2017年5月21日日曜日

失われてから20年だそうで

日曜日の朝はできるだけ地上波を見ないようにしている。

ヒーローものを見る年齢ではなく、それ以外にしかつめらしい顔した討論やら、芸能人のポコチン事情に興味がないからだ。

何より、悲壮さを演じて語られるのが”経済成長率”なるキーワードである。

どうやら我が国が、去年よりどれだけ儲かったのかを測るのに用いられ言葉らしい。株式会社日本の利益は、マイナス成長とかずっと低空飛行である。

というか、そもそもそんなものを信じていいのか。見通しがいいと誰かが素面で語ったこともニュースになるが、それで日本の景気が良くなったという話はついぞ聞いたことがない。

十代のとき、駅前にあった古本屋で富田常雄の小説を買った(確か姿三四郎の外伝で柔道水滸伝)。当時の単行本の半値以下の価格が背表紙に印刷されていた。

今考えると、これが経済成長率だと分かる。

70年の初任給(39,900円)と、90年の初任給(169,900円)を比べると、それは一目瞭然だろう。1円の価値が相対的に低くなる。

古本に印刷されていた値段がめちゃくちゃ安いのではない。当時の相場だが、経済が成長して、流通する金額が上がり、相対的に印刷された値段が安く見えるのだ。

では、1997年(193,900円)年代と現代の初任給(203,400円)を比べるとどうだろうか。同じ20年というタイムスパンだとしても、到底比べられるものではない。

こんな他人任せ、成り行き次第な経済成長率に対して、まともに人生を賭けて追求するなんて、アタマ大丈夫かと言いたくなる。

”失われた10年”と20年前に言われていた。何が失われたのか。

地価とゴルフ場会員権の高騰と、お立ち台ギャルのスカートの短さを指しているのだとしたら、それはシンプルな感想にまとめられるのではないだろうか。くそくらえと。

だから若い人が大人にそそのかされて、仕事ができる男になれば幸せになれると信じている姿を見ると、いたたまれなくなる。

タラコを咥えたかと見まごうばかりの、極端に唇の赤いメイクをしている、若い女性を見かけたときと似たような心境になる。(きっと彼女の中で、唇が赤いのは、生き血をすすっていない限りにおいて女性としての魅力があると錯覚しているのだ。)

哲学的な思索と経済的な成功はまるで無関係だと、なぜ、誰もいわないのか。自己実現と、経済的な所得に何の因果関係をないと、誰も言わないのか。

たかだか経済的な成功をしただけの、うすらバカの言葉を、どうしてそんなに拝聴したがるのか。ご機嫌をとってやれば実入りがいいのか。

考えてみれば明白ではないか。

もし思索と収入が同一なら、先人の哲学者の言葉を母国語として読める、インドやギリシア、ドイツが世界の経済大国として覇権を握っているではないか。

金儲けは大事だ。だが、金儲けしか生きる道がないのだとするならは、それは奴隷制以下の、総奴隷社会である。

経済成長率が芳しくないと、しょげた口調でいうテレビの人々を見ると、ふっと笑いたくなる。やっぱり今年も不作だべと、半笑いで肩を叩いてやりたくなる。

ましてや、経済優先で家族を顧みない人や、そうした価値観を強要する人を見受けると、ドン引きである。

40年前の、他人の経済成功と同じ方法を模倣すれば、儲かると根拠なく信じているのだ。ほとんどカルトではないか。

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