2020年1月1日水曜日

初詣には行きたくない

新年早々、思ってしまうこと。

ずっと何年も前から、感じていることだ。


初詣に行きたくない。


なぜか?


あの長蛇の列に加わらないといけないのかと思うと、うんざりするのだ。


一体、いつからだろうか。


関西では拝殿の前に一列に並ぶようなことはなかった。東京出張の際、神田明神で並んでいるのを見て驚いたくらいだ。


商売繁盛で笹もってこいという、恵比寿まつりでは、そんな行儀よく並んでいたのでは、始まらない。わっと押し寄せ、左右にはけていくのがマナーになっている。十日恵比寿以外でも、天満宮では一斉に押し寄せて、めいめい賽銭を投げ込んでいた。


東の形式が関西に到達していたのである。


神様に対して、お行儀よく並ぶ方がいいのだろうか。そのことがずっと疑問であった。


仏教に縁あって得度した身であると、二列縦隊に並んでいることに滑稽さを感じる。


仏教寺院の作法は、右回りを基本にする。初期仏教教団で右肩を釈尊に向けて、経緯を払うというインドの作法が起源である。


それだけではない。譲り合って参拝するのがマナーである。
起源は簡単。仏教はお互いの命が繋がっていると説いているからだ。そのため、一番のタブーは殺生なのだ。(故意に生き物を殺せば、巡り巡って自分が殺されるという論理)
つまり我先に仏像の正面に進み出ることは、仏教的に矛盾してしまうのだ。


お互い譲り合い、助け合えという教えを聴きながら、自分がもっともいい角度で仏像を拝もうとするのは、浅ましく、愚かしいことであり、本尊さんも内心で舌打ちしているのだ。

残念ながら、どんなに誠心誠意で、思念を凝らして直訴しようが、他人を思いやれない人間にご利益はない。

それに引き換え、神道である。


神道は厳密にいうと宗教ではない。


宗教の定義を明確にすると、三つを備えているかどうか。


1.宗教施設を持っている。(寺院、教会、モスク。神社)


2.教義を信奉する組織がある。(仏教宗派、バチカン、ムスリム。神社本庁)


3.教義(仏典、聖書、コーランとハーディース。?)


神道には明確な教義がないのだ。血や肉など、死を連想させるものはケガレとして、タブー視されるが、魚介類は全然お供えOK。


禊祓いの儀礼や、概念は存在するが、それは生活規定に過ぎず、哲学的な思索を一切伴わない。


だから、一生懸命、神社にいって拝むが、行儀よく並ぶものの、決して譲り合いを推奨されるわけではない。


ましてや後ろの人間がどれだけ待とうが、自分も待ったのだから、思いの丈を一生懸命祈り込めて、いつまでも神前で立ち退かなかったとしても、神道的には何の問題もないのだ。


さらに帽子も取らず、手水鉢で清めようともしなくても、賽銭さえ投げ込めばいいなどという、不遜なマルクス主義者まで居座る始末。

そもそも、日本古来の神様を信じているとは、どういうことなのか。


古式ゆかしい作法で、神々への思慕と古代への羨望なく、はした金で、功徳が得られるとしたら、そんなもの信仰でも何でもない。偶像崇拝である。


神道は何を理想とするのか。
 

高天原で神々が集って、祭りをしたように、古代の日本人が神々を祭り、現代の我々も神々を祀ることを理想とするのだ。

それなのに、神々のことは信じないが、我先に名の知れた神社に押し込み、周囲への思いやりもなく、一際大きく柏手を打って祈願する。


だから、


「日本人はクリスマスも、初詣も、お葬式もある、なんでもあり文化なのだ」


という、戦後言われ続けた説明をいまだに踏襲しているを聞くと、ざわざわする。


なぜなら、神道の神は賽銭が欲しいのではないからだ。
 

神々は崇敬と思慕が続くことを求める。

神々は教義を説いていない。その代わり、感得することを推奨する。


では何を自得するのか。神々の清らかな心である。


それはどうやって実現するのか。波一つ立たぬ池のような心に、神々の心が満月のように、映り込むのだ。


雲がかかっていくような環境ではいけない。波たつような心ではいけない。


研ぎ澄まし、清らかで、朗らかな心でなければ、神々の心は映らない。


と、考えていると、どうしても初詣に行くことに気後れしてしまう。


何のことはない。


あの行列を長く並び、その間も、ずっと澄んだ気持ちでいられる自信がないのだ。
 

長蛇の列の中にあって、気持ちは濁り、体は疲弊して、はした金を放り込んで、その見返りを求める。

偶像崇拝してしまうことのバカバカしさを思うと、やはり気後れする。
そこで、考えた。
 

人気の少ない、神社を見つければいいと。

そこで落ち着き、不浄な気持ちが沈殿しきった、波のない心で柏手を静かに打とうと。

0 件のコメント:

コメントを投稿