手を、守れなかったばかりか、その反対のことをしてしまったことに、苦しみ続けるのだ。そればかりか、誰も殺してくれず、世界中の人間が結束して、一日でも長く生きながらえて、苦しめと責め苛むのだ。
あれだけ耐えた上で、まだ苦しみに耐えろというのか。
神様ですら、つがいの動物を作ることはできても、エバを創造するのに、アダムの肋骨を必要としたのだ。アダムもくすぐったかったのではないだろう。神様すら、男に痛みを強いるのだ。
やはり痛みに耐えられないといけないのだ。それはいわば、宿命なのではないだろうか。
時々見受ける、”男っぽい性格”を自称する女性が大嫌いのは、実にこの一点である。
男性が負わされる社会的な責務や、道徳的な債務について一切斟酌できないぐらいマヌケで、無神経に奔放であることが、男性的であると勘違いする頭の不出来。
そして何より、女性として生きていることの覚悟のなさである。
自分のアンポンタン加減を、額に貼っていることに気づかない間抜けさが嫌いなのだ。
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