2018年9月23日日曜日

御朱印ばやり

田中公明さんのエッセイに記載されたと思う。

チベット人は愛国心はないが、愛法心は深いという。

一口に、チベット人といっても、チベットの西と東とでは、民族的に随分違いがあるから、一つの国という概念も希薄なんだとか。

では彼らの愛法心とは何か。

法とはダルマ、仏教である。熱心に彼らは観音菩薩のマントラを唱えるし、仏像を供養する。

特にこだわるのは伝授である。

「いつカーラ・チャクラの伝授を受けたのか、受けてないの? ああ、俺はもう何年も前に受けたよ(ドヤ顔)」というように。

ところが日常たるや、喧嘩もするし、口汚く言い争うことはすくなくないという。

およそ仏教徒らしからぬ性格のまま、決して改めようとせず、そのくせ、伝授をうけたことを競い合うように自慢するという。

伝統的な大乗仏教の考え方では、呪術を行って、人々の願いを叶える力が仏教に、そもそもある。それが現世利益(げんぜりやく)である。だが、それが目的になってはならない。

あくまでそれは手段であり、目的はそうした験力をもって、人々を教化することであると。

こうした主張はチベットでは、実現していないのではないかと疑わしく思えてしまう。

しかるに、仏教の正統を自認してやまない日本である。

150年前に開国して以来、アジア文化の代表を自負しており、チベットに対しても、長く無理解であった。

彼らと違う。様々な祖師が登場して、大乗仏教の本質を理解している。

そう言いたい。

本当に、そう言いたい。

ところがどうだろうか。昨今はやりの御朱印ばやりである。
本堂に参らず、本尊に手を合わせず、参拝記念のスタンプを集めるのだとしたら、笑止である。信仰の入り口ではあるが、信仰の玄関先でしかない。

ひどいものになると、無宗教や不信心であることを恥じず、寺社の権威や余得にだけはしっかり預かろうとするいかがわしい者までいる。
もっとひどくなると、ただのトラベリズムのくせに、そこにいった経歴を周囲に自慢する。般若心経を暗唱したと豪語する者までいる。

供養や回向という、大乗仏教の根拠となる部分が欠落しているのだ。

諸仏にぬかずき、詫び、人々の救済を願い、それによって自分が報われるようにすがる。この恥じらいとも、謝罪とも似た行為でやっと安心が得られる。

そういうもので十分ではないか。

いや、それを求める側だけではない。

中には、本当に版で押した紙に、日付だけをスタンプで押すところもある。

どうも、胡散臭い。

参拝の記念を求めるものも、与えるものも、最初から何も信じていない。いや、信じているとするなら、マルクスの経済学なのではないだろうか。

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