2019年10月14日月曜日

『ジョーカー』を観てみた

『グッドモーニング・ベトナム』を思わせるように、ナットキングコールの美しい曲が、狂気とのコントラストを先鋭に映し出す、予告編をみてから、ずっと気にはなっていた。

エンドクレジットが終わった瞬間から、きっと、黙っていられなくなる映画。

十年前のヒース・レジャーが快演した、『ダークナイト』のジョーカーが鮮烈すぎた。

彼のジョーカーは、それまでの悪役ジョーカーと一線を画していた。ゴッサムのギャングたちから巻き上げた金を、惜しげも無く燃やしてしまうのだ。彼が求めるのは、金でも権力でもない。ましてや恐怖ですらない。ただの混乱である。

突然口走る、自分の唇が切れている由来も、別々の話を始める。「目を合わせてはいけない人」を見てしまった気分になるのだ。

それがヒース・レジャーのジョーカーだった。ジャック・ニコルソンのようなコスプレではなく、ヤバい人がいる、という現実を突きつけてきた。

この後のジョーカーは、どんなものを作っても、陳腐になるだろうと予測された。

案の定、『スーサイド・スクワッド』のプリンちゃんである。悪の仮面をつけた、悪人という、古式ゆかしいジョーカーだ。全然怖くない。むしろ愛くるしく、白目剥いているだけで、安心させる。よかった。最後はバットマンに殴られるだけの、オトボケ悪役ではないか。ただのいじめっこである。怖くないし、彼が殴られても、見ていて、全然痛くない。

良かった、DCコミックもマーベルみたいに、ヒーローのユニットか、スピンオフでCGを多用したものを安直に作っていくのだと。

しかし急転するのが、本作『ジョーカー』である。

ヒース演じるジョーカーなら、「Why so serious?」(なんだ? そのツラは)と言い出しそうなくらい、暗い表情の男アーサーが主人公である。

コメディアンになることを夢見ている、中年オヤジ。咳をするように、笑い出してしまうことに、苦しんでいる男。デ・ニーロの楽しいトークショウを見ながら、いつか客席から呼び出され、ステージに上がることを妄想しているような、ショボい生活をしている男である。

身を守るために持っていた拳銃が、小児病棟でのショーで見つけられ、職を失う。傷害事件に巻き込まれていく。緊縮財政のため、カウンセリングを打ち切れる。母が望みをかけていた、ウェイン家への嘆願も、彼女の妄想であることが分かる。

助けを求めてあがいても、どんどん拒否されていく。どんどん、どんどん追い込まれていく

彼の帰宅シーンも寓話的で、長い階段をいくつも登らないといけない。あの階段から連想されるのは、一つ。『エクソシスト』のカラス神父である。悪魔を自らの体に乗り移らせ、飛び降り自殺する、いわば自己犠牲の象徴である。

その階段を鬱々とした表情で登っていたアーサーが、クライマックスではジョーカーに扮して、踊りながら降りる。鮮やかな衣装をまとい、軽やかに舞う。喜びをこらえ切れないでいる者の踊りだ。

差別的な笑いをする友人を殺害し、妄想に苦しむ母をも手にかけていく。到底、考えられなかったことをしでかすのに、アーサーは快楽を覚えていく。その喜びに、体が踊り出していくのだ。カラス神父が身を捧げた階段を踏みつけるように。

不幸な境遇にあっても、努力して、そこから這い上がる人はたくさんいる。

そういう努力を怠って、社会のせいにするような、反社会的な性格を認めるような映画ではないか。

そんな批判は確実に存在するだろう。

しかし、そうした努力論は本編をちゃんと観ていれば、分かる。クライマックスのトークショーで、デ・ニーロが同じことを発言している。

そしてアーサーはちゃんと答えている。笑い者にするために、呼び出したくせに。誰も助けなかったくせに。

まるで風邪気味のときに、咳をするように、場所をわきまえず、笑い出してしまう。その笑い声に誰もが戸惑うが、アーサー本人が困惑している。

その原因も明かされる。幼少期の虐待で脳にも損傷があった可能性が高い。

そういう虐待された人が、社会福祉で守られ、慎ましくも、楽しい日々を送ることは可能であるはずなのに、緊縮財政で支援が切られる。

公的支援が得られず、苦しんでいる人が、傷害事件に巻き込まれる。加害者として逃げるつもりが、賞賛されてしまう。

映画は主人公アーサーが救われる話ではなく、彼が狂気に魅了されていく過程を描く。だから、怖いのだ。

決して暴力を賞賛しているのではない。暴力を賞賛する映画なら、俳優の顔にあんなに返り血はかからない。暴力を肯定するのではない。社会を批判するのでもない。狂気に魅了されていく恐怖を描いているのだ。

問題はヒース・ジョーカーすら、殴られても痛くなかったのに、ホアキン・ジョーカーは殴られるのを見ていて痛々しい。息苦しい。見捨てられた男が苦しむだけなら、まだ救いがある。ささやかな幸せを探せばいいのだ。だが、彼が我々と違うものに、幸せを見つけてしまったら、どうだろう。それを静かなダンスとして、ホアキンは表現している。

トイレに隠れて、呼吸を整えていたつもりが、体が踊り始める。そして、その崇高にも見える姿に、共感してしまうのだ。そこに恐怖がある。

ああ、ジョーカーに共感するなんて、どうかしてるぞ。

子供に見せてはいけないと、本国では注意喚起している。その通り。ブルース・ウェインはクリスチャン・ベールのようなマッチョではなく、護衛に守られた、頼りない小学生である。みていて、ざわつく。では、バットマンと戦うジョーカーは、アーサーではないのか? ジョーカーは二代目なのかと、勝手に話を補完してしまう。

ラストのスローで展開する病院の白い廊下シーンに息を呑む。アーサーの赤い足跡がどういう意味か、誰でもすぐ分かるし、走り出して逃げる光景がすでにコメディのように見えてくる。ジョーカーがふざけ回る世界が始まってしまっているのだ。

ああ、胸騒ぎする映画。今年2019年一番の収穫ではないか。

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