新年早々、思ってしまうこと。
ずっと何年も前から、感じていることだ。
初詣に行きたくない。
なぜか?
あの長蛇の列に加わらないといけないのかと思うと、うんざりするのだ。
一体、いつからだろうか。
関西では拝殿の前に一列に並ぶようなことはなかった。東京出張の際、神田明神で並んでいるのを見て驚いたくらいだ。
商売繁盛で笹もってこいという、恵比寿まつりでは、そんな行儀よく並んでいたのでは、始まらない。わっと押し寄せ、左右にはけていくのがマナーになっている。十日恵比寿以外でも、天満宮では一斉に押し寄せて、めいめい賽銭を投げ込んでいた。
東の形式が関西に到達していたのである。
神様に対して、お行儀よく並ぶ方がいいのだろうか。そのことがずっと疑問であった。
仏教に縁あって得度した身であると、二列縦隊に並んでいることに滑稽さを感じる。
仏教寺院の作法は、右回りを基本にする。初期仏教教団で右肩を釈尊に向けて、経緯を払うというインドの作法が起源である。
それだけではない。譲り合って参拝するのがマナーである。
起源は簡単。仏教はお互いの命が繋がっていると説いているからだ。そのため、一番のタブーは殺生なのだ。(故意に生き物を殺せば、巡り巡って自分が殺されるという論理)
つまり我先に仏像の正面に進み出ることは、仏教的に矛盾してしまうのだ。
お互い譲り合い、助け合えという教えを聴きながら、自分がもっともいい角度で仏像を拝もうとするのは、浅ましく、愚かしいことであり、本尊さんも内心で舌打ちしているのだ。
残念ながら、どんなに誠心誠意で、思念を凝らして直訴しようが、他人を思いやれない人間にご利益はない。
それに引き換え、神道である。
神道は厳密にいうと宗教ではない。
宗教の定義を明確にすると、三つを備えているかどうか。
1.宗教施設を持っている。(寺院、教会、モスク。神社)
2.教義を信奉する組織がある。(仏教宗派、バチカン、ムスリム。神社本庁)
3.教義(仏典、聖書、コーランとハーディース。?)
神道には明確な教義がないのだ。血や肉など、死を連想させるものはケガレとして、タブー視されるが、魚介類は全然お供えOK。
禊祓いの儀礼や、概念は存在するが、それは生活規定に過ぎず、哲学的な思索を一切伴わない。
だから、一生懸命、神社にいって拝むが、行儀よく並ぶものの、決して譲り合いを推奨されるわけではない。
ましてや後ろの人間がどれだけ待とうが、自分も待ったのだから、思いの丈を一生懸命祈り込めて、いつまでも神前で立ち退かなかったとしても、神道的には何の問題もないのだ。
さらに帽子も取らず、手水鉢で清めようともしなくても、賽銭さえ投げ込めばいいなどという、不遜なマルクス主義者まで居座る始末。
そもそも、日本古来の神様を信じているとは、どういうことなのか。
古式ゆかしい作法で、神々への思慕と古代への羨望なく、はした金で、功徳が得られるとしたら、そんなもの信仰でも何でもない。偶像崇拝である。
神道は何を理想とするのか。
高天原で神々が集って、祭りをしたように、古代の日本人が神々を祭り、現代の我々も神々を祀ることを理想とするのだ。
それなのに、神々のことは信じないが、我先に名の知れた神社に押し込み、周囲への思いやりもなく、一際大きく柏手を打って祈願する。
だから、
「日本人はクリスマスも、初詣も、お葬式もある、なんでもあり文化なのだ」
という、戦後言われ続けた説明をいまだに踏襲しているを聞くと、ざわざわする。
なぜなら、神道の神は賽銭が欲しいのではないからだ。
神々は崇敬と思慕が続くことを求める。
神々は教義を説いていない。その代わり、感得することを推奨する。
では何を自得するのか。神々の清らかな心である。
それはどうやって実現するのか。波一つ立たぬ池のような心に、神々の心が満月のように、映り込むのだ。
雲がかかっていくような環境ではいけない。波たつような心ではいけない。
研ぎ澄まし、清らかで、朗らかな心でなければ、神々の心は映らない。
と、考えていると、どうしても初詣に行くことに気後れしてしまう。
何のことはない。
あの行列を長く並び、その間も、ずっと澄んだ気持ちでいられる自信がないのだ。
長蛇の列の中にあって、気持ちは濁り、体は疲弊して、はした金を放り込んで、その見返りを求める。
偶像崇拝してしまうことのバカバカしさを思うと、やはり気後れする。
そこで、考えた。
人気の少ない、神社を見つければいいと。
そこで落ち着き、不浄な気持ちが沈殿しきった、波のない心で柏手を静かに打とうと。
0 件のコメント:
コメントを投稿