2021年1月8日金曜日

文読まぬ月日

正月と、四月に売れるのは、日記帳と英会話教材なのだとか。

一年の門出に何かを始めようとするタイミングに、そうした時期はなるほどちょうどいい。

実は数年前にトルストイの『文読む月日』をちくま文庫で購入した。上中下巻をまとめて買うのではなく、読み終わったタイミングで買い足していこうとした。

その年は途中で読み飽きてしまった。

翌年は上中下巻を揃えて臨んだ。

それでも、挫折した。

翌年は日付に忠実ではなく、自由に読もうとルールをゆるくした。

それでも、挫折した。

どうして挫折したのだろうかと反省した。

反省した、翌年、やっぱり挫折した。

読んでいて、いい話だとは思うが、そんなに内省的になって、深く思索したり、罪について考えを巡らせることができないのだ。途中から読んでいて、苦しくなる。

割と重たくなってしまうし、読んでいないページが負債のようにかさみ、気が重くなる。

同様なコンセプトの本がある。禅語であったり、世界の名言であったり。

しかし、そうしたものには一切手出しをしなくなった。毎日続けるようなことができたら、とっくに何か、自分が納得できることを為していたのではないか。

そんなことを反省させられるからだ。

反省した翌年は、結局何か失敗する。今はいまのことを、精一杯積み重ねていこう。それこそ牛歩の歩みである。




2021年1月1日金曜日

できればフリーで生きていきたい。青空文庫編

丑年ということで、牛について考えてみようと、青空文庫で南方熊楠の十二支考を探してみた。

びっくりした。 

十二支考と言っておきながら、寅で始まり、子で終わり、11巻で終わっているのだ。牛はどこにいったのだ。

寅という、躍進の年の前年、しっかり蓄え、備える年というようなことを聞いたことがある。それなりの話は十二パターンあるのだろうが、着実に進むという心がけでいたい。

それより、むしろ青空文庫に注目してみた。
実は時々思い出して、検索している。

著作権フリーになるのが没後50年になるのだから、50年前に亡くなった作家を注意していないと、不用意に古本を蓄えてしまうことになってしまうからだ。

逆に集英社が吉川英治の三国志を、岩波書店が江戸川乱歩を刊行しているのに、度肝を抜かれたが、青空文庫を確認して納得した。没後50年経っていたのだ。(それ以来、年末になると没後50年経つであろう作者名を密かに検索している。もちろん入力ボランティアのおかげである。)

1961年に鬼籍に入ったのは、
柳 宗悦矢田 挿雲津田 左右吉村松 梢風などである。

気になったのは、津田左右吉。柳田國男ほど人気のないせいか、全集が充実しているのに、データ化は遅れるのだろうか。

現代においてなお、彼の研究を起点に語られることも多いのだから、やはり著作に触れられることに深い意義があるはずだ。

それどころか、動画でトンデモ歴史学(皇居の下にヤマタノオロチが封じ込められているとか)を目の当たりにすると、半世紀前の先賢に恥じ入るばかりである。

柳宗悦も楽しみだが、矢田挿雲の江戸文化に関する随筆も読めるとなると、落ち着かない。もう中公文庫を探し回らなくていいのだ。

幸い、正月早々、山本周五郎の風流太平記 が公開されている。新潮文庫を買いに行かなくていいのだ。

そう考えると、色々と目移りしてしまう。

昨秋だったか、自炊した短編集に岡本綺堂の半七捕物帳があり、一作目『お文の魂』があったので読んでみた。

トリックそのものはさほど、刮目すべきことはない。ところが、イギリスのシャーロック・ホームズがヴィクトリア王朝時代の習俗を盛り込んでいたことを模倣して、江戸の習俗を記録しようとするコンセプトが、明確になっている。

現代よく見る髷物ファンタジーと違い、岡本綺堂の筆致は話し方や日常の描写に奥行きがあり、世界に引き摺り込まれた。初出が大正6年というから、明治を経てもなお、江戸風情が残っていたのだろうか。

岡本綺堂を一気読みすることもできるのだ。青空文庫の罪の深さ。
ろくに寝正月すら、できないではないか。

今年は読みふけるに、事欠かないのかもしれない。


 

2020年9月13日日曜日

Welcome time travelers

証明された不可能説

2009年6月28日というから、10年以上も前のことになる。

今は亡きホーキング博士が、パーティーを開いた。その名も「welcome time travelers」。

パーティー終了後、彼は世界中の科学者に招待状を出したのだ。タイムマシーン完成の暁には、ぜひ出席してほしいと。

 これで完全に、タイムマシーンが作られないことが証明された。

 「タイムマシーンが科学的に成り立つのか」「理論上は可能なのか」

そういう面倒臭い議論を最終的にすっ飛ばして、証明しようと試みたのだ。

いつの時代か、完成したのであれば、パーティに出席していただろう。

招待状を見ることができなかったとしても、こうして語り草になり、Wikipediaにも載っているのに、それらを無視するのは、逆に困難だろう。

タイムマシーンに乗りたい

それでもなお、タイムマシーンは可能だと主張する人がいる。

それがどこまで本当かなど、実はどうでもいい。

今、ありえもしないことを想像し、考えを巡らせることができるからだ。単純にロマンがあるとか、楽しいとか享楽的な意味ではない。

反対に、現実にあり得ないことを想像しないとする。

かつて馬が移動手段であった時代、人間は時速60キロ以上に達すると、顔面に風が当たりすぎて呼気が出せず失神すると考えられていた。

鉄の塊が飛ぶわけがないし、三時間で東京と大阪を移動できるはずがない。それが当時の”リアル”だったのだ。

ところが現実は違う。60キロ以上で移動することは可能だし、失神するなどといえば、頭をどこかにぶつけたのか疑われるだろう。

それでいい。ヴェルヌが言ったように、我々は想像したことしか実現できないのだ。逆に想像しなければ、何も実現せず、60キロを超えたスピードという現実から逃げ回ることになるのだ。

タイムマシーンは否定された。

「あのホーキング博士ですら、こんな誤解をしていたんですよ」

そうシニカルに笑われる日が来るのではないか。そういう想像が、新たな現実を応援していくのではないだろうか。



2020年9月12日土曜日

ブログの維持と提供元の都合

 

seesaablogというサービスを、開始直後から使っていた。

ところが5、6年放置していた。

ログインしようとしたら、メールアドレスで弾かれて、どうやっても入れなくなっていた。

日本にブログが普及し始めた時、こうしたブログサービスは盛んに乱立した。芸能人に混じって投稿できるもの。自分の好きなアバターを設定できるもの。早くも広告とリンクして、収入に繋げられるもの。

アイデアでいろんなサービスが実現していきそうな気がしていた。

ところが、動画配信が誰でもできるようになると、テキストを書いて投稿するなどと面倒なことを誰もしなくなった。一言ふたこと書くよりも、写真を投稿したり、リズムに乗った動画を投稿したりするほうが、レスポンスがいい。

yahooやseesaaが相次いで、ブログサービスから撤退したのは、そうした背景があるのだろう。

googleのブログサービスなど、公開当初は見るも無残なもので、更新記事画面以外、レイアウトすらまともに変更できないちんぷなものであった。

ところがブログ自体がこうしてなくなっていく。googleだけが安定して使える無料サービスとして、ブログを維持しているのだ。

(かつて書いていた記事が無駄になる)

そう思って、読み返してみたが、実に大したことを書いていない。

移転しようと思ったが、写すほどの価値もない駄文だった。

Google Bloggerよ、永遠に。

あっさりサービスを打ち切ることで有名なgoogleが、かれこれ6、7年提供しているのだ。きっとユーザーが多く、これからも続いていくのだろう。頼むぜ。
 

 

2020年1月11日土曜日

賽銭箱を信じるな

正月休みに出雲大社に行きたいと思ったが、急に萎えた。調べていると、拝殿に長蛇の行列が写った写真を見つけたからだ。

一体、いつからあんなにラーメン屋みたいな行列ができるようになったのだろうか。東京出張で神田明神がそうだったのに、感心したが、それから急速に全国に波及したのでは無いだろうか。

前のじいさんが、膝と腰と肩と、息子の出世と、孫の学業成就と宝くじを願っている間も、辛抱強く待ち続けるのが正しい作法だというのだ。神道が嫌いになった理由はひとえにこれだ。

敬意を強制するくせに、何の教えも無い。

白々しい形式主義であることだ。なぜ柏手を打つのか。なぜ二礼二拍手なのか。誰も説明出来ない。

寺院では拝殿を右回りするのは、釈尊に敬意を示して、聖なる手である右を捧げる仕草で、右回りしていたことに由来する。ちゃんと理由がある。

神道は色んな宗教を受け入れる土壌であるという妄言。国つ神を神話に取り込んだが、記紀神話が編纂されるより二百年前に伝来していた仏教は一切神々と関わらない。

つまり神道は土着神や、縁故ある神々を祀っているが、拝礼儀式の集約に過ぎず、宗教とは到底呼べない。

列島の成り立ちや、人類の始まりを表現した箇所はあるが、それを本気で信じている人は、あの行列に一人もいないことからも証明されている。神様など信じない。信じているのは御利益だけなのだ。

それを仏教では無明という。

近隣の神社に親しく参拝する。縁ある神社や親しみを感じた社を定期的に尋ねる。素晴らしいことだ。

だが、そこで自分や家族の健康と長寿以上に、物欲を叶えられると信じているのだとしたら、無明ということだ。何の思索も無く、ただ端金を賽銭箱に投げ入れることで、都合良く現実を変えることができると、少しでも信じているのだとしたら、ハッピーはその頭の中で、すでに実現している。

精一杯のことが実現するか否かを預けるというくらい、頼みにしているのが、神を拝することなのだ。キリスト者ならこういうだろう。我々が神に仕えるべきであって、神を我々に仕えさせることはできないと。

だから、賽銭箱に放り込んで、柏手を打っただけで、使役できるような邪神を有り難がるのは、やはり無知蒙昧と言わざるを得ない。
仏教的におバカであり、キリスト教的に傲慢で、イスラム教的には野蛮なのだ。バカで傲慢で、野蛮な行為を自慢するなんて、世界平和を憲法で標榜する国民として、嘆かわしい。ましてや百年ほどしか経っていない、二礼二拍手の作法を古来からあったかのように、得意げに強制するのだ。

つまり、あの行列は何も考えていないということなのだ。

自分がもし、春日大社や住吉大社を拝しているなら、どうするか。

早朝に来て、さっさと自分の参拝を終える。遠方の、縁もゆかりもない神のために、長時間並ばされるほど、悪いことをした覚えは無い。

もし早い時間に参拝出来なかったとしても、行列に並ばない。皆の願いの次に、自分の願いも聞いて貰えるように、離れた場所で遥拝する。賽銭箱に遠いなら、入れない。

自己満足だと言われれば、一笑に伏すだろう。行列に並ぶことは、自己満足ではないと?
 

 

2020年1月2日木曜日

ネズミの出自

今年の干支はネズミ


ネズミの語源は根住み(根の堅洲国=地下の国に住んでいる者)。

死後の世界ヨミと同じと考えられるようになるのが、根の堅洲国であるから、死後の世界と現世を往来するということだろうか。

古事記では、ヒーローの一人、大己貴命が野火で焼き殺されそうになるところを、洞穴の所在を教えて助けてくれるのがネズミである。

小さいものに手伝ってもらって、ヒーローが窮地を脱する話が面白いと感じるのは、古代人も現代人も同じだろう。

そのためネズミは神様の使いだという説もある。すばしっこく動き回ることから、働き者であり、豊穣をもたらすと信仰されてきた。

しかしそんなお気楽なキャラとしての設定ばかりではない。

欧米の文化では、今でも映画で、不衛生の象徴としてネズミは描かれる。暗い洞窟や、不気味な暗闇に松明をかざすと、丸々と太った黒い毛並みが、見え隠れする。ジャジャーン、というように。

そんなにおぞましいように感じないビジュアルを、どうして怖く見せるのか。なぜ、ネズミが怖いのか。

幸いにも、日本でペストが流行した歴史がないため、バイキンを運んでくる、不衛生な生き物という意識が低いのだ。

またイースター島の文明を滅ぼしたのは、ネズミだと言われている。

絶海の孤島であったイースター島は、14世紀まで、豊かな作物が実る社会を持ち、石で人間の形を彫ったモアイ像が流行する。先祖を意味しているモアイ像はどんどん大きなものを製造することが人気となり、人々はこぞって、巨大なものを作ることに専念する。

しかし水面下で進行していたのは、文明の崩壊である。

漂流物でたどり着いたネズミによって、木の実が食い散らかされていたが、当時の人々はそれを危機と思っていなかった。

それが何十年と経つうちに、破壊されていく。木が育たないということは、防砂林が無くなるため、穀物が海風に晒されて育たない。海に魚を求めようとしても、船を作る木材もない。

人口は急速に減って行き、限られた農地を巡って殺し合いを繰り返す。日本で江戸時代の頃には、ついにはカニバリズムまで行われていたと判明している。

小さなネズミが島の文明を滅ぼしたのだ。

日本でも、鼠の妖怪として頼豪という僧侶が登場する。 白川法皇の求めに応じて、子供が生まれるように三井寺の高僧頼豪が祈祷し、大願成就して皇子が生まれる。

褒美として、三井寺に戒壇院の設立を許可してほしいと願うが、ライバルの比叡山に邪魔されて、法皇は許可しない。

怒った頼豪は100日断食して、鼠の怨霊となり、比叡山の経典を食いちぎる。皇子も幼くして死んでしまう。

平家物語に残っている説話なので、事実というより、伝承というべきだろうが、ここでも疫病と鼠は関わりを持つように描かれていない。

ねずみ返しという工法に、我が国の文明は守られていたのだろう。

エジプトではネズミを退治する生き物として、猫が神格化される。東京の国立博物館に展示される、猫の神像はキャットウーマンを連想させるような、クールビューティーなキャラだが、当時の人たちは生活に関わるのだから、必死でお供えをしていたはず。

十二支の由来


干支の順は説話上、釈尊の葬儀に到着した順番という設定である。釈尊入滅をみんな聞いていたのに、うっかり寝ていて聞いていなかった猫だけが、葬儀に行けず、一番最初に行ったネズミに嫉妬して、今でも追いかけているという由来譚。

逆恨みも甚だしい。

だが、面白いのは、問題の葬儀である。釈尊の入滅という、宗教上の悲劇は、磔刑で三日目に復活した人と異なり、そんなに深刻な悲劇性をもって語られない。(むしろ、棺桶に入れられた釈尊がむっくり起き出して、世の無常をプレゼンするという説話まで存在する)

この死んだことを嘆く様を描いたのが、涅槃図だが、いわば博物学的な演出を競うことになる。

つまり弟子たちや王族ばかりか、他の如来や菩薩、天部など、信仰上のキャラクターをたくさん描くことになる。彼らが釈尊の寝姿を上部に描くが、下には阿修羅の後に、動物たちが並ぶ。

ここでどれだけ動物が描けるのかが、絵師の博識を表すものとなった。

そしてよくみると、東福寺の涅槃図には猫が描かれているのだ。(じゃあ、葬儀に間に合って、ネズミを恨む必要などないのに)

猫にも、仏になる性質を持っているという、優しい表現と楽しめるとしよう。

もっと残念なことは、釈尊の入滅を指して、特定の宗教を支持することは、信教の自由を阻害することになるという、憲法の曲解である。

どういうことか。

児童の読み物の中には、十二支の由来を描く際に、釈尊の入滅とせず、白ひげの神様のお誕生日会ということになる。

(生きとしいけるものを、いたわり合いましょうと説いた釈尊を、動物までも慕って、葬儀に駆けつけたのではない。万物をお造りになった神様を皆で祝福しましょうというのだ。どっちが特定宗教をうんたら、なんだろうか)

これでは、涅槃図を見る機会に恵まれても、全然理解できない。

釈尊=仏教という宗教色を廃して、表現しようと工夫したつもりなのだろうが、それは本当に豊かなことなのだろうか。

ましてや、それをもって、昔から語られているお話を子供に親しんでもらっているのだとしたら、それは偽善ではないか。

2020年1月1日水曜日

初詣には行きたくない

新年早々、思ってしまうこと。

ずっと何年も前から、感じていることだ。


初詣に行きたくない。


なぜか?


あの長蛇の列に加わらないといけないのかと思うと、うんざりするのだ。


一体、いつからだろうか。


関西では拝殿の前に一列に並ぶようなことはなかった。東京出張の際、神田明神で並んでいるのを見て驚いたくらいだ。


商売繁盛で笹もってこいという、恵比寿まつりでは、そんな行儀よく並んでいたのでは、始まらない。わっと押し寄せ、左右にはけていくのがマナーになっている。十日恵比寿以外でも、天満宮では一斉に押し寄せて、めいめい賽銭を投げ込んでいた。


東の形式が関西に到達していたのである。


神様に対して、お行儀よく並ぶ方がいいのだろうか。そのことがずっと疑問であった。


仏教に縁あって得度した身であると、二列縦隊に並んでいることに滑稽さを感じる。


仏教寺院の作法は、右回りを基本にする。初期仏教教団で右肩を釈尊に向けて、経緯を払うというインドの作法が起源である。


それだけではない。譲り合って参拝するのがマナーである。
起源は簡単。仏教はお互いの命が繋がっていると説いているからだ。そのため、一番のタブーは殺生なのだ。(故意に生き物を殺せば、巡り巡って自分が殺されるという論理)
つまり我先に仏像の正面に進み出ることは、仏教的に矛盾してしまうのだ。


お互い譲り合い、助け合えという教えを聴きながら、自分がもっともいい角度で仏像を拝もうとするのは、浅ましく、愚かしいことであり、本尊さんも内心で舌打ちしているのだ。

残念ながら、どんなに誠心誠意で、思念を凝らして直訴しようが、他人を思いやれない人間にご利益はない。

それに引き換え、神道である。


神道は厳密にいうと宗教ではない。


宗教の定義を明確にすると、三つを備えているかどうか。


1.宗教施設を持っている。(寺院、教会、モスク。神社)


2.教義を信奉する組織がある。(仏教宗派、バチカン、ムスリム。神社本庁)


3.教義(仏典、聖書、コーランとハーディース。?)


神道には明確な教義がないのだ。血や肉など、死を連想させるものはケガレとして、タブー視されるが、魚介類は全然お供えOK。


禊祓いの儀礼や、概念は存在するが、それは生活規定に過ぎず、哲学的な思索を一切伴わない。


だから、一生懸命、神社にいって拝むが、行儀よく並ぶものの、決して譲り合いを推奨されるわけではない。


ましてや後ろの人間がどれだけ待とうが、自分も待ったのだから、思いの丈を一生懸命祈り込めて、いつまでも神前で立ち退かなかったとしても、神道的には何の問題もないのだ。


さらに帽子も取らず、手水鉢で清めようともしなくても、賽銭さえ投げ込めばいいなどという、不遜なマルクス主義者まで居座る始末。

そもそも、日本古来の神様を信じているとは、どういうことなのか。


古式ゆかしい作法で、神々への思慕と古代への羨望なく、はした金で、功徳が得られるとしたら、そんなもの信仰でも何でもない。偶像崇拝である。


神道は何を理想とするのか。
 

高天原で神々が集って、祭りをしたように、古代の日本人が神々を祭り、現代の我々も神々を祀ることを理想とするのだ。

それなのに、神々のことは信じないが、我先に名の知れた神社に押し込み、周囲への思いやりもなく、一際大きく柏手を打って祈願する。


だから、


「日本人はクリスマスも、初詣も、お葬式もある、なんでもあり文化なのだ」


という、戦後言われ続けた説明をいまだに踏襲しているを聞くと、ざわざわする。


なぜなら、神道の神は賽銭が欲しいのではないからだ。
 

神々は崇敬と思慕が続くことを求める。

神々は教義を説いていない。その代わり、感得することを推奨する。


では何を自得するのか。神々の清らかな心である。


それはどうやって実現するのか。波一つ立たぬ池のような心に、神々の心が満月のように、映り込むのだ。


雲がかかっていくような環境ではいけない。波たつような心ではいけない。


研ぎ澄まし、清らかで、朗らかな心でなければ、神々の心は映らない。


と、考えていると、どうしても初詣に行くことに気後れしてしまう。


何のことはない。


あの行列を長く並び、その間も、ずっと澄んだ気持ちでいられる自信がないのだ。
 

長蛇の列の中にあって、気持ちは濁り、体は疲弊して、はした金を放り込んで、その見返りを求める。

偶像崇拝してしまうことのバカバカしさを思うと、やはり気後れする。
そこで、考えた。
 

人気の少ない、神社を見つければいいと。

そこで落ち着き、不浄な気持ちが沈殿しきった、波のない心で柏手を静かに打とうと。

2019年10月14日月曜日

『ジョーカー』を観てみた

『グッドモーニング・ベトナム』を思わせるように、ナットキングコールの美しい曲が、狂気とのコントラストを先鋭に映し出す、予告編をみてから、ずっと気にはなっていた。

エンドクレジットが終わった瞬間から、きっと、黙っていられなくなる映画。

十年前のヒース・レジャーが快演した、『ダークナイト』のジョーカーが鮮烈すぎた。

彼のジョーカーは、それまでの悪役ジョーカーと一線を画していた。ゴッサムのギャングたちから巻き上げた金を、惜しげも無く燃やしてしまうのだ。彼が求めるのは、金でも権力でもない。ましてや恐怖ですらない。ただの混乱である。

突然口走る、自分の唇が切れている由来も、別々の話を始める。「目を合わせてはいけない人」を見てしまった気分になるのだ。

それがヒース・レジャーのジョーカーだった。ジャック・ニコルソンのようなコスプレではなく、ヤバい人がいる、という現実を突きつけてきた。

この後のジョーカーは、どんなものを作っても、陳腐になるだろうと予測された。

案の定、『スーサイド・スクワッド』のプリンちゃんである。悪の仮面をつけた、悪人という、古式ゆかしいジョーカーだ。全然怖くない。むしろ愛くるしく、白目剥いているだけで、安心させる。よかった。最後はバットマンに殴られるだけの、オトボケ悪役ではないか。ただのいじめっこである。怖くないし、彼が殴られても、見ていて、全然痛くない。

良かった、DCコミックもマーベルみたいに、ヒーローのユニットか、スピンオフでCGを多用したものを安直に作っていくのだと。

しかし急転するのが、本作『ジョーカー』である。

ヒース演じるジョーカーなら、「Why so serious?」(なんだ? そのツラは)と言い出しそうなくらい、暗い表情の男アーサーが主人公である。

コメディアンになることを夢見ている、中年オヤジ。咳をするように、笑い出してしまうことに、苦しんでいる男。デ・ニーロの楽しいトークショウを見ながら、いつか客席から呼び出され、ステージに上がることを妄想しているような、ショボい生活をしている男である。

身を守るために持っていた拳銃が、小児病棟でのショーで見つけられ、職を失う。傷害事件に巻き込まれていく。緊縮財政のため、カウンセリングを打ち切れる。母が望みをかけていた、ウェイン家への嘆願も、彼女の妄想であることが分かる。

助けを求めてあがいても、どんどん拒否されていく。どんどん、どんどん追い込まれていく

彼の帰宅シーンも寓話的で、長い階段をいくつも登らないといけない。あの階段から連想されるのは、一つ。『エクソシスト』のカラス神父である。悪魔を自らの体に乗り移らせ、飛び降り自殺する、いわば自己犠牲の象徴である。

その階段を鬱々とした表情で登っていたアーサーが、クライマックスではジョーカーに扮して、踊りながら降りる。鮮やかな衣装をまとい、軽やかに舞う。喜びをこらえ切れないでいる者の踊りだ。

差別的な笑いをする友人を殺害し、妄想に苦しむ母をも手にかけていく。到底、考えられなかったことをしでかすのに、アーサーは快楽を覚えていく。その喜びに、体が踊り出していくのだ。カラス神父が身を捧げた階段を踏みつけるように。

不幸な境遇にあっても、努力して、そこから這い上がる人はたくさんいる。

そういう努力を怠って、社会のせいにするような、反社会的な性格を認めるような映画ではないか。

そんな批判は確実に存在するだろう。

しかし、そうした努力論は本編をちゃんと観ていれば、分かる。クライマックスのトークショーで、デ・ニーロが同じことを発言している。

そしてアーサーはちゃんと答えている。笑い者にするために、呼び出したくせに。誰も助けなかったくせに。

まるで風邪気味のときに、咳をするように、場所をわきまえず、笑い出してしまう。その笑い声に誰もが戸惑うが、アーサー本人が困惑している。

その原因も明かされる。幼少期の虐待で脳にも損傷があった可能性が高い。

そういう虐待された人が、社会福祉で守られ、慎ましくも、楽しい日々を送ることは可能であるはずなのに、緊縮財政で支援が切られる。

公的支援が得られず、苦しんでいる人が、傷害事件に巻き込まれる。加害者として逃げるつもりが、賞賛されてしまう。

映画は主人公アーサーが救われる話ではなく、彼が狂気に魅了されていく過程を描く。だから、怖いのだ。

決して暴力を賞賛しているのではない。暴力を賞賛する映画なら、俳優の顔にあんなに返り血はかからない。暴力を肯定するのではない。社会を批判するのでもない。狂気に魅了されていく恐怖を描いているのだ。

問題はヒース・ジョーカーすら、殴られても痛くなかったのに、ホアキン・ジョーカーは殴られるのを見ていて痛々しい。息苦しい。見捨てられた男が苦しむだけなら、まだ救いがある。ささやかな幸せを探せばいいのだ。だが、彼が我々と違うものに、幸せを見つけてしまったら、どうだろう。それを静かなダンスとして、ホアキンは表現している。

トイレに隠れて、呼吸を整えていたつもりが、体が踊り始める。そして、その崇高にも見える姿に、共感してしまうのだ。そこに恐怖がある。

ああ、ジョーカーに共感するなんて、どうかしてるぞ。

子供に見せてはいけないと、本国では注意喚起している。その通り。ブルース・ウェインはクリスチャン・ベールのようなマッチョではなく、護衛に守られた、頼りない小学生である。みていて、ざわつく。では、バットマンと戦うジョーカーは、アーサーではないのか? ジョーカーは二代目なのかと、勝手に話を補完してしまう。

ラストのスローで展開する病院の白い廊下シーンに息を呑む。アーサーの赤い足跡がどういう意味か、誰でもすぐ分かるし、走り出して逃げる光景がすでにコメディのように見えてくる。ジョーカーがふざけ回る世界が始まってしまっているのだ。

ああ、胸騒ぎする映画。今年2019年一番の収穫ではないか。

2018年12月8日土曜日

人間の可能性(くしゃみ編)

1ブロックほど離れたところから、大きなくしゃみをするのが聞こえてきたことがあった。

ずっと以前に、テレビで見ていたことを思い出す。

一般女性がテレビのインタビューに対して、コメントしていた。

「可愛らしくくしゃみをしているオンナをみると、練習してるなと思ってしまう云々」

確かに結構たくましいガタイの女性が、子犬のようなくしゃみをされていることを見かけたことがある。なんと、あれはたゆまぬ修練の賜物なのだ。

待て。1ブロック先の男性は、時間を問わず、加藤茶も驚くほどのくしゃみをしていた。生理現象なのだから、それはどうしようもないものだとばかり思っていた。(結婚式場の配膳担当をしている加藤茶が、ウェディングケーキの前で大きなお盆ともどもひっくり返るのも、生理現象が原因だと思っていた)

しかしインタビューの証言を元にするなら、改善することができることになる。くしゃみそのものは生理現象だとしても、そのボリュームを変えることはできるのだ。

だとするなら、何という福音だろうか。人間はいつでも変わることができるのだ。アドラー心理学万歳ではないか。

あの、周囲をどっきりさせてしまっているくしゃみも、深夜早朝に顰蹙を買うくしゃみも、工夫次第で変えられるのだ。

本人だけが気にしていないことも多い(そのため、大きなくしゃみをする人はデリカシーがないと誤解されることが多い)。

自分は地声が低い。低周波は人間の耳に入りにくい。だから、高い声を心がけるようにと昔、上司に言われてから、ずっと高く発声するように心がけている。いつしか、それが自然になった。

まさに精神を凌駕するのは、理性や信念でなく、習慣である。

と、ここまで書いてみて気になった。くしゃみが大きい人はそもそも、そのことを気に病むのだろうかと。

2018年12月2日日曜日

『ボヘミアン・ラプソディ』を観てみた

前評判抜きに、予告のクリップを観てから、ずっと観たかった。これは劇場でないと。

楽曲がいいから、どうやっても盛り上がるに決まっていると思っていたし、アイマックスシアターで観て、やっぱり感動した。

振り返ってみる。おヒゲ同士のチューを、そんなにいるのかと思ったり、全米ツアーがイメージクリップのように、片付けられたこと、ドラマとして父親との葛藤などが、ほぼ描かれなかったことに、物足りなさは残る。

しかしドキュメンタリー的な要素として、楽しみは尽きない。以下、ネタバレ。

ボヘミアン・ラプソディが発表当時、各紙で酷評されていたこと(フラッシュやバイシクルレースではなく、このタイトルだから、四十年後の我々がチケットを買ったのに?)や、当然それが覆されたこと。

We will rock youの誕生秘話も良かった。観客が参加するというアイデアに、取り組むという、好奇心が見事に成功している。(観終わったら、最初に知ったかしようと思った。)

そのルーツとなり、映画の象徴といえるのは、フレディのスキャットである。

マイクを通して、澄んだ声が呼びかける。エーオ。

スクリーンいっぱいに映し出された”群衆”が、うねりとなって応える。エーオ。

普段、テレビの向こうに映し出されている”群衆”は、悲鳴をあげ、殴られ、逃げ惑う。怒りと、混乱しかない。しかし、スクリーンに描かれた群衆は興奮と喜びに満ち溢れている。そうか、彼らもステージ側も、同じ人間なのだと気づく。

パフォーマーであるフレディが実現する、美しい歌声の世界に、群衆が熱狂する。美しいものに、人は惹きつけられ、共鳴し、感動する。

そんなテーマを凝縮した二時間であれば、見ていて、誰だって感動するのは当たり前である。現代へのシンプルなアンチテーゼだ。ライブでも、四十年後も、人を動かすのは、偏狭なヘイトスピーチではなく、美しい歌声であると。

さらに、ライブ資料さながらに再現された、ステージシーンで、字幕にしばしば見入ってしまう。

特にラストのWe are the chanpion。我々は勝利者だ、友よ。敗者はいない。最後まで戦い抜くんだ。まるで福音書を思わせる歌詞だった。曲も歌声も素晴らしいが、歌詞も良かったのだ。この曲をもし、母国語として聞けたなら、どんなに感動できただろう。

君がどうしたとか、彼女がどうしたとかを、サビだけリズミカルな曲を、延々とコンビニでも食堂でも聞かされる日常とは、だいぶかけ離れている。

クイーンの全盛期よりはるかに、便利で快適な世界に住んでいるはずなのに、クイーン以上のアーティストが登場していないことに、もっと憤慨していいのではないか。

そんなことを思うと、劇場から出たあと、日常がちょっと変わってしまう。

またクライマックスでフレディがソロ活動として、アメリカのCBSと契約をしてしまう。その金額にメンバーは驚く。400万ドル。メンバーとともに、観客も驚いてしまう。

当時の日本円でいくらなのか分からないが、現代のレートでも億単位の額だ。

今年(2018年)性的マイノリティは生産性がないなどと、コミカルな発言をした人がいるらしい。

わお。生産性って、お金を稼ぐってことじゃなかったっけ。フレディの稼ぎが足りないなら、そういう彼女はいくら稼いでるつもりなんだろう? 性的嗜好と生産性は無関係であると、道徳抜きにしても、経済学的に証明済みではないか。(我々の代表を名乗る連中が、いつも通り無知であることに、やっぱり傷つく。もうちょい、社会勉強しようぜ)

ましてやフレディの両親は、かつての大英帝国の植民地であったインド出身。人種とか、性別とかが、楽曲のクオリティに関係あるというのは、誤解どころか、ただの妄想でしかないのだ。

何より、一人の天才フレディ・マーキュリーがクイーンを牽引したのではないと理解できる。アーティスト同士がぶつかり合い、意見を出し合い、議論し、磨き上げたからこそ、どの楽曲もいいのだと、改めて認識できる。

楽曲に向き合い、メンバーに向き合い、観客に向き合った。そうやって掘り出され、磨かれた宝石が輝きを放つ。

その美しさに共感できるのだから、やっぱり贅沢な映画である。

2018年12月1日土曜日

謎の言葉『パッド』

社用として購入したi-padをどう活用していくのか、という話題で話し合っている途中で違和感を感じた。

数人が固有名詞でもなく、タブレットpcとも言わず、「パッド」と呼んでいたのだ。

なんとなく感じた程度の違和感であったが、人それぞれの癖だと思っていた。

ところが別の日。

タブレット端末を手にして、その利便性について話しているのに出くわす。

昔日のノートPBなら、マウス操作が必要だった。場合によっては

「パッドが必要だった」

なに? よく聞くと、彼はマウスパッドのことを略して、「パッド」と呼んでいたのだ。

一つの単語に複数の意味があることは、よくある。

しかし一つの名詞に、別々のものを意味しているとしたら、すでに混乱なのではないか。しかも同時代の、同じIT周りの道具に対してである。
使っている当人たちは混乱しないのだろうか。

2018年9月23日日曜日

御朱印ばやり

田中公明さんのエッセイに記載されたと思う。

チベット人は愛国心はないが、愛法心は深いという。

一口に、チベット人といっても、チベットの西と東とでは、民族的に随分違いがあるから、一つの国という概念も希薄なんだとか。

では彼らの愛法心とは何か。

法とはダルマ、仏教である。熱心に彼らは観音菩薩のマントラを唱えるし、仏像を供養する。

特にこだわるのは伝授である。

「いつカーラ・チャクラの伝授を受けたのか、受けてないの? ああ、俺はもう何年も前に受けたよ(ドヤ顔)」というように。

ところが日常たるや、喧嘩もするし、口汚く言い争うことはすくなくないという。

およそ仏教徒らしからぬ性格のまま、決して改めようとせず、そのくせ、伝授をうけたことを競い合うように自慢するという。

伝統的な大乗仏教の考え方では、呪術を行って、人々の願いを叶える力が仏教に、そもそもある。それが現世利益(げんぜりやく)である。だが、それが目的になってはならない。

あくまでそれは手段であり、目的はそうした験力をもって、人々を教化することであると。

こうした主張はチベットでは、実現していないのではないかと疑わしく思えてしまう。

しかるに、仏教の正統を自認してやまない日本である。

150年前に開国して以来、アジア文化の代表を自負しており、チベットに対しても、長く無理解であった。

彼らと違う。様々な祖師が登場して、大乗仏教の本質を理解している。

そう言いたい。

本当に、そう言いたい。

ところがどうだろうか。昨今はやりの御朱印ばやりである。
本堂に参らず、本尊に手を合わせず、参拝記念のスタンプを集めるのだとしたら、笑止である。信仰の入り口ではあるが、信仰の玄関先でしかない。

ひどいものになると、無宗教や不信心であることを恥じず、寺社の権威や余得にだけはしっかり預かろうとするいかがわしい者までいる。
もっとひどくなると、ただのトラベリズムのくせに、そこにいった経歴を周囲に自慢する。般若心経を暗唱したと豪語する者までいる。

供養や回向という、大乗仏教の根拠となる部分が欠落しているのだ。

諸仏にぬかずき、詫び、人々の救済を願い、それによって自分が報われるようにすがる。この恥じらいとも、謝罪とも似た行為でやっと安心が得られる。

そういうもので十分ではないか。

いや、それを求める側だけではない。

中には、本当に版で押した紙に、日付だけをスタンプで押すところもある。

どうも、胡散臭い。

参拝の記念を求めるものも、与えるものも、最初から何も信じていない。いや、信じているとするなら、マルクスの経済学なのではないだろうか。

2018年9月8日土曜日

おしゃれmacをdisるな

AppleのテレビCMがかっこいい。

MacBookを使って、何か一生懸命に取り組んでいる人の、真剣な表情が映し出される。光るリンゴマークの裏で、何か世界を変えるような”何か”が作られているようなイメージである。

実際、macbookはSSDなんで、とにかく起動が早い。

カバンの中に入れておいたはずのメモ帳を探し出して、最後のページまでめくって、ボールペンのお尻を押して芯を出すという一連の流れよりも、確実に早く作業をはじめられる。

快適である。

色々と準備や待ち時間なしに、ダイレクトに使い始めることができる。

自分は快適だから使っている。快適で低価格なら、winマシーンでも、chromeosでもいいと思うが、コスパに見合うものに出会ったことがないだけのことである。

快適だから使っているが、そうでもない人も中にはいる。

おしゃれだから。

まるで90年代のvaioを使う人たちがそうだったように。

Let'sノートのスチームパンクのような頑丈さなものではなく、おしゃれ女子が小脇に抱えて使えるものこそいい、という時代がかつてはあった。

そのノリでリンゴマークをおしゃれアイテムとして持つ人がいる。

何度か、実在を確認したことがあるし、繁華街のスタバの窓際でそうした人を見かけない日はないだろう。意外とキーボードを使わず、トラックパッドに四苦八苦しながら、(macでショートカットを多用しないなんて)使っている。

トラックパッドのジェスチャーと、ショートカットでほとんどのことができるのに、わざわざwindowsマシンと同じような操作をして、もたもたとしているのを見ると、

(この人はおしゃれアイテムでmacを持ったんだな)

というのは、一目瞭然である。

ところが最近あることに気づいた。

おしゃれアイテム万歳である。

結局、おしゃれmacユーザーは、macbookが便利だから使っているのではない。おしゃれだから使っているのだ。

ということは型落ちしたものは、ダサいのだ。(macユーザーからすると、そっちの方がはるかにダサい)

つまりAppleが新しいものを作ると、そっちに買い換えるのだ。

Appleにとって、本当に優良なお客さんとは、おしゃれmacユーザーなのではないだろうか。

彼らが中古品として処分する、結構いいスペックのものを、鵜の目鷹の目で狙っているのが、利便性優先のユーザーなのだ。

型落ちしても、スペックがそんなに大きく遜色ないのだが、新しくない。このことは、もっと喧伝してほしい。おしゃれmacユーザーよ、君のmacはとっくに古びたものなのだ、振り返らずに中古取扱店舗に二束三文で売っぱらってしまえ。

スタバでそんなものを使っていたら、笑われるぞと。

おしゃれmacユーザーを決してディスらない。彼らのおかげで、中古がもっともっと供給されればいいのだ。使っていないmacがあれば、それもどんどん売り払えばいいのだ。

macbookは欲しいが、Airで充分である。

早く11.6インチで安い中古品が、出てこないかなぁ。

2018年8月30日木曜日

史劇を借りて

東映の『新撰組』を見た。

かなり早い段階で、鞍馬天狗が出てきたのには、びっくりした。ほとんど天狗のおじちゃんは活躍しないくせに。

月形半平太も登場してくる。大真面目に演じているが、虚実入り乱れて、ドラマとしてどこでどう盛り上がりたいのか、さっぱり伝わってこない。

そして、致命的なのは、びっくりするぐらい内容が薄い。片岡千恵蔵をみせるための映画。これでも映画なのだ。

香港映画でブルース・リーが登場したときの存在感は圧倒的であったという。

今の感覚で見たら、彼の動き以外に大した衝撃はないが、当時は違った。

主人公が親孝行で公明正大な性格ではなく、ただのふてくされたような、生意気な若造なのだ。生意気な若造が強いという設定に、香港の青少年たちはおどろき、劇場を後にするときには、みんな親指で鼻を弾いていたという。

それまでの香港映画は、様式美を守った、活劇の延長でしかなかったのだ。

この現象は日本でも同じで、長く様式美を遵守した作品が続く。大正時代の映画などは、舞台をそのまま撮影していた。

映画という独自メディアのアイデンティティなど、誰も理解できていなかった。

ブルースのリアリティも、アメリカンニューシネマと呼ばれる表現手法も渡来してきていない。

そんな牧歌的な時代劇である。

ただし、若い恋人二人を助けたい。感謝されたい。感心されたい。

寺田屋事件もなければ、清河八郎も登場しない。

史実を軽んじた、茶番である。

こういう俳優を見せるための映画が、長らく"活動屋"の文化だったのだ。(まあ、ストーリーの代わりに、タレントの大げさな表情と会話を撮影したものが作られることも少なくないようだ)

しかし、正月になると思う。

バブル期に制作された、長編時代劇のことである。

十二時間にも渡って、白虎隊や西南戦争、忠臣蔵を描くのである。

ところがこうしたものを、よく見てみると、結構大味で、制作の納期を急かされていたのだろう。脚本も衣装も粗雑さが目立つ。

展開の速さも、セットの寂しさも、俳優の声音と効果音で濁す。

太閤記を見たときは、明治以降、あれだけの文芸作品が書かれているにも関わらず、講談を映像化しただけだったのだ。
歴史好きな人がしばしば、二つに別れることがある。

一つは細部に過剰にこだわる。一つは少年期に見たもの以外に評価しない。

前者は聞いたことも無いような西洋史や、中国史を思い込みたっぷりに話してくれるが、原典を辿ったのではなく、権力闘争史観などに基づいた、本人の思い込みであったりすることが多い。

後者は保守的で、多様性を認めないから、新説をいち早く知りたがるが、いち早く批判したがる。

新撰組から脱線した。

しかし、こうもいえる。

しばしば思い込み(有名俳優を善人として描きたい、昔ながらのプロットをみたい)で作られることにおいては、実は伝統からブレていないのかもしれない。

2018年8月29日水曜日

廃業の贖罪

足繁く通っていたわけではないのに、覚えに行っていた店が閉店すると、贖罪意識が働く。

もっと足繁く通うべきではなかったか。味が単調ではないかとか、時々バイキングのデザートに規格外の酸味があったよとか。

都市部に住んでいると、立地がいいだけの店をよく見かける。客には製品やサービスではなく、賃料を払わせているようなもので、品質は粗悪極まりない。

それに対して、一生懸命、創意工夫をしている飲食店が閉店するのをいくつも見てきた。

どうしたよかったのだろう。どうすべきだったのだろう。次から、どうしたらいいのだろうか。

結局、何も結論を出すに至っていない。

最終的には、自分の責任ではないと割り切るしかない。自分が失敗したときのように、経営者は経済的に苦境に立たされるだろう。

それは決して、客の一人がどうこうできる問題ではなかったのだ。

いわば運命であったのではないか。そう思うことでしか、折り合いがつかない。

納得など、まるでできないが、折り合いをつけることで、贖罪意識から逃れるよう努めている。

だからといって、新しい店に移り気に次々とたずねるようにことはできない。

やっと気に入ったところを、見つけたとしても、またそこが閉店になるのかと思うと、気が重い。

気楽に食事をしようとして、こんな有様である。

やだなぁ。。。

とりとめないので、聞いた話。

ビートたけしがラジオ番組で、飲食店を紹介することになった。

番組内で紹介した合言葉をいうと、お会計時に割引になるというキャンペーンをするというのだ。

では、合言葉は何にしましょうかと問われて、彼は応えた。

「合言葉は『この店、食中毒事件起こしたんだって? もう大丈夫なの?』」

悪ふざけにも、ほどがある。これで潰れた店もあるのではないかと想像すると、いたたまれないような、バカバカしいような。

2018年8月28日火曜日

記事がかぶる

酒の場で、同じことをリフレインしたり、朝礼で同じことをぐるぐると語ってしまう人。

酩酊している人が、同じ話題をリフレインしているのは当然である。

しかしシラフで、同じ話を堂々巡りしているのはいただけない。発した端から、記憶が飛んでいるのでないか。そんな気がしてくる。

ブログ記事として、あれこれと書いている時に、実は似た経験をする。

ふと思いついたことを、メモにして、テキストを小一時間書いた挙句、そっくりの内容を過去の記事から見つけてしまう。

書籍を制作するのなら、こうした時に、編集者がしっかり監督してくれる。

ところが、素人でのんびり書いていると、こういうことは起こり得る。

電子書籍は誰でも自由に自己表現ができる、編集者がピンハネしない、自由なものであるとか、浮ついたことを語る人がいたが、随分である。こうした監修者を持つがゆえに、製品の品質が担保されるのだ。

逆にいうと、無料で公開しているブログはそうしたものではないのだろうか。

たまに古本市で、結構な同人雑誌が並んでいたりするが、奥付をみると、出版元は小金持ちの住む街の住所である。随筆と称しているが、内容たるや今のブログ記事程度でしかない。

それが個人単位で気楽に作れるようになったのは、ブログの最大の魅力ではないか。

気楽にできるから、気楽にやめられる。だから、手軽さのせいで、内容が被ったりするのではないだろうか。

まあ、ダ・ヴィンチコードも他の作品とかぶることがあるのだから、ご愛嬌ではないか。いいすぎか。

と、ここで書いてきて、不安になる。

こうした話題すらも、実は先に書いていたのではないかと。

(大丈夫。電子書籍の件は書いた記憶がないぞ)

2018年8月26日日曜日

A4をB5に

編集の仕事をしていた時のこと。

同業の人が、大手の気難しいクライアントに嫌われて出入りできなくなっていたのを見た。上司と彼が話したあと、上司が教えてくれた。

クライアントの担当者が彼に言った。

「冊子の判型を小さくするから、値段を安くしろ」

聞けば、従来A4サイズだったものをB5サイズに小さくする。その分、印刷代を安くしろというのだ。

無茶言うなぁ。用紙の価格から言っても、大差はない。印刷機にいたっては、同じである。

そればかりか、小さくなった分、情報量が少なくなってしまう。

本来、用途によって、判型を分けるべきなのだが、頓珍漢なクライアントはそれを理解できなかった。

あんぽんたんをてなづけるのは至難の技である。

論理的に整合性が取れている、矛盾点がないといった意味を表現する時の、日本語の慣用句は「道理で」である。

仏教用語であり、論理的に正解であることを指すから、正しい使い方である。

この「道理で」というのは、日本の近代的社会システムや工業製品の発展に、多いに貢献した。

筋道が正しく、整合性が取れていることは、正解であり、それを否定することは、不正解であり、不条理であり、恥であるという意識が育った。

もちろん、先の判型については、非論理的である。いわば紙を小さく斬れば、内容が凝縮されるのだと主張しているような、支離滅裂さである。

紙が小さいからといって、値段が下がるとしても、小銭程度。印刷や加工に至っては同じである。

そういう説明をしても、まるで通じないのだ。論理的ではない。

保守的で、日本文化や伝統だのと口にするクライアントではあったが、”伝統的な”フレーズ「道理で」については、まるで通じないのだ。

”日本文化”が聞いてあきれる。

だから、愛国を口にしたり、伝統だの、文化だのと口にする人を、今一つ信用する気になれない。不寛容で、横柄で、大体において勉強不足だからだ。

2018年8月25日土曜日

人権なのに

 祖山で仕事をしていたときのこと。

 夏場、山内の数少ないコンビニに、急激に、まるで降って湧いたような人だかりがレジに並ぶ。

 大量に団体参拝があったのかと思ったが、そのほとんどがネクタイ姿である。会社の研修にしては、結構年配の男性たちばかりであった。

 取材先から帰ってきた先輩が教えてくれた。

「人権教育の研修だね」

 人権を教育する立場の教員たちが、研修として祖山を選ぶなのだとか。

 夏休みの大学校舎を使って、研修をするのだ。

 そこで講義を受けたり、質疑をしたり、議論を重ねるのかと思いきや、冒頭の挨拶のあとは、みな自由解散。

 参加者ー受講者=山内お散歩。

 山内お散歩するのは多いに結構である。避暑地としても名高いではないか。

 だが、である。

 人権を学ぶ機会を踏みつけにして、山内の喫茶店で談笑したり、うたた寝をしていたのだとしたら、どうだ。

 怠けることもあるだろう。人間だもの。

 だが、しかし、である。

 人権を口にして、人間の生存のなんたるかを考えもしないで、テキトーに口頭でガキどもをだまくらかせばいいのだとしたら、三つ冒涜である。

 未来ある生徒への冒涜。人権という近代の叡智への冒涜。そして自身の人権に対する冒涜である。

 こっちは痛くもかゆくもない。人権派を標榜する連中のことを、これからもシラフでは聞かないだけのことである。あほんだらが。

2018年7月27日金曜日

毎朝ブログなど

 毎朝、ブログを書いていくと、頭を整理していくことができるというような話を聞いた。以前にも聞いた覚えがある。

 読んだ本の話題であったり、身近なことを書いていくことで、脳を活性化していくのだとか。アウトプットすれば、情報を整理していくことができるのだとか。

 最近読み終わった本について、考えるが、どれも途中で投げ出したものではないだろうか。

 ある読書会に出た。ほかの参加者がいなくて、主催者と二人で話すことになってしまった。

「今まで、何冊読んでますか?」

 何? 今月? 今年? まさか、現世?

 本を読んだことを、いちいちカウントしてこなかった。読んだものの、退屈な本をがんばって読んだこともある。面白い本は内容を結構覚えているものだ。

 読書体験を冊数でカウントするのは、本を読むことで知的活動をしていると過剰に身構えているようで、あまり好きではない。

 くだらないビジネス書や、自己啓発本を何冊読んでも、いいものをじっくり読んだものとは程遠い。もちろん”いいもの”の定義はそれこそ、自由であるべきだ。

 確かに読んだ内容を簡単にまとめていくことは、理解を定着させるのにいいのかもしれない。

 しかしどうしても思ってしまう。

 読むに値する内容を書かないといけないのではないかと。

 つまらない内容のブログを読んでいると、どうしても考えてしまう。

 考えたのに、こんな記事になってしまうなんて。という矛盾。

2018年7月14日土曜日

臆病者は壺を売られる

 職場の近くに海外留学を紹介するカウンターができた。

 その前を通り過ぎた時、若い男性二人の会話が聞こえた。

「壺を売りつけられるのではないか」

 いい。実にいい、臆病ぶりである。憶測と、貧相な想像力だけで世界の危機をいつも感じている臆病加減がすこぶるいい。

 彼らの頭のなかでは、常に陰謀と恐怖が渦巻いているのだ。

 オウムによるサリン事件が報道された時、阪神・淡路大震災で炊き出しの小学校に寝泊まりしていた。

 そこでさも、事情通の人が語っていた。

 テレビ放送で公共広告がやたら目立っている。

 震災によって、人々が動揺している。

 その感に、国家は支配体制を強化するために、公共広告を入れて、国民を都合よく洗脳しようとしていると。

 ほんとかなぁと思っていた。

 案の定、あとから違うことが分かった。

 震災の報道を行うにも、スポンサーが必要である。しかしスポンサーが作るCMはもちろん、商品を告知するのが目的である。当然、浮世離れした演出もある。楽しさを表現したものもある。

 そうしたものを放映していたら、この緊急時に何を気楽なことをしているのかと、顰蹙を買ってしまうことがある。

 だから、スポンサーの降板が相次いだし、名称を流すが、CMを流さないということも起こった。その合間をうめるための、放送局にとってフリー素材的なものが公共広告だったのだ。

 これは現に、のちの東日本大震災でも同じことが起こる。

 菅直人のボンクラさは到底、隠しおおせるものではなく、国家権力の求心力はだだ下がり。その間に挨拶しましょうという公共広告が結構な頻度で流れたのだ。ポポポ、ポーンのアレである。

 阪神・淡路大震災の時、村山内閣は長く続かなかったし、批判にさらされた。国が国民を洗脳しようとしているのなら、どう考えても大失敗である。

 なんとなく、したり顔で語る事情通。憶測で現象を付け足しているだけなのだ。何も分かってはいない。

 しかし、そういう人を見ると、たまらなく嬉しくなる。世界の真実を知ったふりで、まんまとテロリストの手先となって恐怖を煽るような輩は、こうした事情通なのだ。

 壺を売りつける側は誰を狙っているのか。その商品価値は恐怖や不安を和らげること。つまり怯えるものほど、格好の餌食なのだ。

 売る方も、売りつけられる方も、本体はただの臆病者。恐るに、強烈物足りない。

「早すぎた。腐ってやがる」の巨神カエルなんだとか。