源信をテーマにした展示を見たせいか、地獄について深く知る。
天国と地獄という対比にあるように、天国はフルチンの天使たちがハープを奏でている場所だが、地獄のイメージはいたって東洋である。
それもこれも、源信の往生要集を基にして、絵巻が発達した功績は大きい。
地獄も天国も信じない。死後の世界は無である、という人がいる。さも、迷信を信じない理知的な人間であるかのような顔をしているが、本当だろうか。
どうも親しめない。真面目に、自分が死ぬという未来すら、まともに考えたことがないような気がする。
確かに、善行を恐喝するような地獄絵図は感心しない。
しかし、地獄を非道徳の刑罰としてしか捕らえないのは、いささか幼稚が過ぎるような気がする。
地獄の存在は信じる。それを見てきた人がないとしても、信じる。
そうでないと、割に合わないからだ。
自分は決して天国や極楽に迎えられるような人間ではない。
過去にいくつも罪を犯している。刑法上ではなく、道徳上の罪を数えきれないくらい犯している。
うすうす気づいている。自分は灼熱の中、地獄の業火に焼かれるのであろうと。
ところが唯一の救いは、閻魔大王の裁判は量刑制であるということだ。
つまり罪を犯しても、その後、悔い改めて、善行を死ぬまでどれだけ行ったかで、相殺されるのだ。
地獄にいくだろうが、そこで最悪な場所ではなく、いくらかマシなところに放り込まれるように、今は善行による返済に追われている。
業火で焼かれるにしても、ウェルダンではなく、限りなくミディアム、あわよくばレアにしてもらえないか。そんな切実な願いで、できるだけ人に優しく接していくように心がけている。
極楽にいけると確信できるほど、お気楽には生きていない。自分のような人間なら、迎えに来た阿弥陀さんも引き返されるかもしれない。
ならば、賄賂が通じない相手には、彼らのルールで返済していくしかない。
だから、自分の道徳は保たれていると思っている。
だが、もしも、である。
もしも、地獄がないのだとしたら? こんなバカバカしいことはない。
民事・刑事はもちろん、道徳的にも、罪を犯しても、裁かれないのだとしたら、それこそ救いがない。
そして、それだけではない。
結構な火力で全身を焼け焦げにされながら、思うのだ。
これが地獄の業火に身を焼かれるということなのかと。現世で経験した生き地獄なんて、比べて、と。
到底、比べられないのか、現世の方がはるかに苦しいのか。
そこを見極められるのでなければ、現世で苦しんでいることに意味がない。バカバカしい。
現世で生きている苦しみと、比べられないなら、苦しくとも生きていることに意味があるのか。
「なぁんだ、地獄の苦しみなど、こんなものか。生き地獄といって、生きていた時のほうが苦しかったではないか」
「さすが地獄。生きていた時は、生き地獄と感じることがあったが、あんなのはまだまだ序の口だった」
どっちかを思うはずだ。ミディアムであったとしても。
地獄がないのだとしたら、生きていく苦しみだけが苦しみである。バカバカしい。面倒臭いから、煩わしいからと思いつめて自殺する人の方が、痛みに耐えて生きているより、一理あるではないか。
そんなものはニヒリズムである。
地獄があるからこそ、生き地獄があり、耐える意味があるのではないか。
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