2018年8月30日木曜日

史劇を借りて

東映の『新撰組』を見た。

かなり早い段階で、鞍馬天狗が出てきたのには、びっくりした。ほとんど天狗のおじちゃんは活躍しないくせに。

月形半平太も登場してくる。大真面目に演じているが、虚実入り乱れて、ドラマとしてどこでどう盛り上がりたいのか、さっぱり伝わってこない。

そして、致命的なのは、びっくりするぐらい内容が薄い。片岡千恵蔵をみせるための映画。これでも映画なのだ。

香港映画でブルース・リーが登場したときの存在感は圧倒的であったという。

今の感覚で見たら、彼の動き以外に大した衝撃はないが、当時は違った。

主人公が親孝行で公明正大な性格ではなく、ただのふてくされたような、生意気な若造なのだ。生意気な若造が強いという設定に、香港の青少年たちはおどろき、劇場を後にするときには、みんな親指で鼻を弾いていたという。

それまでの香港映画は、様式美を守った、活劇の延長でしかなかったのだ。

この現象は日本でも同じで、長く様式美を遵守した作品が続く。大正時代の映画などは、舞台をそのまま撮影していた。

映画という独自メディアのアイデンティティなど、誰も理解できていなかった。

ブルースのリアリティも、アメリカンニューシネマと呼ばれる表現手法も渡来してきていない。

そんな牧歌的な時代劇である。

ただし、若い恋人二人を助けたい。感謝されたい。感心されたい。

寺田屋事件もなければ、清河八郎も登場しない。

史実を軽んじた、茶番である。

こういう俳優を見せるための映画が、長らく"活動屋"の文化だったのだ。(まあ、ストーリーの代わりに、タレントの大げさな表情と会話を撮影したものが作られることも少なくないようだ)

しかし、正月になると思う。

バブル期に制作された、長編時代劇のことである。

十二時間にも渡って、白虎隊や西南戦争、忠臣蔵を描くのである。

ところがこうしたものを、よく見てみると、結構大味で、制作の納期を急かされていたのだろう。脚本も衣装も粗雑さが目立つ。

展開の速さも、セットの寂しさも、俳優の声音と効果音で濁す。

太閤記を見たときは、明治以降、あれだけの文芸作品が書かれているにも関わらず、講談を映像化しただけだったのだ。
歴史好きな人がしばしば、二つに別れることがある。

一つは細部に過剰にこだわる。一つは少年期に見たもの以外に評価しない。

前者は聞いたことも無いような西洋史や、中国史を思い込みたっぷりに話してくれるが、原典を辿ったのではなく、権力闘争史観などに基づいた、本人の思い込みであったりすることが多い。

後者は保守的で、多様性を認めないから、新説をいち早く知りたがるが、いち早く批判したがる。

新撰組から脱線した。

しかし、こうもいえる。

しばしば思い込み(有名俳優を善人として描きたい、昔ながらのプロットをみたい)で作られることにおいては、実は伝統からブレていないのかもしれない。

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