2015年1月31日土曜日

男らしさ幻想論

俺が法律とか

 ハードボイルドの文芸作品のなかで、かっこよくいえば異端児、悪い言えば亜流といわれるのが、ミッキー・スピレインのマイク・ハマー・シリーズといわれる。

 『裁くのは俺だ』など、タイトルが示すように、マイク・ハマーが苦りきった表情でドンパチやらかすもので、なんちゃってハードボイルドはこれをルーツにしているといえるだろう。

 強い男。戦う男。勝つ男。

 自らの逆境を呪い、戦いのなかで、敵を羨み、それでも恨み言をいわずに生き残るために、泥の中を這いずりまわる。そんな葛藤など、微塵もない。

 こうしたマッチョは、正に筋肉に象徴される強さであり、ビジュアルは強そうだが、実に脆い。自らの弱さを自覚しておきながら、戦わざるを得ない、エド・マクベインの87分署の人々に比べて、人物造詣が浅いだろう。


ハーレーという記号

 アメリカン・チョッパーというドキュメンタリー番組がある。

 ハーレー・ダビッドソンをアレンジすることを生業にしている、親子を取り上げたものである。

 バイクには全然知識がない。

 試しに見てみる。

 クライアントが来て、主役の親子たちと、仲間の前でイメージを語る。こんなイメージで、アレンジしてほしい。色は任せる。こんなデザインがいい。

 数日して、仲間が提案してくるデザインに、親子は余りコメントしない。クライアントが来る。プレゼンをすると、なんとなく表情が曇る。

「やっぱりな」

 親子の一人が、カメラに後からコメントする。仲間が提案したデザインは、変だと思ったんだ。でも、本人に分からせてやる必要があると思ったんだ。

 うん? なんか、面倒くさいぞ。なに、その上から目線。しかも、打ち合わせに一緒におったよな。アドバイスとかなかったんや? 仲間なのに失敗するのを、待ってた?

 見れば見るほど、変なのは、親子のほうなのだ。

 ノースリーブのシャツで、腕の刺青を見せびらかし、親子兄弟もれなく巨体なのだが、デザインを語ることや微細な駆け引き、やりこめようとする作為などは、ほとんどオネエなのである。

「ここは俺に任せて、先にいけ」

 そんなことを口にするものは誰もいない。あのこったら、やっぱりおかしくてよ。だってほら、御覧なさいよ、おかしな髪型だと思わないこと? まあ、恥ずかしいわ。私たち、ワイルドを売りにしてるのを、ご存知ないのかしら。

 つまり、取り扱っている記号は、モトクロス用ではなく、ロード用の大型バイクである。ボーン・トゥ・ビー・ワイルド。

 だが、やっていることは、見まごうことなく、オネエである。親子の会話すら、駆け引き満載なのだ。「俺の息子なんだろ。だったら、お前の作品はいいに決まってる。ちがうのか?」とは、決していわない。あのこったら、おかしくてよ、の連発なのだ。

 そんなもんなのだ。しばしば語られる男性らしさなど、実は記号や観念の弄びにすぎない。

 軍団、とか語っている、芸能プロダクションの俳優兼社長がバラエティに出ていた。料理を作り、ゲストにジャッジしてもらうというもの。

 社長はマグロ一匹の担ぎ上げ、頭を豪快に落とす。スタジオがどよめく。さすが男らしさを看板にしてきた俳優だと。

 ところが、そこからの凋落はみるも無残なものである。

 制限時間内に味噌汁以外、まともに完成できたものはなく、もたついたまま時間切れ。派手さが売りなだけで、実務にからきし弱いことを見事に証明させた。

 この手の強さは、実に分かりやすい。マイク・ハマーの強さは、分かりやすい記号である。

 だが、実に脆い。肉月扁に危うい、と描いている通り、本当に危うい。

 弱さを自覚せず、無限大に強いと確信するなど、犯罪者同様の誇大妄想である。弱さを自覚したと称して、それを盾に開き直るなど、単なる無神経に過ぎない。

 弱さを自覚し、それを恥じながら戦う。むしろ、自然な道理なのではないだろうか。

広大な砂漠のハイウェイではなく、
舗装された市内の道路を轟音たてて乗り回す。
さながら、「ワイルドだろう?」だ。

2015年1月30日金曜日

最短のための型

箸の話

 ちょうど大きいテーブルの向かいに座った茶髪の兄さんが、友人と話しながら、お箸を持ち変える。

 一本ずつを左右の手でもって、左右に開くのだ。驚いたことに餃子のくっついた部分をそれで引き離した。そして右手に持ち直すのだが、何やら親指の付け根に押当てるような、おかしな持ち方をした。指に何か障害があるのかと思ったが、そんな様子もなかった。
 
 単に、箸を変な持ち方をしているだけだった。可哀想に。きっと、フォーマルな場で箸を持つたびに、萎縮して、周囲の奇異なものを見るまなざしに耐えないといけないのだ。本人の人格とは全く関係なく、ちょっとイタい人のように見られるのだ。何故、そんないばらの道を選ぶのだろう。
 
 世の決まり事に逆らってみるのもいいが、ここでは、単なるイタい人になっているのではないか。そもそもそんなことが、自由なのか。不自由ではないのか。
 
 箸の持ち方がおかしいと、母親に叱られた。理由は外で人様に見られたときに、恥ずかしい思いをするということだった。
 
 一面、真理だろう。だが、厳密には本質ではない。無人島ですむことになったとしても、お箸はちゃんと持つべきだ。文明社会に復帰する見込みがないとしてもだ。それは美学の問題などではない。
 
 シンプルな理由がそこにはちゃんとある。


まとめた結果が型


 森鴎外がドイツ留学中に、こんなことがあったそうだ。
 
 教室で一番大きなビーカーに誰かが、鍵を落としてしまった。そのビーカーには水が入っていて、水を他に受けることができない。でも、鍵は急いで必要である。
 
 みんなが途方に暮れていると、鴎外は二本の細い棒を菜箸のように使って鍵を取り出すことに成功した。その機転に周囲は喝采の声を上げた。
 
 この話が中国や韓国など、日本と同じく箸を使う文化の人間なら、そんな奇想天外なアイデアとは思えない。

 しかしこれができない日本人もいる。先の茶髪の兄さんには無理なのだ。
 
 ちゃんとお箸を持てない人は、大体食べ物をこぼす。茶碗の米粒を残す。魚の食べ方が粗雑である。
 
 なぜか?
 
 何のことはない。箸が型通り持てないということは、指先の力を箸の先に伝えることができないのだ。箸の先をくちばしのように、何かを摘んだり、はさみ切ることができないのだ。
 
 つまり型というのは、単なる形式ではなく、合理的なものの極地にあるのだ。これを軽視することは、実は非合理的であるのだ。
 
 キーボードが打てないという人は、大体、指先をフォームに置かずに、キーボードの文字を探している。非合理的の典型だろう。
 
 見た目が無様だから、箸はちゃんともたないといけない、という意見はあながち間違いではない。しかし本質ではないと感じるのは、こうした理由だからだ。
 
 型よりも、即興性を重視する空手の流派や、総合格闘技と呼ばれるものは、しばしば集中力とクリティカルヒット以外に、修練する目標を失う。
 
 しかし型を主軸にしていると、点検項目が多い分だけ、理解も深まっていく。
 
 合理的の極地が、結局は最短距離なのだ。
 
 茶髪の兄さんは、この先、ずっとフォーマルな場所で箸を持つことをためらうのだろうか。テーブルをはさんだ年配の人が、ふっと表情を曇らせると、それが自分のせいではないかと苦しむのだろうか。
 
 余計な心配をしてしまう。頼まれてもいないのに。


ベトナム料理もお箸を使う。
きっと彼らのなかにも、お箸がうまく使えない人もいるハズ。

2015年1月29日木曜日

謎解きよりもうらやましい

Uボート

 第二次世界大戦でドイツが世界を震撼させた潜水艦Uボート。

 その小説を映画化したのが『Uボート』である。クライマックスは絶望的な襲撃シーンで終わる。

 ところが、そのことを聞きたくないという人がいた。いつか見たいと思いながら、見れずにいたという。その人の前でオチを語ることはタブーであった。

 しかし思った。そんなものが自由なのだろうかと。

 さっさと見ない方が悪いのではないかと。

犯人は全員とか

 古いミステリは余り好きではない。

 というのも、実は乗客全員が犯人だったという、謎解きそのものがチャチであったり、蛇をミルクで飼うとか、自然科学が発達してなかった時代の産物であったりする。

 だから、犯人が誰か分からないということに、余りに重きを置いたものは読まない。(新宿鮫は犯人より、解決するまでのプロセスが面白いし、87分署など犯人は突然、現れるぐらい)。

 そういう意味では、犯人を教えて欲しくない、という本は余り持っていない。(そう、家賃を払えず、婆さん殺したのは、ラスコーニコフである)

 だから所蔵している本を先に越されたとしても、全然悔しくない。謎ときがメインではないからだ。

 だが、愛読されると、悔しくなる。友人に佐々木譲を奨めたら、彼がいつしかエトロフ発緊急電の魅力を、説明するようになっていた。これは悔しい。

 自分が読み過ごしたところを、実に丹念に読んでいる。うらやましくてたまらない。

 だから、無造作に読むのが時々怖くなる。うっかり、読み飛ばしてしまっているのではないかと、けち臭い気分になる。

 その結果、大して読み進まないということになる。

 我ながら惨めな気分になることもある。このけち臭さ。先週なくなった陳舜臣の著作を、読み始めている。ああ、誰も彼の魅力を語られませんように。

「秘密」で検索してみたら、フリー画像にコンパスと定規。
フリーメーソンのイメージなのだろうか。
世界的に「有名な」秘密という矛盾。

2015年1月28日水曜日

ボキャブラリー

絶句
 本当に言葉を失うことなど、滅多にない。

 色々挫折することはあったが、それでも、言葉を失った記憶はない。絶望的な状況にあっても、それを整理しようとか、何か思う言葉はあった。

 しかしツイートを見ていて、案外、簡単に絶句してる人を見ると、逆に可笑しくなってしまう。わざわざ、名詞だけをつぶやいている。たとえば、

「たこやき。。。。」

「鍵が。。。。」

 というような、語尾がはっきりしないもの。

 語尾が曖昧な人は、大体、文章が下手なだけではなく、意見を求められても、何も出てこない。自分の意見ではなく、それを問われている状況に基づいた、私見を述べているだけということが多い。そういう人を沢山みてきた。

 おいしいとか、寒いとか、自分の主観を言わず、体言止めにしているツイートを見ていると、言葉の座りの悪さを感じる。そしてそれを感じない相手の感覚に、座りの悪さを感じる。

 まるで後半のドラゴン・ボールである。

 鳥山明が集英社に無理やり書かされて、とりあえず毎週描かされて、何かが破壊された後、登場人物が、ひたすら、

「ああ、あああ、ああああ・・・・・・・」

 と、言葉を失う。

 声優も気楽な商売だなと思った。あ、をコピペすればいいのだ。集英社も楽な商売であったろう。鳥山明さえ酷使してれば、あとはお札を刷ったようなものだったろう。

一本調子
 ネイティブ・アメリカンは生きている牛のことを、年齢によって20近くの呼び方で分けていたという。彼らの生活に因んだものは、それだけ細かに認識されていたのだ。

 日本語で青を意味する言葉は、12から18種類あったと聞いたことがある。現代では再現できないが、それほどたくさんの色を、認識できたのだ。そしてそれぞれに意味があった。

 推敲という言葉は、奥が深い。門を「推す」のか、「敲く」のか、どっちがいいかを熟慮する様。適切なのはどっちだろうか。それを問いかけ、自分で考える。

 決して、「門を。。。。」という他人任せなことはしない。そうだ。体言止めのツイートは結局、テキストを書きかけて、結論を他人に預けて、相手の類推に依存しているから、不快なのかもしれない。

 ときどき、自分の言葉すら発信せず、リツイートを延々と繰り返しているような人をみると、何か空しくなる。本当に主体性のない人なんだなぁと。ばかっぽく見られていることに、何ら抵抗がないんだなぁとか。

 何のためのツイートなんだろう。何のためのアカウントなんだろう。人との関わり合いを、旨く構築できない人なのではないか、などと、いらぬ心配をしてしまう。

 どうでもいいか。

2015年1月27日火曜日

ロケンロー

ビーズいかれちまった人

 ロックとハードボイルドは苦手である。

 結構、定義が広く、曖昧であって、主観的であったりする。しかも内田裕也とか、北方謙三とか、強面なおっさんたちに怒られそう。

 面倒くさい。

 それには原因がある。

 なんちゃって、ロック。なんちゃってハードボイルドが多いからではないだろうか。結構パチもんが多いと、純正品の価値が混乱する。

 これがロックだ。これがハードボイルドだ。どれも面倒くさくて、好きではない。

 さらにいやになるのは、二つ。

 若い人がポップソングでも、ギターが派手だと、ロックだと信じて疑わなかったり、年配の人がストリートファッションを模倣していたりすると、しんどい。

 どこで見たのか、以前、たまたまテレビをつけていたら、こんなシーンがあった。主人公の年配女性が、八百屋をしている友人を訪ねる。同じ年頃の女性でありながら、彼女は闊達で、店頭でロックをかけているという場面。

 ラジカセからはB'zが流れており、ねじり鉢巻のバアさんがこういう。

「あたしゃすっかり、ロックにイカレちまってるんだよ」

 わお。違う意味で、確かにイカレちまってるかも。。。

相応でいいではないか


 高齢の男性が社員旅行で、若い女性社員にせがんで『高校三年生』をデュエットしたと聞いたことがある。

 彼にとって、その曲を若い女性と一緒に歌えるなんて、もう萌えの極地だったのだ。孫が高校三年生になろうかとしていたのだろうが、関係ない。この曲は彼の青春なのだ。No bady can stop him!!

 グループサウンドを愛唱していた世代は、グループサウンドを歌えばいいではないか。正々堂々と、好きなものを愛せばいい。


 若いくせにさだまさしや、アリスを聞いて、歌謡曲が新鮮だとかなんとか、通ぶった御託を抜かしてけつかる人は信用できない。

 上目遣いで若造どもに媚びて、流行だろう曲を口ずさむなんて、ちゃらさのきわみである。なんちゃってパンクでもいいではないか。なんちゃってロック、上等ではないか。

 あのとき、愛したのだから、今も愛するのだから、それでいいではないか。

 ただ好きだからというのではない。好きだった記憶があるのなら、愛して当然だし、愛さずにはいられなくていいではないか。

 しかし、今どきB'zを聞いたバアさんが、ロックにイカレちゃったは ナシだ。今どきに、しかもB'zで、さらにあれがロックだと? やっぱりナシだ。

北島三郎のことを「日本のJB」と紹介していたのを見たことがある。
ということは、ジェームズ・ブラウンは「アメリカのサブちゃん」なんやろか。
ゲロッパ!

2015年1月26日月曜日

スザンナの沐浴

青砥藤綱の道理

 鎌倉時代の武家文化に夢中になったときがある。

 中でも、青砥藤綱のエピソードが好きだ。

 鎌倉幕府をまとめていた北条時頼が、鶴岡八幡宮に参篭したところ、夢告に青砥を重職に起用するよう、告げられた。

 そこで翌朝、彼を呼び、任じる沙汰を行ったところ、彼は即座に辞退した。

「夢で人を採用するなら、夢で斬られることもあるでしょう」

 武家の論理である。後世の後醍醐天皇が木の南を頼れという夢をみて、楠正成を招聘したのとは、対象的である。

 鎌倉時代の説話は、公家文化と違い、こうした論理的なものが多く、後のとんち話にもつながっていくのではないだろうか。

長老をとっちめる

 旧約聖書も実は説話集として読むべきなのではないだろうか。

 スザンナの沐浴は分かりやすい。

 富豪の妻スザンナが沐浴していることを知って、二人の長老が迫る。自分たちと関係を持たないと、お前が若い愛人と不貞を働いていると、言いふらすぞと。

 スザンナ、ピンチ。しかし彼女は毅然と彼らを退ける。報復に長老たちはスザンナの不貞を喧伝する。

 裁判が行われ、預言者ダニエルが長老を一人ずつ尋問する。そこで証言の矛盾を引き出し、彼らの証言こそ偽証であることを暴く。

 まるで大岡裁きみたいな、痛快さである。わが子を思って、手を離した方が、本当の母親である、みたいなノリである。

 スザンナの沐浴という題材は、スケベな老人への不快感や、スザンナの姿勢、ダニエルの機転と、結構面白い要素が含まれる。そのせいか、多くの画家に描かれているらしい。(お気に入りはヴァン・ダイク

 長老だから、偉いという権威ではなく、道理が勝つというところに、やはり一番魅力を感じる。

 スケベな爺さん。彼らに困らされている女性。非を明らかにする男。昼間のテレビを見ていると、これが実は日常的な舞台装置なのかもしれないと、思えてくる。


2015年1月25日日曜日

100円で手に入ったショックなこと



日本軍が愕然とした作品


 日本軍が第二次大戦中、グアムを攻略したときのこと。

 インフラ設備を破壊することなく、逃げたアメリカなど、恐るるなかれと結構盛り上がった。

 祝賀会を開くことになった。映画館で残っていたフィルムを上映する。

 ウォルト・ディズニーの作品。その色彩やアニメーションの技術に、圧倒される。日本にはモノクロしかなかったのに、アメリカではカラーで作成されていたばかりか、イマジネーションを見事に表現していた。

 タイトルは『ファンタジア』である。

 子供向けにここまでの作品を作る、余力を持った敵国の経済力に圧倒されたという。

 作品として、今みると、結構だるい。現代のほうが圧倒的に、面白い。

 このいわくつきの作品が、百円ショップのレジ横においてあった。百円ならば。。。


店にあった最後の一枚。
韓国の逆輸入なのか、ハングル表記が。


特色


 印刷はモノクロの場合は一色のインキで、カラーは青赤黄黒の四色で印刷する。

 しかし牛乳石鹸の「ベビーせっけん」は違う。キャラクターのキューピーの肌色、ロゴは白文字だが、その地色のピンク、そして商品名のタイトルが特色インキなのだ。つまり合計7色で印刷されている。

 通常、印刷機4色機しか機械はない。つまり4色印刷機に二回通さないといけない。結構、割高な印刷なのだ。

 キューピーの背後にあるグラデーションの色が薄いからと、赤色の度合いを上げてしまうと、手前の泡がぼんやり。逆に泡は青色を強くしないと、はっきり見えないし、清潔な印象にならない。

 原色を見るだけではなく、淡い色合いを調整するのだから、
結構大変なのだ。

 ところが安いのだ。これも100円。パッケージがみたくて、思わず衝動買いしてしまった。。。

 たった百円とあなどるなかれ。結構、色んなものが買い叩かれて、仕入れられているのだ。嬉しいような、ちょっと悲しいような、複雑な気分である。


キューピーの権利は結構ええお値段のハズ。

そっかぁ。塗り足し位置とか、管理番号とか
色々気になるなぁ。。。

2015年1月24日土曜日

邦題を勝手に悩み放題

頼まれもしないのに

丸谷才一のエッセイが好きだが、旧仮名遣いにこだわっていることが多く、現代人にはちょっとうっとい。

 この、読者がうっといと思う感覚は、逆に彼にとって、きっと”うっとい”ものであったに違いない。

 旧仮名遣いを読むのは、何か表現・伝達方法としての活版印刷が拙かった当時の遺産か、京極夏彦をリスペクトした、ラノベのい感じ作品に見られるのが、今や一般的ではないか。

 古い日本語表記だから、正統という考え方は、やはり膿んでいる。龍之介の『侏儒の言葉』でも、本文中に形容詞として英単語が混じっている。

 まさか純文学の新人賞の名前にまでなった作家が、母国語を使いこなせなかったのか。

 そうではない。

 ニュアンスを伝える日本語が、当時は普及していなかったのではないか。(ニュアンス、といった段階で、すでに現代では日本語として通じているように)

 ステレオ、という概念を、翻訳する際に使われていたのは「立体録音」。

 表音文字と、表意文字を自在に使いこなす、我々は何だって表現できるのではないか。キャッチやタイトルを見ると、しばしばそんな悩みを催す。

邦題:悪に染まりて

英語といっても、キングス・イングリッシュと米語は違う、とはいわれるが、どうなのか、よく分かっていなかった。

 しかしローリング・ストーンズの不良な割りに聞き取りやすい英語と、スプリングスティーンの内省的であるくせに、ヒアリングの難しい米語は、確かに同じ言語体型とは思えない。

 地下鉄はsubway(米)と、tube(英)というように、単語が違う。

 保守系の人々がしばしば英米と一からげにいうが、実は定義が雑。(そんな雑な連中が憂国を語るのだから、英霊たちの墓前で、うんたらかんたら、まあいいや)

 イギリスの作家ジャック・ヒギンズの代表作は『The Eagle Has Landed』(邦題:鷲は舞い降りた)。

 第二次大戦中、ドイツが落下傘部隊に命じて、休暇中のチャーチルを誘拐するという作戦を立案。その落下傘部隊が上陸に成功したときの、暗号電をタイトルにしている。(全部フィクションだけど)

 アメリカの作家トム・クランシーの代表作は『The Hunt For Red October』(邦題:レッド・オクトーバーを追え!)

 十月革命にちなんだ、ソ連の原子力潜水艦レッド・オクトーバーが密かにアメリカに亡命しようと企んでおり、ラミウス艦長と軍事アナリストのジャック・ライアンが活躍する。(全部フィクションだけど、発表翌年には実際に作中の偽装工作のような、原潜事故が起こった)

 イギリス向けタイトルと、アメリカ向けタイトルは、いかに違うか。邦題にしたときに、並べると、よく分かる。

 では、日本向けに翻訳するときに、それらは適切に翻訳されているのだろうか。

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。未来に戻れ。なんか違う。やはりエメット・ブラウン博士がシャウトするのは、このタイトルでないと。

 『バーン・ノーティス』(解雇通知)。含みを持たせすぎて、さっぱり伝わってこない。邦題で『元スパイの逆襲』を足して、初めて成り立つ。

 『ビッグ・バン・セオリー』タイトルからオタク向け。『ボーンズ』。『パーソン・オブ・インタレスト』本国でもさっぱりのハズ。

 困ったのは、『ブレイキング・パッド』。

 悪に手を染めてしまったがために、どんどん破滅に向かっていく話。現在進行形でないと、タイトルのニュアンスは出ない。どう訳せばいいのか。悪に染まりて。そんなところだろうか。

 日本語の語感として、染まるという動詞が、染み込んでいく様子を連想するし、メスの煙の禍々しさや、ハイゼンベルクの帽子が黒いことにイメージがつながるのではないか。

 何より、思ったのは、丸谷才一の主張である。現代語だけでは、伝わらないニュアンスがあると。なんとなくしか分かっていなかったが、邦題を考えていて、共感した。

 現在進行形の表現を、古語表現を用いずに表現すると、どうだろうか。

 墜ちゆく男。悪に染まりながら。悪になりつつ。なんか、どれもピンとこない。それならやはり、悪に染まりて、が妥当なのではないか。

 分かりやすいから、正しいとか、価値があるとか、そういうのとは違う尺度があっても然るべきではないか。誰に頼まれもしないのに、そんなことを色々と考えてしまう。

確か『A Dog's Life』(邦題:犬の生活)の写真のはず。
ちなみにチャールズ・チャーリー・チャップリンの愛称は、
チャールズ(英)、チャーリー(米)、チャップリン(日)と各国で異なる。

2015年1月23日金曜日

キック・アンド・パンチ

銃があれば一瞬で

武道を少しばかりかじっていた。

 技法や思想性について、異文化を知ると面白くて仕方がない。単に筋力の使い方ではないのだ。一つのジャンルでも、多くは細やかな技法や、思想性を持っていることが多い。

 そういう話を聞いたり、話したりしていると、心無い人が一言いう。

「どんなに相手が練習してたとしても、もし拳銃があれば、一瞬で勝てる」

 そう言われると苦笑いをして返す。もし拳銃がなければ、一瞬で負けるんですよとは言わない。

 身体という、一つのフォーマットをどうやって、使い、効率よく戦闘するか。歴史や社会背景が如実に反映される、文化現象の一つなのだ。

 たとえば南船北馬というように、中国大陸でも南は船で流通する文化が強い。そのため揺れる船でも戦えるように、重心が低く、腰を落として動く。ブルース・リーやジャッキー・チェンの動き方。

 それに対して、北は大地が安定したシチュエーションを想定して、膝が伸びた腰の高い動きをする。ジェット・リーやチャン・ツィイーが演じるときは、この動きが多い。

 タイのムエタイや沖縄の空手などは、南の文化に近く、重心を低く取る。

 面白いのは、相撲の四股を踏むような動作が、ムエタイにもある。象の足音をまねて、相手を威嚇するのが目的だという。邪気を払うという相撲と、似ていなくもない。

 日本で特徴的なのは合気道のなかでも、座技と呼ばれる技法で、座ったまま、戦い、押さえ込む。この技法の起源は諸説あるが、主君の護衛として使える人々に伝えられていたという伝承も、まことしやかに伝えられている。

格闘技と武道

しばしば混同されるのが、格闘技と武道。二つは全然別物である。(極真空手や、コンセプト派ジークンドーのようにボーダーレスなものもあるが)

 格闘技=パフォーマンス要素も含まれる、対戦相手を倒すことを目的にしたスポーツ。

 武道=殺人技法を集約した武術と違い、そこから相手を生かしたり、戦闘能力のみを奪うなど、技法と思想性を兼ね備えた、身体技法。

 目的が基本的に違う。目指すところも別物なのだ。

 アントニオ猪木を尊敬する武道家の例は聞いたことがない。

 中里介山の『武術神妙記』の前書きなどは、流入してくる西洋スポーツに対する反骨があったのだろう。武術は娯楽やゲームではなく、生き残るための手段であったと主張する。本質を捉えた言葉だろう。

 ワイヤーの性能もよくなり、CGの技術も日進月歩である。

 だから、運動神経がよくなくても、顔立ちのいいモデルが飛んだりはねたり、蹴ったりすることはできる。だが、大体が人体の構造上、不自然な動きをするし、体重の乗っていないつま先に触れただけで、相手は吹き飛ぶ。

 ショーとして、楽しく、派手に見せているが、大味くささを感じてしまう。

 逆にそういう部分を丁寧に作ったものをみると、魅了されてしまう。

 拳銃があれば、とか、重火器があれば、とか、まるで人民解放軍かアメリカ軍みたいな粗忽さではないか。

 銃火器にも文化はある。アメリカが新興国だった当時、イタリアやドイツが軍事国家だった。日本陸軍の将校も南部式が登場するまでは、輸入拳銃を携帯していた。

 だが、それ以前の文化の広がりは、決して広くない。

 カポエイラが両手を縛られた奴隷たちの考案したものであるとか、琉球唐手は薩摩藩の弾圧で武装解除されたために舞踊に、型を隠して残ったものであるとか、歴史や伝承とつながった話題としてはやはり、武術、武道のほうが魅力的である。


多分、第二教を大雑把にかけてる状態

2015年1月18日日曜日

みちのくのほとけって、

抹香臭くないほうのブディズム


 東京国立博物館で「みちのくの仏像」と題した特別展示が開かれる。

 それにあわせてNHKで日曜美術館を見たが、めちゃくちゃおもろかった。

 平安時代、徳一上人が仏教を東北に広め、その文化が根強く残ったという。

 番組では紹介されていなかったが、この徳一という僧侶。同時代の最澄と教義について論争しており、学識が深かったことが伺える。

 この程度なら、ちょっと調べると分かること。

 実はもっとコアな話。

 最澄の天台宗の主張と、密教の教義について、反目するようになったのが空海。彼の真言宗では、最澄が空海と議論を深く続けなかったのは、負けを認めたからだと、 現代でも考えている。そういう主張をする研究者も少なくない。

 ところが実情は、ちょっと違った。

 最澄は関東で絶大なカリスマであった、徳一に論争を挑まれ、その防戦に奔走していたという。いわば空海にかまっているヒマがなかった、という説が出ている。真言宗では決して語られていないことであるが、空海が本当に最澄を論破したのであれば、後世の天台の発展は、社会的容認を元にしており、矛盾することになる。

 では、そのトリガーとなった、徳一とはどういう人物であったのか。残念ながら、資料はほとんど残っていない。

 仏像の彫刻作品として、彼の後継者たちが残しているばかりである。めちゃくちゃおもろいはず。


キャラでみる仏教


 仏像との接し方に、誰しも戸惑う。しかし本当のルールはシンプル。

 寺院の境内にあるときは、手を合わせて会釈し、博物館にあるときは、それを省略する。

 前者は崇拝対象であるが、後者は工芸作品として扱われているからだ。

 教義というより、それぞれの仏像はいってしまうと、フィギュアである。木でできた仏像が、しゃべりだしたら、気味悪いし、そんなもの拝む気になれない。

 それより、どの仏像がどういうキャラなのかを知っておくのが、キーだと思う。

 そうした中で、今回の展示では、薬師如来や十一面観音の大きな仏像が取り上げられる。

 密教や修験道では、不動明王や降三世明王など、憤怒尊が崇拝されるが、実はこれらはかなり後世のもの。初期においては、人間より超常的なスキルをイメージさせる、十一面観音が崇拝されていた。

  また薬師如来について。

 日本で公的に仏教を受け入れるか否かが、問題になったとき、廃仏派の物部氏が勝ち、仏教は神々の怒りを買うから、拝むのNGと決定した。

 ところが翌年疫病が流行。これは外国の神がたたりを為したのだということになり、大和朝廷としても、公式に仏教を受け入れる。(民間ではすでに広まっていた)。

 仏教側もそれを容認し、いきなりお釈迦さんの話をするのではなく、疫病から守る薬師如来を祭る本堂の建立を朝廷にオーダーする。(しかもこのとき、薬師如来を供養するのは男性ではなく、女性出家者を採用した。明らかに巫女の発想といわれている)

 その後、整備された密教の経典が渡来してくるまで、薬師如来人気は続くことになる。

 つまり古い薬師如来が残っているエリアは、それだけ古代の仏教文化が残っていたということなのだ。

 などなど、魅力満載の展示。

 関西から見ても垂涎な企画である。

2015年1月17日土曜日

死蔵せる名著

実は知らない

 色々、勉強しそびれていることがある。今となっては、どうしようもないこともある。

 ロシア文学を読みたいと思って、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』、『罪と罰』をそろえてみるが、精読できていない。

 では一般文芸を読んでいるのか。面白かったから、大沢在昌の『新宿鮫』をシリーズで集めたが、四巻まで読んだのか、五巻まで読んだのか、今や分からない。

 ハリー・ポッターに至っては、確か三作目でよく分からなくなっている。エド・マクベインの87分署は大好きだが、実際は5巻ぐらいで、六巻目がなんだったのか、タイトルすら薄れている。

 絶対、ローダン・シリーズや山岡荘八の『徳川家康』だけは手を出してはなるまいと、幾度も誓っている。これ以上、自分を惨めにすることはない。長いこと放置している『指輪物語』に至っては、単なる自傷行為というべきではないだろうか。

 もし、トルストイとドストエフスキーのどちらが好きか、問われたらどうしよう。新宿鮫は何巻が一番いいのか、87分署は作者が死んだとき何巻読んでいたか、などを問われたらどうしよう。

 いやぁ、実は、恥ずかしながら、と詫びるように応えないといけない。いまだかつて、そんなことを問われたことはないが。

 読みたいということに対しては、強欲にできている。浅ましく、卑しいぐらい、むさぼろうとしている。

蔵書が狂おしい


 たまに友人と本の話題になった時に、見覚えのあるタイトルが出てくる。自分も持っている本を先に追い抜かれて読破されるのだ。

 面白そうと思っていたが、つまらないと言われれば腹が立つ。どうしてネタバレさせるのかと。面白かったと言われれば、一層腹が立つ。俺も同じものをもっているのに、先に堪能しやがって。

 読みたいが、他の人に読みを追い抜かれることが、悔しい。本を抱えすぎている自分が悪いのだが,手元にある本が、地球上で最後の一冊なら、さぞかし気分がいいだろう、などと浅ましいことを考えてしまう。

 たまに珍しい本を手に入れる。例えば、戦国時代末期から、江戸時代初期の説話集『備前老人物語』。ジュンク堂で手に入れたものだが、なかなか書店に出回ることもなく、確か群書類従にもなかったから、図書館で貸し出しも難しいはずである。

 それを持っている。ああ、あの資料を多用することで知られた作家も、この本を基にかいたんでしょうな。ここに、あの小説のエピソードがちゃんと書いてある。そういって、自慢したい。

 さんざん自慢をして、人が読みたいというと、しのごのまどろっこしいことを言って、断る。相手の残念がる顔。

 そんなことを思って、本を捲るが、一度たりとも、借用を願われたことがない。

 岡本綺堂の随筆に、そうした読書家の世界について、取り上げた一節があった。

 貸し出しできないから、軒先で読ませてもらう。気が利く家だと、お茶やお菓子を出してくれる。日がな一日、そうした書を読んで日が暮れると帰る。

 中には近くに泊まって、翌朝また尋ねてくるということもあったらしい。

 流通業者との契約で本を作り、返品の山を作るだなんて、不毛なことは一切ない。本を持つことが社会的ステータスなのであり、また本を愛好する者同士が助け合ってきたのだ。

 岡本綺堂の作品は全然読んだことがないが、そうした世界があったことに憧れる。

はっきりいって、こんなのは平積みのうちに入らない。本を横に重ねただけ。

愛という字だじゃれ

心を受ける

愛という字は、「受」けるという字の真ん中に「心」という字を書く。相手の心を、正面から受け止めることなのだ。

 ううん、もっともらしいが、かなり後付臭い。

 そもそも、「道」という文字は、侵略した土地の、元の有力者の首をはねて、入り口に掲げ、土地の邪神を脅したという意味。漢字が色々ロマンチックなものを前提にしていたら、我々と価値観の違うドライな漢民族の感覚に圧倒されるのではないだろうか。

 そもそも愛という文字に、そんなプラトニックな意味があるのだろうか。

 古語では、工芸品を愛玩するという意味で、「愛」が使われていた。そこからもっと、生々しい意味で枕草子では動詞に使われていた。現代のようなプラトニックな意味はなかった。

 「愛おしい」という日本語に、「愛」を使っている。

 「いと(とても)」+「おしい(惜しい)」=世界が無常であるとするなら、現代の状態が最高であるのに、変化することは大変残念である、という意味。なるほど、愛玩に近い意味合いだろう。

 つまり明治時代に聖書が翻訳された際、「神は愛なり」という言葉は、「Godは生殖行為」ぐらいの響きで受け止められた。文明開化、間もない頃から、右翼結社が西洋化することを嫌悪したが、情報が少ない時代、こうした曲解された堕落イメージが、波及していたのかもしれない。

 現代の日本で「愛」という文字に、卑猥なイメージはない。カーマ・スートラより、新約聖書での使用例に近いもの、自己犠牲や献身といった意味合いで使用されている。

ハーケンクロイツ

映画の中で、黒い軍服と角ばった発音の演出に、カギ十字(ハーケンクロイツ)が加われば、悪のナチス党を表現である。

 ところがこの、カギ十字そのものに、ユダヤ人迫害や、民族浄化の意味はない。デザインは例のヒゲ男が採用したものである。彼自身がブリル協会というオカルト組織に属していたため、古代のインドでは吉祥の意味であったものを、パワフルなイメージとして受け止めて、採用した。

 皮肉にも、仏教と同時期に存在したジャイナ教の紋章であったため、仏教図像にもリミックスされる。現代でも、万字として、お地蔵さんの祠に彫られていたりする。(戦後、進駐軍の訴追を恐れて、大量に破棄されたという)

 しかし現代の我々は、カギ十字や、万字を見て、経典に見られるような吉祥は連想しない。ハリウッド映画でブラピが砲手を向ける先にある旗だ。

 時代とともに、意味が変わる。すりかえられる。これら諸相がつまり、文化なのだ。

 直江兼続という戦国武将が、NHKに大河ドラマ化したときも、彼が実際に愛用した兜に「愛」の文字があった。彼を育てた上杉謙信が毘沙門天に深く帰依していたように、彼も愛宕権現や愛染明王を深く信仰していた。その一時をとって、兜に飾ったという。

 そんなカビの生えたような経典や、半ば俗信めいたルーツなど、現代人の好みではない。むしろ義を貫き、自己献身を誇りにして戦った武将というイメージの方が、かっこいい。

 すでに意味が変わっている。

 正しい、正しくない、ではなく、こうした解釈の積み重ねで、初めて文化が面白くなるのではないだろうか。

 人という字は支えあっているとか、心を真ん中で受け止めるとか、耳で聞く分には面白いが、しばしば駄洒落でしかなかったりする。それはもう、好みの問題ということでいいのではないか。

2015年1月14日水曜日

趣味と十字架

本好きで悪かったな

吉川英治の文体と、写実的な文体と、初期のアップテンポなストーリーが大好きである。
 
 高校時代に初めて交際した女性と、図書室で話した。講談社の吉川英治全集が数冊あった程度だが、芥川や森鴎外の全集には見劣りするが、クロス貼りのハードカバーで、二段組み。しかも発表当時の挿絵までついているから、晩年の杉本健吉以前の画家が、彼の作品をどういう描き方をしていたかも楽しめる。
 
 まるでシドニー・パジェットのイラスト付きでホームズを読むような贅沢ではないか。
 
 版元がさすが講談社やね。気張っとるよねぇ。
 
 ということをひとしきり説明した。
 
 すると、こう言われた。

「本しか楽しみがないなんて、可哀想な子供時代やったんやね」

 何ですと? 自転車で三十分かけて図書館いかなくても、図書室に吉川英治全集があるなんて、ラッキーやと思ってるんですけど、あきませんか。。。

デジタルよりも


 ブログを書いたり、SNSに写真をアップしたり、共感することに対して、同年代や年下でも、心ない人がこんなことをいう。
 
「デジタルなツールを使わなくても、充分楽しいから、あんまり興味ない」
 
 はぁあぁ? デジタルなツールを使うのはオタク、みたいな発想自体がMS-DOSしかなかったような80年代の発想ですけど? Macもブラウン管みたいなディスプレイで、ガリガリとハードディスクを動かしてた頃の発想ですけど?
 
 ブログ書いたり、SNSを更新することが、不幸な子供時代で、それしか楽しみがなくて、ライブの人間関係が楽しめなかった人の代用好意みたいな言い方。

 パソコンがなくても生きていける。スマホはいらない。SNSはいらない。そういう選択肢は普通だし、そんなものがなくても快適に生きていけることは間違いない。
 
 だが、それらを持つことが、アナログな世界に対しての逃避かのような言い方をすることに対しては断固ノーである。リツイートをしたり、いいねを押したりすることが、あってもいいと思うし、今やオタクでないとできないことではない。誰でも簡単にできるのだ。
 
 等々。
 
 思わず、デジタル機器を使いこなす=リアルが乏しい人、みたいな言い方をされると、少し過剰に反論してしまう。
 
 それは相手の理解不足を是正したい、ということだと思っていた。
 
 しかし最近、吉川英治全集を古本市で安く買って思いだした。誤解されたことへのリベンジなのかもしれないと。広い意味で八つ当たりなのかもしれない。

 ある意味、内向的な趣味を持ったものの十字架なのかもしれない。

2015年1月13日火曜日

大事なことは二つ

そぞろな記憶

色々泣いたり、怒られた記憶しかないが、幼稚園を卒園することができた。

 卒園式当日のこと。

「大事なことを二つお話します」

 園長先生か、その次に偉い人がそう言い放った。母が厳しい表情になるのに、釣られて、その人を見上げる。

 しかしそれどころではない。幼稚園なのに、仕出しに紛れて、一人ずつにグリコのおまけ付きキャラメルが出たことに気を取られて、何となく上の空だった。

 ちゃんとお話はきかないといけない。しかしさっき、友達とおまけを開けたときに、彼らはウルトラマンで、自分はしっぽが動くだけのしょぼいワニだった。

 正義の味方になったダーク・ヒーローのワニなんだと主張しても、まるで通じなかった。ただの怪獣だと。なんだって、人生の節目を悪役で飾らないといけないのだ。どうあがいても、ウルトラマンに勝てる訳がないではないか。

 いや、ゴジラを見ろ。最初は悪役だったが、人間を助ける正義の味方になったではないか。詳しくは知らないが、ウルトラマンと同じレーベルではないか。バットマンとブレイドが闘うか? モスラだって、ゴジラと闘ったが、途中から地球をともに守ったではないか。

 ワニの話を考える。凶暴で、悪の組織に属していたが、攻撃の途中で怪我を負う。

 そこで人間に助けられる。人間の優しさに気づく。そして残虐に、人間を殺そうとする、かつての仲間、悪の怪獣軍団と闘うことになる宿命を背負うのだ。

 そこまで考えて、気がついた。

 話が終わっていた。二つとも、完全に聞き逃していた。何か、大事なことを聞き逃したような気がした。

いいことを話すまい

成人式で歌う市長がいるらしい。メディア受けするのだろうが、無様なものだ。

 彼自身が気づいているかどうかはさておき、新成人にはちゃんと伝わっているテーマが一つだけある。「正しい足の裏の舐め方」だ。

 とかく、人前に立つと、いいことを言わないと、と張り切る気持ちは分かる。大学の後輩たちを前に、もったいつけて、御託を並べ立てていた記憶すらある。もっと無様ではないか。

 卒業後、部の創立三十周年として、開祖の直弟子であった先生が挨拶に立たれた。

「沢山もうしません。三十にして立つ。この一言をみなとともに、胸にしたいです」

 おお。あれから、不惑の年もすぎたのではないだろうかと思い出されるが、強烈な印象であった。三十にして立つ。やっと、これからではないかと。

 技については、細かく語ることで知られた先生だったので、端的な言葉が確かに印象的だった。

 いいことを言おうとあれこれ考えると、大体蹴つまずくし、往々にして伝わらない。本当に言いたいことなど、あったのだろうか。

 この場で言わないといけないかどうかではなく、話したいだけなのではないか。尊敬されたいという、虚栄心を満たしたいのではないか。話している人に、そんな疑念すら覚える時もある。

 話題が一般的になり、結論がぼやけ、まとめにもたつき、結局時間だけが過ぎていたということは少なくない。

 そういう場に居合わせると、ふと思うのは、あのワニのことである。彼はやはりダーク・ヒーローで、尻尾で悪の怪獣どもを一撃するんだと。既製品のウルトラマンで遊ぶより、はるかにクリエイティブである。

2015年1月12日月曜日

名言botは儲からない

喜びを食む者

大好きなゲーテの言葉。

 人間は気高くあれ。情け深くやさしくあれ。そのことだけがわたしたちの知っている。あらゆるものと人間とを区別する。(『神性』)

 悪魔の仕業で、お釈迦さんがある村で施しにありつけなかった。

 悪魔がもう一度、村に戻るように命じるのを拒否して、お釈迦さんはいう。

「われらは何物も持っていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となるだろう」(岩波文庫『悪魔との対話』サンユッタ・ニカーヤ)

 どっちも大好きな言葉である。逆境にあって、いつも思い出すのは、このうちのどちらかだった。

 家庭内での問題が、行き詰まって、明るくはないが、一つの結論に達しようとしていたときに、上司に言われた。

「たとえ不幸なことが身の上に起ころうとも、厭世的にならず、絶望的になってはいけない」

 なるほどなぁ。三つ目の気に入ったフレーズである。実際はもっとフランクな言い方だったが。

 名言のボットや、ブログを散見することがある。古典や名作を引用して、面白く紹介してくれるのは楽しい。

 しかしスポーツ選手や経済界の著名人の言葉を、それも結構キャッチーな割りに、底が浅いことを金科玉条の如くありがたがるのは、どうだろう。

成功のための明言は節約と努力


 名言、とかいいながら、その目的はいたってゲスい人が多い。経済的に成功すること。これにフォーカスしている、自己啓発めいたものによく出くわす。そもそも、ゲーテを読んだところで、何か新しいビジネスができるとでもいうのか。メフィスト・フェレスが肩をすくめているのが見えないのか?

 名言や、格言を集めると、確かに高揚した気分になるだろう。ラスコーニコフが老婆を斧で殺す理由を考えているのに付き合わされるより、はるかにハイになれる。

 しかしだからといって、それが経済収入につながるのだとするなら、余りにもスケベである。

 文芸評論家の縄田一男は、ある大学の文化祭で講演を頼まれた際、前説にたった学長が「時代小説を読むことは、将来何かの役に立つだろうから、氏の話をよく聞くように」といわれて、憤慨したという。

 彼は登壇して、開口一番言った。

「時代小説を読んだところで、それが面白いだけで、何かの役には立ちません」

 何か楽しむとか、生きるという行為のあらゆるものが、経済とつながっていないといけないと、錯覚しているのではないだろうか。もう共産主義者も、裸足で逃げ出すようながめつさではないか。みんながみんなスクルージを理想としているのだろうか。

 不幸を不幸として嘆く言葉を、気分が沈むと否定して、明るく楽しく前向きな言葉ばかりを正解とするのは、結局は本質をみようとせず、逃げ回っているだけだ。

 ましてそれが、収入につながるかどうかを考えるなんて、むしろ惨めではないか。近親者の不幸があっても、失恋をしても、笑顔でコンビニのシフトに入ったほうが前向きでいいとでもいうのか。それが果たして、文明人なのか。

 名言を収集する人の、そうした軽薄さが嫌いである。いい言葉を集めると、いいことが寄ってくるとか、それが言霊とかいうが、そもそも神々を介在させない、無作法さであり、言霊を間違えている。デンタルフロスの歌をつくっても、虫歯はなくならない。

 それよりも、逆境にあって、なお真摯であることの方がはるかに尊いし、そのことは経済とは関係ない。

 歌詞やインタビューの気取ったフレーズを、大げさにありがたがるのも、むしろハイになりたいだけなのではないかと思う。

 経済的や、スポーツ業績的に、成功した人は、逆に、そうした名言を沢山収集していたのか? 儲かっていない風水グッズの店という、矛盾がないか?

 ベーブ・ルースの言葉。「チームメイトがホームランを打って、ホームに帰ってくるまでの間、ハンバーガーを20個も俺が食べたっていう奴がいるが、あれは嘘だ。いくら俺でも、それはムリ。食べたのは18個さ」

 ベーブに自分の苦境は救えないし、救って欲しくもない。それでいいではないか。

2015年1月11日日曜日

巨匠の虚像論

ルーツ


 浦澤直樹が手塚治虫に絶賛して、こう言っていた。

 漫画家として、今、製作現場で使っている指示(たとえばスミベタなど)を書いて指示することは、手塚がやっていたこと。そのまま使っていることがスゴい。

 横尾忠則がスゴいという人は、こういう。原画に対して、どういう色を配置するのか、横尾はしっかり書き込んでいた。それを元に、あのサイケデリックなイラストは出来上がっていった。

 手塚と横尾。配色の指示を考案したのは、どちらか。

 正解はどちらでもない。

 すでに平安時代に描かれた、仏画の図典『別尊雑記』にすでに、登場している。仏の衣類や、光背について、墨でデッサンしたものに、細かくメモをしているのだ。

 その方法が伝えられ、手塚や横尾が活用しているにすぎない。手塚だからいい、横尾だからいい、というのでは、作品を楽しんだことにならない。

 手塚の子息が鉄腕アトムの放映の時間帯に、他の番組を見ていた。それを見とがめて、夫人がアトムにチャンネルを替えた時、手塚は激昂したという。子供に好きなものを見せてやれと。

 彼を崇拝したり、ブランド化されることは、実は彼自身が嫌悪したことであったろう。

記号論の功罪

特に手塚に関しては、批判することはタブーな側面が多い。

 世界に誇る日本のマンガ文化を育てた神を冒涜するような、非道徳が責められるような気がするからである。

 確かに彼が登場する以前の漫画は、北斎漫画の延長でしかない。ストーリーや、キャラクターデザインなど、素朴なものである。それを大きく変換させたことにおいて、異論はないだろう。

 ところが問題は、彼自身の著作『マンガの描き方―似顔絵から長編まで (知恵の森文庫) 』には厄介なことが書かれている。

 マンガとは、記号である。表情も、動きも、記号をもって表現したものであり、それらを組み合わせて、展開を表現するものだというのだ。

 手塚の記号論と呼ばれるものが、これである。

 なるほど、面白い。人間の動きを、抽象化したのが記号であり、それらを使いこなして、ストーリーマンガは成立しているという、彼の主張はシンプルであり、彼の作品の特徴を端的にとらえている。

 そして、この方法を実は映像で捕らえている。『NHK特集 手塚治虫・創作の秘密 』だ。このドキュメンタリーのなかで、手塚は無造作に御茶ノ水博士の鼻だけを延々と描いていたり、ストーリーに悩む姿をとらえられている。

 ナレーションは彼の仕事ぶりをまるで、神がかったかのように伝えるが、最初から天才手塚ありきで話されている。

 そうではない。

 もし、彼のいうように、マンガが記号表現の複合体であるのだとしたら、量産することは可能だろう。御茶ノ水博士の鼻、という記号を描きこむのに必要なのは、天性のスキルではなく、集中力である。

 つまり、手塚は記号であると自白し、まさにそれを証明してみせたのだ。

 そして、この映像で結構衝撃的な独白をする。晩年の手塚がいうのだ。僕は絵が描けないからなぁと。

 つまりイラストを描いて、そこにストーリーと構図という手法を実現して、第一線で仕事をし続けた結果、デッサンをもとに描く、臨場感ある(彼自身が晩年試みを繰り返した)映画のような、漫画表現ができなかったのである。

 その彼にとどめを刺したのが、大友克洋といわれている。

 空間を自在に操り、手塚の描いたイラストトーンとは全く異なる、デッサンを基調とした漫画表現が彼によって立ち上がった。(実は現代の漫画のうち、写実的な表現はほぼ、彼の手法を模倣されている。)

 こうした作品はもちろん、記号論とは対極の、写実表現で構成されている。当然、量産はできない。

 物理的な労力を考えて、漫画が低予算で、量産できるわけがない。量産するための方法は実は手塚の記号論であり、彼自身が絵が描けない(デッサンが不十分である)という独白との兼ね合いは完全に、切り捨てないといけないところに、答えがある。

 世界に誇るマンガ文化などといっているが、ドラゴンボールや北斗の拳など、八十年代以降、世界を席巻したほどの代表作品は誕生したか? ジブリ作品によりかかっているだけではないのか。

 マンガを量産できると印象付けたのが、手塚の記号論であるが、それは実は一定以上の深化を妨げるものであったのではないか。そして、製作に対して、ノウハウさえ習得すれば、量産が可能であるという、誤ったメッセージを伝えたのではないだろうか。

 手塚がマンガの神さまである、というようなこと、マンガが現在進行形で世界を魅了しているメディアである、というようなこと。それらの話題をテレビで見るたびに、なんとなく胸の奥がざわつく。

 スター・ウォーズは第一作目のNew hopeから38年たって、新時代を迎えるという。クリエイターが一人のものではなく、ソフトウェアとしての作品が権利として、行き続けるからだ。藤子の没後、ドラえもんはどうなる? 手塚の没後、アトムのように、リメイクされることは可能なのか。

 ソフトウェアとしての作品に対して、ファンはもっと多様な向き合い方をすべきではないだろうか。海賊版や、違法コピーなど、論外である。

マンガの話題だけに、鳥獣戯画。
生き物にも仏となる可能性があるという理解は、美化しすぎ。実はただの落書き説。

他人の読書

あこがれのダークピット

 電車に乗っていると、読書している人が何を読んでいるのか、気になる。

 自分が読みかけを持っていない時などは、それが顕著になる。

 環状線に乗ったときに、向かいで年配の男性がカッスラーのダークピット・シリーズを夢中になって読んでいた。いいなぁ。

 それに触発されて、自分もいちびって、87分署を新書版で買ったこともあった。

 小学生が地下鉄で、坊ちゃんを読んでいた。うわ、俺なんか、君の頃は、俺コロコロコミックで、ドラえもん読んでたハズ。後生おそるべし。

 スマホでおっちゃんがソリティアやリバーシをしていようが、ねぇさんが画面いっぱいのスタンプでラインをしていようが、どうでもいいが、本だけは気になる。

 ワゴン売りしていた筑摩の選書で、キェルケゴールを買って、予想以上に難解であることに驚いた。

 しかし元々一般向け。というか、学生向けのシリーズであったという。ああ、昔の学生さんは頭良かったんやね。いい年こいた、社会人がこんなことで戸惑ってたら、恥ずかしい。昔学生やった人に嗤われるのではないか。

 そう思いながら、電車で読んでいると、下車直前に隣のおっさんが感心していう。

「若いのに、難しいの読むねんな」

 勘弁したれや。

カバーがはずせない本

別の日に、電車に乗った時のこと。

 文庫本を熱心に読むふける、初老の男性。混雑で文面は見えなかったが、非常に熱心に読んでいらっしゃる。

 好みとはいえ、そこまで熱心というのも、よほど面白いのだろう。一心不乱にページをめくっていらっしゃる。うらやましい。かつて幸田露伴は高齢にも構わず、新しい知識に飢えて読みふけっていたという。

 それだけの知識が、個人の死没ととも、地上から無くなるということに、周囲は嘆息した。

 人間の宿命である。

 そんなことをふと考えながら、ふと顔を上げたはずみに、電車が揺れる。彼の肩越しに本文が覗けた。

「いや、はずかしいわ」とか、"乳房"とか、"濡れ"とか。。。

 ううん、おっさん、そんな怖い顔して、公共の場で読むもんかなぁ。なんか、カバー外せへんようなタイトルなんちゃうかなぁ。

我輩は猫である、のイメージかと思ったが、夏目の我輩は本を読む場面がなかったはず。

2015年1月9日金曜日

詐欺サイト顛末

macminiが格安

正月休みにうつらうつらとしながら、macminiが欲しかったことを思い出す。

 検索して、格安のサイトをタブで並べかけて、愕然とする。昨年のモデルがたった2万5千円(←実は詐欺)であるというのだ。一気に眼が覚めた。

 どんなに安いところでも、中古でも、アップル製品は極端に安くはならない。

 そこそこの中古を調べまわった挙句、結局新品と大差ないか、新品のほうがOSも最新版だからいいか、という結論に達してしまうことはざらだ。

 しかし二万五千円は安すぎる。

 どこをどう探しても、その価格ではない。

 決心した。というか、ほとんど衝動で、ポチッとしてしまった。

完全ダークサイド

クレジットカードでの支払いではなく、銀行振り込みであり、振込み先は登録したメールに届くことになった。

 翌日、振込み先を記載したメールが届く。
「連絡が遅くなって、申し訳ございません。
ご注文ありがとうございます。
ご注文した商品が在庫しております。
ご入金確認でき次第、24時間以内で商品の発送になります。
商品到着の予定は3日到着できます。
配達日時指定できます。
口座下記の通りとなりますので、御振込の手続きをお願い致します。
【御振込み先】
ゆうちょ銀行
店名〇〇八店
支店番号008
記号番号:(おそらく個別に発効している番号)
取引種類 普通
口座番号8853870
名義  ソ キョ
ご入金後、こちらに支払伝票の写真をメールしてお願いいたします。」

 翌日の昼休みに振り込もうかと考えたが、ふと思った。

 支払い伝票の写真をメールして? いや、前後の日本語、おかしいぞ。

 そう思って、販売サイトの名前shopping moreを検索してみると、まあ出るわ出るわ、詐欺の話題。

 あぶなかったぁ。ご注文した商品、という言葉自体、間違えている。「ご注文いただいた商品」だろ。たどたどしい日本語ではないか。

 傷ついた。macminiが安く手に入ると期待していたのに。

 そこで傷ついた気持ちを隠して、問い合わせることにした。(なんだか、お金に困っている、いじらしい女性にいわれるまま、振り込んでしまったような気分である。周りはひどいこと言うけど、本当は違うよな? である。)

 問い合わせメールを送った。詐欺サイトであることが、公表されているのですが、本当ですかと。

 帰ってきたメールはシンプルな返答だった。

「ご入金確認でき次第、24時間以内で商品の発送になります。
商品到着の予定は3日到着できます。」

 うわ、もうちょっとないんかいな。詐欺であることを自己紹介してるようなもんやん。到着できますって。。。

 このサイトがいつ、なくなるのか、いつまでも放置されているのであれば、日本の法律などあってないようなものではないか。(幸い、googleの検索結果からはずされつつある)

 そのことに苛立つ反面、ふと思った。

 yahooオークションが派手に宣伝されたときの、トラブルのこと。

 誰でもカンタンにオークションに参加でき、欲しいものが格安で手に入ると、みんなそそのかされた。

 しかし実際は、広告費を惜しむ業者の在庫処分場であり、1円から始まっても、オークション締め切り直前に値段は必ず跳ね上がった。

 一般ユーザー同士のトラブルも後を絶たず、結局、広告ほどは楽しい未来を保証するものではなかった。

 また楽天がお節料理を、2013年に格安で販売した。ところが届いたのは、隙間だらけの半分腐った残飯だった。(格安だからといって、残飯をくうバカはいない。まだホームレスのほうがリッチではないか)

 ネット通販は安くて、カンタンで、楽しいものであるというのは、消費者の幻想に終わった。

 そしてサイトを介して、初回は利益がなくても、次回から固定ファンがついて、利益に転じていく、提供者側の願いも、ただの幻想で終わった。

 結局、サイトを運営する側が、手数料をせしめて、料理の質と消費者の信頼を食い散らかしたにすぎない。

 それと同根に、詐欺サイトが野放しになっているということは、結局、ネット通販は安全ではないという定説を作り、最終的に成長を失速させるのではないか。

 通信販売に直接、間接関連する人々は、危機意識が試されているのではないか。

 そう憤りを感じたが、ふと思った。自分も広い意味で、その一人ではないかと。

2015年1月7日水曜日

日本のいんてりげんちゃん説

おらぁ学がないから

 寅さんの映画のなかで、初期のものであったと思う。寅さんがいう。俺は学がないから、そんな「インテリゲンちゃん」じゃあ、ないんだよと。

 インテリゲンチャがいえないところに、ユーモアがある。

 石原裕次郎の映画『やくざ先生』(だったと思う)にも、似たような描写がある。隣室の痩身の先輩教諭はチャイコフスキーを聞きながら、コーヒーをブラックで飲んで、研究の疲れを癒しにしているという。

 この手のエリート嫌悪はいつから始まったのか。

 どうも戦後ではない。大正デモクラシーの頃に端を発するのではないか。

 日本人は古来、義理人情を大事にしていてきた。だから、文化・芸術的なことが分からなくても、素朴な現代の生活を大事にしてきた。そういうイメージがなんとなく、これらの映画にはある。

アール・ヌーボーのルーツ

 印籠を腰に下げるさいに、帯にストッパーの役割を果たすためのものが根付である。

 江戸時代、この根付に細工を施すことが流行し、職人が趣向を凝らしていく。それが現代に残されている。

 実際にそれらを見ると、驚くことが多い。太公望を題材にしていたり、俳句や童話を駄洒落にしたものも少なくない。

 江戸の職人といえば、腕は確かだが、大して学もなく、ましてや庶民はもっと文化的な素養を持たなかったはずである。

 ところが、実際は伝承されてきた文化・芸術を愛していた。明治の四民平等を待たず、生き生きと、古典に親しんでいたのだ。

 室町時代末期、京都の町衆は財力をもとに、半ば堺のような自衛都市を築いていた。

 彼らの中でトレンドだったのは、俳諧連歌。五七五を詠んだ後に続けて、七七を詠み、また五七五で返す。

 参加者全員が歌を詠む、古代から伝わる連歌をリアルにゲームとして楽しんでいた(俳句とは、この「俳諧連歌の発句=出だしの五七五」を省略した呼称)。

 どうも、近代によって初めて、庶民が文化に目覚め、それでもお役人のようなインテリとは違ったという設定は、すでに無理がある。

 ルイス・フロイスの手記などを見ると、彼らの経済感覚では考えられないぐらいの高額で、堺の商人たちは茶器を売買していた。

 屏風に絵や書を書く。扇子に絵をあしらって涼を取る。いずれも生活用品に、デザインとして芸術を施していく。この方法論が、20世紀のアール・ヌーボーのヒントになっていくということを聞いたことがある。

 寅さんや、裕次郎が感じていた、文化への劣等感というのは、実は新しい虚妄でしかない。日本人は昔から、などといおうものなら、それこそ浅学を露呈することになる。江戸時代や室町時代の庶民は、結構「インテリゲンちゃん」だったのだ。

 学がないから正しいなどというのも、錯覚というより、倒錯というべきだろう。まるで人民解放軍のような、厚かましさを感じる。

 万葉集にみるように、古代の日本人は文化的な造詣が深かった。そう思ったほうが、むしろ説明がつく。

 だから、戦後知識人が何かというと、語りたがる、「だから日本人は昔からだめだった」説には賛同しかねる。欧米対日本とかいいながら、実際は日米でしか比較していなかったりする早計さ。

 今のなんとか右翼より、結構軽薄な、ちゃらいロジックが気に入らない。連中の祖先は薄らバカだったのかもしれないが、少なくとも自分の祖先は、そうではなかったと思っている。

 母方の祖父は浪曲が好きだった。父方の祖父は記憶にないが、計算が得意であったと聞く。

 どちらも戦前の日本人である。戦争の結果とは別に、バカではなかった。

2015年1月6日火曜日

未年の宿題

フィクションアニマル

年賀状を出したり、もらったりした後で気がついた。

「羊って、どんなビジュアルで表現されていたのか」

 つまり絵画表現で羊はどう描かれたのかということ。日本に羊はいなかった。でも、羊という概念はあった。

 明治時代になるまで、日本に虎はいなかった。虎がオスで、豹がメスという、自然科学を全く無視した設定で認識されていた。つまり竜虎として、描かれるものは、両方とも見たことがない動物を、イマジネーションを駆使して表現されているのだ。(虎は猫科の大形動物という知識は伝わってきており、しばしば猫のような大きな眼をした虎が描かれている)

 そう考えると、上野に動物園ができたときの斬新さといったら、なかっただろう。スマホの新機種とかなどとは、比べ物にならなかったに違いない。


富の象徴

プロテスタントの教役者(聖職者は存在しないというところがいかにも)のことを、牧師という。一般人は迷える子羊である。

 ところが中央アジアから東では、羊は富の象徴になる。

 羊+食べる=養う。

 水(さんずい)+羊=水がたっぷり=洋(海の意味)

 豊か、沢山という意味らしい。中央アジアの遊牧民にとって、羊や豚を沢山持っているということは、まさに財産を持っている象徴であったのだ。

 もちろん、日本には牧畜の歴史は明治以前にない。では、羊をどう絵画で表現したのか。

 去年のうちに調べておけばよかった。

 ということで、今年はお猿さんがどう描かれたか。なぜ、玄奘三蔵のお伴はお猿さんだったのか。

 インド神話に登場するハヌマーンや、キンシコウという説があるが、実は取経僧に動物従者という設定は、玄奘以前から存在していて。。。


2015年1月5日月曜日

声援と罵声のはざまに

偉業をめくる


 ウィンストン・チャーチル曰く。

「新聞を読むとき、私はスポーツ欄から読む。なぜなら、そこには人間の偉業について書かれてあるからだ」

 かっくいぃー。

 社説だ、偽証だ、謝罪だ。そんなことは一面や三面でいい。いっぱい言いたいけど、ここでいうほどのことはない。

 チャーチルのいうように、スポーツで快挙の記事を見れば、国籍を問わず、喜ばしい。

 古代のオリンピックでは戦争の代わりに、国を代表した選手同士が戦ったが、今はそんなことはない。今どきプロパガンダに使う無粋は、せせら笑うべきだ。

 やはり称えられるべきは、選手のひたむきさと集中力である。その後、結婚離婚、出産など、俗な話題にずり落ちてしまうのは、スポーツそのものへの冒涜ではないか。

敗北の覚悟

オリンピックも去ることながら、大きな大会で、選手が敗退すると、随分な口調で言い募る人がいる。選手を、手塩にかけて育ててきたかのような言い方だが、実に無様である。

 長いこと声援を送った程度のことで、まるでその投資が丸ごと勝利として還付されるかのごとく錯覚している。どこに元本保証が約束されていたのだ。

 そんなに確実なものが得たければ、最初から個人向け国債を買って、国の借金の話題のときだけ耳をふさいでおけばいいのに。

 精魂こめて、練習に練習を重ねたのに、負ける。練習量と結果には、直接な因果関係はない。全身全霊をこめて、戦うために練習をするのだ。練習量が勝利を保証するような、高利回りなら、こんなカンタンなことはない。

 しかしそれはスポーツではない。勝つか負けるか、最後は分からないから、スポーツは興奮する。

 そして何より、勝つにしろ、負けるにしろ、それを甘んじて受け入れられるためには全身全霊で戦わないといけない。そのために、練習を積み重ねるのではないか。

 成績を口汚くいうのは品性を疑う。ましてや、それをアスリートの人格につなげて、あしざまにいうなど、スポーツを鑑賞する姿勢として見苦しい。日ごろの行いがよかったら、パチンコで玉が沢山出るとでもいうのか。世の中、そんなに甘いのか。

 負ける覚悟もなく、勝負に挑むなんて、アスリートとはいえない。そして負ける覚悟もなく、応援するなんて、スポーツマンシップに反しているのではないか。

 負けたことを悔しがるのではなく、なじるなど、勝負を愛しているとは、ちょっと思えない。

ボクシングの観客でないことは確かw

2015年1月4日日曜日

神様は嘘をつく

神様におまかせ

初詣の楽しみは出店の次に、おみくじである。

 おみくじの文面をみると、吉凶以外に細かく指針を告げられている。

 神様のお告げは、古代においては巫女にしか得られないものであった。

 中世以降、沐浴潔斎し参篭して初めて感得できるようになる。

 さらにそれを手軽にしたのがおみくじである。

 文面を読んでみると分かるように、意外と易にちなんだものが多い。

 盛り上がり、極まると、やがて失速する。その間は大人しくして、周囲の信頼を得ること。

 記紀神話にこうした協調性は説かれていない。易経にかなり近い世界観である。

 実は神道の教義そのものは、教派神道以前は比較的教義が潔斎以外に少ない。

 そのため、民間に広まっていた易の概念を取り込んだのだろう。

 ところが、意外なのが、勝負事について予言していること。争いごと、勝つ。

 我々の神々は人間の勝負を予言する。イエスをつかわした神様ほど、プラトニックなものはない。

中世の訴訟世界

 訴訟大国であるアメリカの実情を知ると、日本人はそんなに争いが好きじゃないから、よくわかんない、みたいなことをいう人がいる。

 ところが中世に生きた、我々の祖先は違う。めちゃくちゃ訴訟をしている。所領の相続について、である。

 実は訴訟の文書が多かったがために、中世の実態研究は進んだといわれている。

 和紙と墨という、羊皮紙に比べて圧倒的に耐久性の強いため、当時から訴訟の資料として使用されてきた。

 この所領をだれそれが次ぐ、という文面を、誰がいつ発効したのか。(安堵状)

 もちろん、現代のように公文書を保管する期間などない。偽造も可能であった。賄賂を渡して結果を変えることも可能であった。(実際、適切な裁決ができなかった建武政権は、敵対する足利尊氏に中央を追われることになる)

 もちろん、賄賂がなくても、安堵状が曖昧で、裁決できないことも発生する。

 そうなったときの解決手段。神任せなのだ。カラスがどっちの訴状に向いたか、闘鶏でどっちが勝ったかなど、もう人智ではなく、神意をうかがって決定するという、今では考えられない不合理なものであった。

 正に神様の言う通り。あきらめろ、というルールだった。だから、現代のおみくじでも、勝負事は勝つのか負けるのか、記載しているのだ。

 右の頬を打たれたら、左の頬も打たれるかどうかを教えてくれるのが、我々の神々なのかもしれない。

 それが中世日本人の、注目ポイントであったのだから、当然だろう。そして、現代、毎朝見る占いのカウントダウンは、勝負事ではなく、人間関係や仕事のトラブル回避なのだ。お告げはいつも、人間くさい。

 チベットのことわざ。人は困ると神様に頼むが、神様は困ると嘘をつく。

 本当に困っているときに、神様とか、お告げとか、カウントダウンなど、当てにしてはならない。最後は自分で切り開け。占いやお告げなど、それ以外の心構え程度に聞いておけ。そんな意味合いだろう。

 シンプルだが、的を射ているようにいつも思う。

神様だからブランコに乗った志村を探してみたけど、やっぱりなかった。
古代キリスト教のシンボルの魚マーク。イエス様はお刺身好きだったわけではない。

2015年1月3日土曜日

お屠蘇気分でリモコンを

テレビがつまらない


 初見の人たちが「芸人」なるものを名乗って、画面ではしゃいでいる。何かゲームをやらされているが、しつこいくらい、自動車と住宅の広告がさしはさまれる。結局、何のゲームだったのか、クイズだったのか、よく分からないまま、視線を時計に戻すと、結構な時間を過ごしている。

 正月はレンタルビデオの貸し出しが増えるらしい。それもさもありなん。

 二時間、三時間、見慣れた人たちと、そうでない人たちががやがやと、雑な時間をつぶしてくれる。それに付き合っていたら、正月が空しかったことになりそうで危うくなるのだ。

「お正月の特番」

 とか、いうらしい。売れていない、お笑い芸人が面白くもないゲームでしゃかりきになるのは涙ぐましいが、ふと思う。ひょっとして、お正月のバカ騒ぎをきっかけに、次の仕事にありつけるぞ。そうたきつけられたのではないか。

 そして反証したことがないのではないか。

 お正月番組で注目されて、それ以降、着実に注目されるようになったタレントなどいないことを。

「○○年のお正月で人気が沸騰した」とか、「今年のニューイヤーを騒がせたスター」などといったキャッチは見たことがない。つまり、お正月番組と称して、売れない人たちが食いつないだだけなのだ。

 売れている人は正月前からも、正月以降も人気がある。

 お屠蘇気分でみるのもいいが、ふと札束で彼ら売れない人たちの頬をはたいたような気の毒さを感じて、余計に見苦しくなる。ここで面白ければ本人も納得いくだろうが、驚くほどやっつけ仕事でつまらない。

自爆

一昨年末から気になっていた言葉は「年賀はがきの自爆」である。

 非正規雇用の郵便配達員など、立場の弱い人たちに、雇用主は年賀はがきの販売のノルマを押し付けた。達成できない人は自腹で購入し、金券ショップに転売した。

 去年2014年年末も、今年もそうした話題は聞かなかった。さすがに是正されたのだろう。

 しかしそれが成り得たし、内部告発で明るみになったということに、本当はもっと寒々しい思いをしていいのではないか。

 慣例が常態化してノルマを設ける。立場の弱い人に、正規雇用をちらつかせて、札束で頬を叩く。

 とても近代的法治国家ではない。

 売れていない人も、非正規配達員も、そんな風に踏みつけられているのか。待て、そんなことがあったとして、一体、誰が望んでいるのか。

 おもんない、という以外にテレビを見ていられない理由はこれである。

テレビ自身の自傷行為を見せられているのではないか

2015年1月2日金曜日

楽しませ願望


随筆という表現

兎園小説という江戸時代の随筆集がある。

 一人が書いたものではなく、八犬伝の馬琴がプロデュースして、彼の知人が集い、見聞した摩訶不思議な出来事や、所感を述べる会をまとめたものである。現代では、江戸時代の文化を知る一級資料だろう。(江戸時代にUFOが来ていたという話題は、ここに掲載されている)

 現代であれば、ブログやSNSで発信できるだろう。そしてそれらがない、最近まではこうした紙媒体が当然である。

 しばしば古本市でみる、同人雑誌なども、観念的な文学作品にまじって、個人の随筆が多い。今ならブログで充分な内容だが、デジタルがここまで普及するまでは、原稿用紙に書いて、それを写植で印刷していたのだ。

 報道番組を見ていると、画面の端にツイートが表示されたりする。馬琴が見たら、愕然とする速さというべきだろう。

楽しいは伝染するとは限らない


 しばしば自己表現として、製作する人がいる。しかし中にはこちらの鑑賞など、まるで無視して、自分さえ楽しければいいという自己陶酔に辟易させられることがある。

 映像でも、テキストでも、いい迷惑である。

「自分が楽しいと思っていれば、きっと人に伝わるはず」

 そうか? トルストイは毎回締め切りがあるから泣く泣く新聞連載をして、『戦争と平和』を書き上げた。

 ドイルは本当に『最後の事件』でホームズを殺して、アーサー王や勇将ジェラールを書きたかったのに、母親の激怒と、読者の脅迫文に屈して『空き家事件』で復活させた。

 山田風太郎だって警視庁草子を書きたくて仕方がないのを押して、角川書店に忍法帖を書かされていた。

 みんながみんな、楽しく作ったものではないのではないか。

 楽しいは決して、伝染するとは限らない。ポップカルチャーの安っぽさを弁護するときに、しばしば使われる、この呪文は注意すべきではないか。

 テクノロジーが発達して、表現が個人でもカンタンになった。だからといって、人を楽しませようとする姿勢を失ったときに、たちまち魅力は色あせてしまう。パッケージとしてはそれらしいものになるが、決して人を楽しませるものではない。

 人が楽しくなくても、自分が楽しければいい。

 それも一つだろう。だが、それしかないのなら、逆にそれは反社会的な衝動というべきではないか。人に共感してもらえるような、面白いことを吐露するから、ブログが他人の時間を捕らえるだけの存在価値があるのではないか。

 という、一つの意見。

 なんとなく、自分の中で、整理して共感を呼べたらいいのになぁとスケベ心を出してしまう。


昔、東大寺の夜間ライトアップで、カメラを前に女の子たちが背広きて、
魔物とかかんとかケッタイな台詞いうてたなぁ。
京都ほどではないにしても、奈良にも不思議ちゃんって、いてるんやなぁって思った。

2015年1月1日木曜日

日の出ずるところ

初日の出

元旦。初日の出を今年は見れなかった。

 何年か前に市内で見たが、富士山のご来光でもないので、大して感動はなかった。

 日本という国号にもあるように、我々は太陽を信じている。日光浴すれば、滅菌されるし、陰干しかどうかはちゃんと聞くし、鉢植えを貰えばそれは直射日光に当てていいのか気にする。

 太陽を直接崇拝している年配のおばあちゃんもいる。彼女の曲がった背中を暖めるのは、お天道様である。

 それゆえ、太陽を崇拝するアトランティス大陸の人々が、日本人の祖になったという荒唐無稽をいう研究者が二十世紀初頭のヨーロッパにはいた。ナチのチベット・フェチみたいなものである。

太陽か皇帝か

網野善彦の紹介している中で、面白かったのは、聖徳太子が随の煬帝に宛てた親書である。

「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をおくる」(太陽が出るところの皇帝から、太陽の沈むところの皇帝へ書をおくります)

 日本史の結構最初に学ぶ、このフレーズ。煬帝がマジ切れしたという。日本が随の属国ではないことを表明した。

 授業ではみな聞いたはずである。

 日出ずるところ=これから盛り上がる国。日没するところ=これから沈んでいく国。

 だから煬帝は怒ったと。網野善彦はこれを中国の留学生に、煬帝目線で読んで貰った。

「なんで、怒るの?」

 日出ずるところ、没するところ、という表現は東西の詩的表現にしかすぎない。日が昇るところ=勢いがある、と感じるのは日本人が持つイメージなのだ(煬帝は世界に一人しかいない、天子という言葉を、漢民族ではない蛮族が名乗ったことに怒ったのだ)。

 国旗日の丸は正式には旭日旗。

 木曾義仲は旭将軍。勢いのあるもの、未来のあるものは、日の出によって表現される。

 初日の出。見たくもなるし、見れなくて、がっかりする感覚。すでに太陽を愛している証拠なのかもしれない。

光という漢字が、なぜ放射状に伸びているのか分かるような気がする。