2017年7月31日月曜日

地獄がなければ割に合わない

源信をテーマにした展示を見たせいか、地獄について深く知る。

天国と地獄という対比にあるように、天国はフルチンの天使たちがハープを奏でている場所だが、地獄のイメージはいたって東洋である。

それもこれも、源信の往生要集を基にして、絵巻が発達した功績は大きい。

地獄も天国も信じない。死後の世界は無である、という人がいる。さも、迷信を信じない理知的な人間であるかのような顔をしているが、本当だろうか。

どうも親しめない。真面目に、自分が死ぬという未来すら、まともに考えたことがないような気がする。

確かに、善行を恐喝するような地獄絵図は感心しない。

しかし、地獄を非道徳の刑罰としてしか捕らえないのは、いささか幼稚が過ぎるような気がする。

地獄の存在は信じる。それを見てきた人がないとしても、信じる。

そうでないと、割に合わないからだ。

自分は決して天国や極楽に迎えられるような人間ではない。

過去にいくつも罪を犯している。刑法上ではなく、道徳上の罪を数えきれないくらい犯している。

うすうす気づいている。自分は灼熱の中、地獄の業火に焼かれるのであろうと。

ところが唯一の救いは、閻魔大王の裁判は量刑制であるということだ。

つまり罪を犯しても、その後、悔い改めて、善行を死ぬまでどれだけ行ったかで、相殺されるのだ。

地獄にいくだろうが、そこで最悪な場所ではなく、いくらかマシなところに放り込まれるように、今は善行による返済に追われている。

業火で焼かれるにしても、ウェルダンではなく、限りなくミディアム、あわよくばレアにしてもらえないか。そんな切実な願いで、できるだけ人に優しく接していくように心がけている。

極楽にいけると確信できるほど、お気楽には生きていない。自分のような人間なら、迎えに来た阿弥陀さんも引き返されるかもしれない。

ならば、賄賂が通じない相手には、彼らのルールで返済していくしかない。

だから、自分の道徳は保たれていると思っている。

だが、もしも、である。

もしも、地獄がないのだとしたら? こんなバカバカしいことはない。

民事・刑事はもちろん、道徳的にも、罪を犯しても、裁かれないのだとしたら、それこそ救いがない。

そして、それだけではない。

結構な火力で全身を焼け焦げにされながら、思うのだ。

これが地獄の業火に身を焼かれるということなのかと。現世で経験した生き地獄なんて、比べて、と。

到底、比べられないのか、現世の方がはるかに苦しいのか。
そこを見極められるのでなければ、現世で苦しんでいることに意味がない。バカバカしい。

現世で生きている苦しみと、比べられないなら、苦しくとも生きていることに意味があるのか。

「なぁんだ、地獄の苦しみなど、こんなものか。生き地獄といって、生きていた時のほうが苦しかったではないか」

「さすが地獄。生きていた時は、生き地獄と感じることがあったが、あんなのはまだまだ序の口だった」

どっちかを思うはずだ。ミディアムであったとしても。

地獄がないのだとしたら、生きていく苦しみだけが苦しみである。バカバカしい。面倒臭いから、煩わしいからと思いつめて自殺する人の方が、痛みに耐えて生きているより、一理あるではないか。

そんなものはニヒリズムである。

地獄があるからこそ、生き地獄があり、耐える意味があるのではないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿