2018年12月2日日曜日

『ボヘミアン・ラプソディ』を観てみた

前評判抜きに、予告のクリップを観てから、ずっと観たかった。これは劇場でないと。

楽曲がいいから、どうやっても盛り上がるに決まっていると思っていたし、アイマックスシアターで観て、やっぱり感動した。

振り返ってみる。おヒゲ同士のチューを、そんなにいるのかと思ったり、全米ツアーがイメージクリップのように、片付けられたこと、ドラマとして父親との葛藤などが、ほぼ描かれなかったことに、物足りなさは残る。

しかしドキュメンタリー的な要素として、楽しみは尽きない。以下、ネタバレ。

ボヘミアン・ラプソディが発表当時、各紙で酷評されていたこと(フラッシュやバイシクルレースではなく、このタイトルだから、四十年後の我々がチケットを買ったのに?)や、当然それが覆されたこと。

We will rock youの誕生秘話も良かった。観客が参加するというアイデアに、取り組むという、好奇心が見事に成功している。(観終わったら、最初に知ったかしようと思った。)

そのルーツとなり、映画の象徴といえるのは、フレディのスキャットである。

マイクを通して、澄んだ声が呼びかける。エーオ。

スクリーンいっぱいに映し出された”群衆”が、うねりとなって応える。エーオ。

普段、テレビの向こうに映し出されている”群衆”は、悲鳴をあげ、殴られ、逃げ惑う。怒りと、混乱しかない。しかし、スクリーンに描かれた群衆は興奮と喜びに満ち溢れている。そうか、彼らもステージ側も、同じ人間なのだと気づく。

パフォーマーであるフレディが実現する、美しい歌声の世界に、群衆が熱狂する。美しいものに、人は惹きつけられ、共鳴し、感動する。

そんなテーマを凝縮した二時間であれば、見ていて、誰だって感動するのは当たり前である。現代へのシンプルなアンチテーゼだ。ライブでも、四十年後も、人を動かすのは、偏狭なヘイトスピーチではなく、美しい歌声であると。

さらに、ライブ資料さながらに再現された、ステージシーンで、字幕にしばしば見入ってしまう。

特にラストのWe are the chanpion。我々は勝利者だ、友よ。敗者はいない。最後まで戦い抜くんだ。まるで福音書を思わせる歌詞だった。曲も歌声も素晴らしいが、歌詞も良かったのだ。この曲をもし、母国語として聞けたなら、どんなに感動できただろう。

君がどうしたとか、彼女がどうしたとかを、サビだけリズミカルな曲を、延々とコンビニでも食堂でも聞かされる日常とは、だいぶかけ離れている。

クイーンの全盛期よりはるかに、便利で快適な世界に住んでいるはずなのに、クイーン以上のアーティストが登場していないことに、もっと憤慨していいのではないか。

そんなことを思うと、劇場から出たあと、日常がちょっと変わってしまう。

またクライマックスでフレディがソロ活動として、アメリカのCBSと契約をしてしまう。その金額にメンバーは驚く。400万ドル。メンバーとともに、観客も驚いてしまう。

当時の日本円でいくらなのか分からないが、現代のレートでも億単位の額だ。

今年(2018年)性的マイノリティは生産性がないなどと、コミカルな発言をした人がいるらしい。

わお。生産性って、お金を稼ぐってことじゃなかったっけ。フレディの稼ぎが足りないなら、そういう彼女はいくら稼いでるつもりなんだろう? 性的嗜好と生産性は無関係であると、道徳抜きにしても、経済学的に証明済みではないか。(我々の代表を名乗る連中が、いつも通り無知であることに、やっぱり傷つく。もうちょい、社会勉強しようぜ)

ましてやフレディの両親は、かつての大英帝国の植民地であったインド出身。人種とか、性別とかが、楽曲のクオリティに関係あるというのは、誤解どころか、ただの妄想でしかないのだ。

何より、一人の天才フレディ・マーキュリーがクイーンを牽引したのではないと理解できる。アーティスト同士がぶつかり合い、意見を出し合い、議論し、磨き上げたからこそ、どの楽曲もいいのだと、改めて認識できる。

楽曲に向き合い、メンバーに向き合い、観客に向き合った。そうやって掘り出され、磨かれた宝石が輝きを放つ。

その美しさに共感できるのだから、やっぱり贅沢な映画である。

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