今年の干支はネズミ
ネズミの語源は根住み(根の堅洲国=地下の国に住んでいる者)。
死後の世界ヨミと同じと考えられるようになるのが、根の堅洲国であるから、死後の世界と現世を往来するということだろうか。
古事記では、ヒーローの一人、大己貴命が野火で焼き殺されそうになるところを、洞穴の所在を教えて助けてくれるのがネズミである。
小さいものに手伝ってもらって、ヒーローが窮地を脱する話が面白いと感じるのは、古代人も現代人も同じだろう。
そのためネズミは神様の使いだという説もある。すばしっこく動き回ることから、働き者であり、豊穣をもたらすと信仰されてきた。
しかしそんなお気楽なキャラとしての設定ばかりではない。
欧米の文化では、今でも映画で、不衛生の象徴としてネズミは描かれる。暗い洞窟や、不気味な暗闇に松明をかざすと、丸々と太った黒い毛並みが、見え隠れする。ジャジャーン、というように。
そんなにおぞましいように感じないビジュアルを、どうして怖く見せるのか。なぜ、ネズミが怖いのか。
幸いにも、日本でペストが流行した歴史がないため、バイキンを運んでくる、不衛生な生き物という意識が低いのだ。
またイースター島の文明を滅ぼしたのは、ネズミだと言われている。
絶海の孤島であったイースター島は、14世紀まで、豊かな作物が実る社会を持ち、石で人間の形を彫ったモアイ像が流行する。先祖を意味しているモアイ像はどんどん大きなものを製造することが人気となり、人々はこぞって、巨大なものを作ることに専念する。
しかし水面下で進行していたのは、文明の崩壊である。
漂流物でたどり着いたネズミによって、木の実が食い散らかされていたが、当時の人々はそれを危機と思っていなかった。
それが何十年と経つうちに、破壊されていく。木が育たないということは、防砂林が無くなるため、穀物が海風に晒されて育たない。海に魚を求めようとしても、船を作る木材もない。
人口は急速に減って行き、限られた農地を巡って殺し合いを繰り返す。日本で江戸時代の頃には、ついにはカニバリズムまで行われていたと判明している。
小さなネズミが島の文明を滅ぼしたのだ。
日本でも、鼠の妖怪として頼豪という僧侶が登場する。 白川法皇の求めに応じて、子供が生まれるように三井寺の高僧頼豪が祈祷し、大願成就して皇子が生まれる。
褒美として、三井寺に戒壇院の設立を許可してほしいと願うが、ライバルの比叡山に邪魔されて、法皇は許可しない。
怒った頼豪は100日断食して、鼠の怨霊となり、比叡山の経典を食いちぎる。皇子も幼くして死んでしまう。
平家物語に残っている説話なので、事実というより、伝承というべきだろうが、ここでも疫病と鼠は関わりを持つように描かれていない。
ねずみ返しという工法に、我が国の文明は守られていたのだろう。
エジプトではネズミを退治する生き物として、猫が神格化される。東京の国立博物館に展示される、猫の神像はキャットウーマンを連想させるような、クールビューティーなキャラだが、当時の人たちは生活に関わるのだから、必死でお供えをしていたはず。
そんなにおぞましいように感じないビジュアルを、どうして怖く見せるのか。なぜ、ネズミが怖いのか。
幸いにも、日本でペストが流行した歴史がないため、バイキンを運んでくる、不衛生な生き物という意識が低いのだ。
またイースター島の文明を滅ぼしたのは、ネズミだと言われている。
絶海の孤島であったイースター島は、14世紀まで、豊かな作物が実る社会を持ち、石で人間の形を彫ったモアイ像が流行する。先祖を意味しているモアイ像はどんどん大きなものを製造することが人気となり、人々はこぞって、巨大なものを作ることに専念する。
しかし水面下で進行していたのは、文明の崩壊である。
漂流物でたどり着いたネズミによって、木の実が食い散らかされていたが、当時の人々はそれを危機と思っていなかった。
それが何十年と経つうちに、破壊されていく。木が育たないということは、防砂林が無くなるため、穀物が海風に晒されて育たない。海に魚を求めようとしても、船を作る木材もない。
人口は急速に減って行き、限られた農地を巡って殺し合いを繰り返す。日本で江戸時代の頃には、ついにはカニバリズムまで行われていたと判明している。
小さなネズミが島の文明を滅ぼしたのだ。
日本でも、鼠の妖怪として頼豪という僧侶が登場する。 白川法皇の求めに応じて、子供が生まれるように三井寺の高僧頼豪が祈祷し、大願成就して皇子が生まれる。
褒美として、三井寺に戒壇院の設立を許可してほしいと願うが、ライバルの比叡山に邪魔されて、法皇は許可しない。
怒った頼豪は100日断食して、鼠の怨霊となり、比叡山の経典を食いちぎる。皇子も幼くして死んでしまう。
平家物語に残っている説話なので、事実というより、伝承というべきだろうが、ここでも疫病と鼠は関わりを持つように描かれていない。
ねずみ返しという工法に、我が国の文明は守られていたのだろう。
エジプトではネズミを退治する生き物として、猫が神格化される。東京の国立博物館に展示される、猫の神像はキャットウーマンを連想させるような、クールビューティーなキャラだが、当時の人たちは生活に関わるのだから、必死でお供えをしていたはず。
十二支の由来
干支の順は説話上、釈尊の葬儀に到着した順番という設定である。釈尊入滅をみんな聞いていたのに、うっかり寝ていて聞いていなかった猫だけが、葬儀に行けず、一番最初に行ったネズミに嫉妬して、今でも追いかけているという由来譚。
逆恨みも甚だしい。
だが、面白いのは、問題の葬儀である。釈尊の入滅という、宗教上の悲劇は、磔刑で三日目に復活した人と異なり、そんなに深刻な悲劇性をもって語られない。(むしろ、棺桶に入れられた釈尊がむっくり起き出して、世の無常をプレゼンするという説話まで存在する)
この死んだことを嘆く様を描いたのが、涅槃図だが、いわば博物学的な演出を競うことになる。
つまり弟子たちや王族ばかりか、他の如来や菩薩、天部など、信仰上のキャラクターをたくさん描くことになる。彼らが釈尊の寝姿を上部に描くが、下には阿修羅の後に、動物たちが並ぶ。
ここでどれだけ動物が描けるのかが、絵師の博識を表すものとなった。
そしてよくみると、東福寺の涅槃図には猫が描かれているのだ。(じゃあ、葬儀に間に合って、ネズミを恨む必要などないのに)
猫にも、仏になる性質を持っているという、優しい表現と楽しめるとしよう。
もっと残念なことは、釈尊の入滅を指して、特定の宗教を支持することは、信教の自由を阻害することになるという、憲法の曲解である。
どういうことか。
児童の読み物の中には、十二支の由来を描く際に、釈尊の入滅とせず、白ひげの神様のお誕生日会ということになる。
(生きとしいけるものを、いたわり合いましょうと説いた釈尊を、動物までも慕って、葬儀に駆けつけたのではない。万物をお造りになった神様を皆で祝福しましょうというのだ。どっちが特定宗教をうんたら、なんだろうか)
これでは、涅槃図を見る機会に恵まれても、全然理解できない。
釈尊=仏教という宗教色を廃して、表現しようと工夫したつもりなのだろうが、それは本当に豊かなことなのだろうか。
ましてや、それをもって、昔から語られているお話を子供に親しんでもらっているのだとしたら、それは偽善ではないか。
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