丑年ということで、牛について考えてみようと、青空文庫で南方熊楠の十二支考を探してみた。
びっくりした。
十二支考と言っておきながら、寅で始まり、子で終わり、11巻で終わっているのだ。牛はどこにいったのだ。
寅という、躍進の年の前年、しっかり蓄え、備える年というようなことを聞いたことがある。それなりの話は十二パターンあるのだろうが、着実に進むという心がけでいたい。
それより、むしろ青空文庫に注目してみた。
実は時々思い出して、検索している。
著作権フリーになるのが没後50年になるのだから、50年前に亡くなった作家を注意していないと、不用意に古本を蓄えてしまうことになってしまうからだ。
逆に集英社が吉川英治の三国志を、岩波書店が江戸川乱歩を刊行しているのに、度肝を抜かれたが、青空文庫を確認して納得した。没後50年経っていたのだ。(それ以来、年末になると没後50年経つであろう作者名を密かに検索している。もちろん入力ボランティアのおかげである。)
1961年に鬼籍に入ったのは、
柳 宗悦、矢田 挿雲、津田 左右吉、村松 梢風などである。
気になったのは、津田左右吉。柳田國男ほど人気のないせいか、全集が充実しているのに、データ化は遅れるのだろうか。
現代においてなお、彼の研究を起点に語られることも多いのだから、やはり著作に触れられることに深い意義があるはずだ。
それどころか、動画でトンデモ歴史学(皇居の下にヤマタノオロチが封じ込められているとか)を目の当たりにすると、半世紀前の先賢に恥じ入るばかりである。
柳宗悦も楽しみだが、矢田挿雲の江戸文化に関する随筆も読めるとなると、落ち着かない。もう中公文庫を探し回らなくていいのだ。
幸い、正月早々、山本周五郎の風流太平記 が公開されている。新潮文庫を買いに行かなくていいのだ。
そう考えると、色々と目移りしてしまう。
昨秋だったか、自炊した短編集に岡本綺堂の半七捕物帳があり、一作目『お文の魂』があったので読んでみた。
トリックそのものはさほど、刮目すべきことはない。ところが、イギリスのシャーロック・ホームズがヴィクトリア王朝時代の習俗を盛り込んでいたことを模倣して、江戸の習俗を記録しようとするコンセプトが、明確になっている。
現代よく見る髷物ファンタジーと違い、岡本綺堂の筆致は話し方や日常の描写に奥行きがあり、世界に引き摺り込まれた。初出が大正6年というから、明治を経てもなお、江戸風情が残っていたのだろうか。
岡本綺堂を一気読みすることもできるのだ。青空文庫の罪の深さ。
ろくに寝正月すら、できないではないか。
今年は読みふけるに、事欠かないのかもしれない。
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