2015年12月30日水曜日

寒空の暦

お坊さんを顧客に印刷物を制作する仕事をしていた時のこと。

暦の編集、校正も担当しているということで、地方から来社されたお坊さんに注意された。

「暦には六曜が掲載されている。これは迷信であり、非科学的なことだから、掲載するな」

はあ。また、好き買ってなことを。

迷信とは正に、迷いをまことと信じることであり、それを助長するのは厳に慎まないといけない。

しかし、非科学的とはいただけない。

まるで、オウム事件後に盛んに言われた、お釈迦さん=ナチュラル・ハイ説(悟った瞬間は断食明けだったため、高揚感があったというだけの、俗説なんちゃって科学)ではないか。

どの面さげて、回向だとか、功徳を説いて、檀家から布施を巻き上げてらっしゃるのだろうと不思議に思ったが、問わなかった。

責任者に相談するとか、しのごの言って、ごまかした。

六曜はとかく目の敵にされる。

彼の言い分も間違いではない。明治新政府は迷信を取り締まるため、暦に様々な記載をすることを禁じた。

しかしまだ農耕が主要産業であった時代、田植えが分からないような暦など、充電切れしたスマホなみに役に立たなかった。

そうした中で、最低限の情報として六曜だけは掲載が許され、(むしろ行政が黙認した)現代に至っているという。

室町以後に始まり、江戸時代に大枠ができ、実は明治以降に作られたという説もある。

だから、良くも悪くも、六曜を執拗に気にする人を見受けると、いただけない。もっとたくさんのイベントやタブーが神社の暦にはたくさん記載されているのに、なんてものぐさなんだろうと思ってしまう。

いくらいい日を選んでも、離婚するときは離婚してしまうのに。

カレンダーを作る会社で面接を受けたことがある。

ご多分に漏れず、不況であるが、特にインターネットの普及でカレンダー自体が売れていないという。

初詣客相手の露天で、カレンダーを売っているところを見たことがある。

干支や風景写真のものに混じって、「今から、お風呂ですか?」と見まごうばかりの、マッパのお姉さんを撮影したものも広げられていた。

年末になると、カレンダーを受け渡しするが、ふと思い出す。あのカレンダー印刷会社も、露天商も懐は寒いのだろう。マッパの姉さんも、寒がっているのではないか。

六曜を気にするより、彼らの仕事のあり方を工面してやることの方が、大事なのではないだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。


古代では、自国の言語で暦を作成できてる
=文明国だったからマヤ文明も相当進んでいた。

2015年12月29日火曜日

達人の話

神経学の話。

視覚で認識した情報を元に、攻撃あるいは防御の動作に移るべく、筋肉を伸縮させる。

この知覚、動作の流れに、個人差はあまりない。特に緊張状態にあると、人間はだいたい同じで、その違いは秒数ではカウントできない。

つまり殴ってくることを感知し、それを避けたり、払おうとすること自体、人間にできることは同じスピードでしか対応できない。

つまり強さとは、その限られた速度で、どう処理しているか、なのだ。

最短距離で加速し、重量あるパンチをくりだせるか。あるいは避けられるか。

ジークンドーでは、その答えを明確にしている。予備動作を最小限に抑え、拳に体重を乗せるような打ち方をする。

筋肉そのものが強さなのではなく、つきの動作一つを正確に出せるように、筋肉を組み立てる。

ブラジリアン柔術はもっとロジカルである。人体の可動方向を整理し、相手の動きを封じながら、いかに優位な体勢を構築・維持するのか。

気合いとか、根性とか、気迫は余り役にたたない。必要なのは、酸素の吸引力と集中力である。

そうした戦術が、正攻法の臨界点を迎えると、次は別の方向に向かっていく。

例えば剣であれば、上段に構えた方が、刀の重さの分、早く振り下ろせると信じられている。下段に構えると、振り上げる筋力が必要なため、遅くなると。

しかし柳生新陰流では、これを逆手にとった。

逆風という技である。

わざと下段に構えて、上段を誘う。上段から打ってくる相手の太刀筋を避けながら、その小手を狙う。

すると相手の拳は早く振り下ろされてくるから、おのずと早くなくても切り上げることができるというのだ。

(考えてみれば、重みがあるだけで、早いというのも、おかしい。実際には遠心力を使うので、上段も、下段も、人間が使う以上、筋力の違いでしかない。)

はっきりいって、ずるい。

スポーツマンシップなど、微塵もない。(なぜなら、スポーツではないから)。

正攻法ではない方法を考えたのだろう。ずっと秘伝として伝えられた。(そのせいで、巌流の燕返しという技法と、かぶっていることは二十世紀後半になるまで分からなかった)

こういうことを見聞するのが面白い。

だから、筋肉や精神論しかないような、メソッドの整備されていないものが、さも古来のものであるかのようにいわれると、なんとなく興ざめしてしまう。

ましてや時代劇で、お面お小手と、殴り合うような殺陣をしていると、がっかりする。

映画のスタントでは、派手なポーズをしたあとは、カメラが表情にズームできるように、特に頭部は動かさない。

その点、演武を見ていると、居合以外は結構揺れている。別に新体操ではないのだから、止まる必要はないのだし、美的なものは結果論だからだ。

『燃えよドラゴン』なども、ズームするが、結構、ブルース自身は揺れている。全身の筋肉を使って、打撃した以上、波紋が起こるように揺れていたのは当然だろう。

強さは見えるし、強くみせることは、特殊効果でも簡単に作れる。

しかし強さに至るための、ロジックは簡単には作れない。

そこが最大の魅力である。

現代の道着は明治の嘉納治五郎考案のもの
居合などでは余り用いないのは、説明に適さないため。

2015年12月28日月曜日

鉛筆のぬくもり

寅さんが映画のなかで、甥に鉛筆の魅力を語るくだりがあった。

「いいだろう。木の温かみがあって、書き味に味わいがあるだろう?」

甥はボールペンにはないなんとか、かんとかこたえていた。

この手の昔は良かった説はあまり好きではない。

自らが相対的であることに、無自覚だからだ。

鉛筆を懐かしむ世代にとって、万年筆やポールペンよりも、体温が伝わるような気がするのかもしれない。

しかし冷たい言い方をしてしまうと、それは気のせいだ。

もしも、樋口一葉が聞いたら、嘆くことだろう。彼女の原稿は全て筆で書かれている。当時、前衛的な芥川龍之介が、鉛筆で書いたが、当時としては相当なショックだった。

マジ、鉛筆で書いちゃったんすか? 夏目先生にバレたら、やばくないっすか? 当時のリアクションはそんなところだろう。

当時は鉛筆で名文が書けるわけがないと思われていた。

もちろん、樋口一葉が原稿用紙を使っていたということを知れば、滝沢馬琴は嘆いていただろう。鉄眼和尚が経典の筆者に整理する際に用いただけの、400字という単位を用いて、自由な創作を制限するなどと、到底クリエイティブなことではないと。

しかし馬琴の書いたものを読むことができたなら、新井白石は失笑しただろう。。。

というように、時代によってアイテムや姿勢はどんどん変わっていく。変わって当然だろう。

今時、手書きで、丁寧に書かれても、というような状態ではないか。

タブレット端末に、指でサインをして証明とまですることが、現代では行われつつある。

チャールトン・ヘストンの『十戒』では、封蝋に指輪でスタンプして、自分の文書であると押印していた。

その時代から、基本的な考え方は変わらず、アイテムが指輪から、タブレット端末に変わったのだ(ちなみにモーゼの十戒を記した石板を英語ではtablet。カタカナ表記すると、ありがたみが半減。しかし英語圏ではシナイ山から持って降りてこられたのと、同じ名称をリンゴマークのものに使っているのだ)

本質は変わらないが、手段やアイテムが変わる。

やっぱり日本語はパソコンではなく、ワープロでないと、と主張する人がいるとしたら、今や滑稽である。

鉛筆にぬくもりを感じるのは、自由だが、シャープの恨みを無駄に買うようなシャープペン批判や、ボールペン軽視などは、全然自由ではない。

ジープに乗ったアメリカ人にせがめば、チョコレートを投げてくれると思い込んでいるのと変わらない手あいの、単なる思い込みだ。

パソコンだからといっても、アイデアは手書きがやっぱり便利。

2015年12月27日日曜日

バック・トゥ・ザ・フューチャー part2を見直してみた

一作目のラストで、ドクが迎えに来てくれる。


「マーティ、君たちの子供を助けないと。今すぐ一緒に未来にいくんだ」

わお。やっと85年に戻ってきたのに、さらに30年も先にいかないといけないのか。

彼女とトヨタの四駆(今では信じられないが、80年代の日本製品はビデオカメラも自動車も、世界で売れまくっていたのだ!)でドライブに行こうとしていたのに?

2015年。エメット・ブラウン博士が厳かに告げる未来は、途方もなく先に思われたのに、間もなく終わろうとしているではないか。

本国でもずいぶん盛り上がったらしい。

改めて、バック・トゥ・ザ・フューチャー part2を見直してみた。

映画の中で出てくるホバーボートは、開発が進み、テレビCMでも使われていた。商品化には間に合わなかったが、リアルにありえることは証明された。

立体ホログラムCMは実現せず、いまだに変なメガネをかけないと、立体の動画は見ることはできない。ナイキの自動リサイズシューズは年内の開発実現を公表されたのに、実現はできていない。道路を必要としないハイウェイは全く実現のめどすら立っていない。(60年代の映画『1980』では、通勤に飛行機が使われるシーンがあったはず。空にはライト兄弟以来、ずっと憧れるのだろう。多分、2045年でもタイヤがついた自動車に乗っているに違いない)

しかしネクタイを二本ぶら下げるという、おかしな服装はしないですんでいるし、グリフが逮捕される瞬間は、ドローンみたいなカメラで撮影されてUSATODAYに掲載されている。

驚いたことに、80'sカフェでかかっているマイケルの曲はビートイットだけで、デンジャラスやスムース・クリミナルは含まれていない。(映画自体89年公開だから仕方ないが)
当たっていることや、外れていることを並べてみるだけでも楽しい。

だが、反面、ショックも大きい。2015にきたドクは、デロリアンに乗らず、年を重ねただけであったこと。

マイケル・J・フォックスのパーキンソン病も、サブプライムローンも、ISも存在しなかっただろう 、もう一つの2015年はやっぱりフィクションだったこと。(もちろん、論理的にタイムマシーンは成立しないとする論文が発表されたことも)

マイク・マイヤーズ演じる『オースィン・パワーズ』で、60年代から冷凍保存されたオースティンが、90年代に目覚める。軍の施設のなかで目覚めた彼は、協力してくれたロシアの軍人を見てこういう。

「我々が勝ったんですね? やったぜ、くそったれの帝国主義者どもめ」

いや違う。冷戦で勝ったのは、西側なんだ。そう訂正されて、叫ぶ。

「我々が勝ったんですね? やったぜ、くそったれの共産主義者どもめ」

未来は今の延長でしかないのだ。感傷的な気分とは関係ない。何か特別なことがあって、突然よりよくなるなんてことは、ありえないのだ。

マーティたちの来なかった2015年。それも悪くなかった。ノストラダムスやマヤ暦の破滅が外れただけでもいい。

途方もなく輝く未来を夢想して、何もしないでいるより、ドクが言っていた可能性(「未来は自分で変えられる」)に賭けて、一つずつ努力することが、一番大事なのではないか。

柄にもなく、そんなことを思う。


引き出しをタイムマシンにして出てくる猫型ロボットの販売も遅れるかもしれない。

2015年12月13日日曜日

お得情報の氾濫

電化製品の量販店に変わった広告があった。
 
50人に一人、レシートにアタリが出たら、無料というものであった。

「50人に一人、タダ」

衝撃的な話題として知られた。

しかし、あとでわかった。

店側が還元してくれる、50人に一人分の利益とは何か?

50分の一。つまり百分の二である=2%。

わお。2%割引である。たったの2%。

それが種明かしである。

「2%割引、開催中」

だったら、ナメてんのか、だが、

「50人に一人無料」

のほうがインパクトはある。

ましてや、今ほどパチンコ屋のテレビCMに、自主規制がなかった時代である(驚いたことに、経済不況でも、遊興費は成人に必須だから不況知らず、などというヨタを、パチンコ産業では主張していた)。

ギャンブル性はあるが、楽しい店舗だとイメージを作っていた。(店員の商品知識や検索能力はぼんやりで、値引き交渉に長けているだけだったが)。

要は見せ方なのだ。

ところが、この見せ方技術が発達することは、ユーザーに必ずしも、メリットがあるとはいえない。スマートフォンや、ケーブルテレビの契約内容を変更しようと思えば、ひと仕事である。

本当にお得なのか、欲しいサービスなのか。検索しようとしても、落ち目のタレントを使ったプロモーション記事や、結構ぼんやりしたブログばっかりだったりする。

正確な情報には、程遠い結果になってしまう。

情報はたくさんあるが、結局、扇動されるばかりである。

大して変わらないスペックでも、大げさに宣伝。OSも不安定な状態でリリースしているのに、お調子者がレビュー記事を書いてアクセスを漁ろうとする。

本当に、それは必要な情報なのだろうか。

至誠天に通ず。孟子にそう書かれている。誠意こそ、人智を超えて、恒久的な信頼を獲得するにいたるというののだ。

近代以前の大陸文化だとか、大陸の文献をありがたがる島国根性だとか、無神経なことを言ってはいけない。

Honesty is the best policy(正直は最上の策)といったのは、シェークスピアでも、ディケンズでもない。アメリカ建国の父の一人、ベンジャミン・フランクリンである。

本当はみんな不便を感じているのかもしれない。

検索窓にキーワードを入力さえすれば、本当に欲しい情報に、たどり着けるはずだったのに、コアな話題になればなるほど、情報がぼんやりしてしまうのだ。

検索が最短なようで、実は回り道にも直結している。

大量の情報を受け取れることができるようになったが、本質的な結論にたどり着ける可能性を高めただけで、決して近道ができたわけではない。

いつもそんな気がする。

2015年12月5日土曜日

百の姓

香港映画のオープニングで、面白い表記を見た。

ロゴはPOP MOVIES。しかし漢字表記がいい。

百姓電影。

牛を引いてきたおじいちゃんが、編笠かぶりながらカメラを回す映画?

日本語で「百姓」といえば、農業従事者を指すことが一般的。しかし農業になぜ、「百姓」という名称がついたのか、明確に説明できる人はいない。

田を耕す、わらじをなう。畑で稲作以外の生産を行う。百通りほどの複数のスペックを持っているという説明は実は間違い。

逆に農人という言葉がある。大阪にも農人 橋という場所がある。

百姓=農業従事者であるなら、農人とは何を指すのだろうか。

網野善彦の説明で納得がいった。

農人=農業従事者。百姓=いろいろな職業や身分。

姓とは、家族や血縁の特定するためのものであったが、同時に職業という意味もあった。(公家や武家以外では、家業を指す屋号もその一種)

それがたくさんある状態=百姓=many peopleなのだ。
だから百姓電影という文字を見ても、稲作ののどかな風景を得意とする監督がいると思ってはいけない。POP な映画という意味である。

太閤検地か、それ以降であったと思う。人口を調査した際に、武家や 公家以外というカテゴリとして、様々な職業を百姓としてカウントしてしまった。これを明治以降、一律に農業従事者と翻訳してしまった。

そのため、百姓=農業従事者という簡単な誤解が一般的になったのだ。


明治以降、歴史解釈というのはいい加減なことが多い典型だろう。

特にロシア革命前後の権力闘争史観などは、諸大名や幕府の実態をろくに調べもせずに、帝政ロシアの諸侯と概念を当てはめて考えられた。(もっとも網野善彦も、小泉の進めた雇用の規制緩和のムーブメントに影響されたことは反証されるべきだろう)


百姓電影。田んぼでキセルを吸いながら一休みしている、おじいちゃんが映画を取っていると思ったら、大間違いなのだ。

棚田を作る日本人ってスゴいとかいうけど、日本オリジナルではない。これはベトナムの写真

2015年11月28日土曜日

月の話

 帰途、満月を見ながら、ふと思いついたこと。

 古代の中国では月のクレーターを兎に見立てたのは、やはり月が白く光るからだったのではないか。

 染色体異常ではなく、結構な頻度で白い毛並を持つことが多いのは兎だった。

 だから、太陽の黒点はカラスに、月の白い光とクレーターは兎に、例えられるようになる。

 もちろん、鑑賞ばかりではない。天体の運行は農耕に直結する。詩歌に通じた者は、天体の予測ができ、田植えと稲刈りをプロデュースできる存在として、権限を持つようなる。日知り(聖)である。

 だから陰陽道の極意書も金烏玉兎集というタイトルである。金烏=太陽。玉兎=月なのだ。(正確には三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集)

 コンビニのレジ横にある、月餅はまさに、中秋の名月と豊穣を表現した縁起ものである。農耕の象徴だろう。騎馬民族モンゴル帝国が中国を支配したとき、漢民族がクーデターを企て、その決起を呼びかけたのは月餅に隠した御神籤だった。

 騎馬民族にない風習だから、クーデターは成功し、明朝ができる。ツイッターがなかった時代の、アナログな呼びかけである。

 政治史でいうなら、日本の神様は結構がっかりな展開もある。

 日本の神話の中でも、神代の早い段階で、月読命が登場する。しかし天照大神と姉妹に設定されながら、弟スサノオのキャラが濃すぎて、名前以外、出てこない。性別すら記載がない。

 どうも神話がそれまでの口承文芸ではなく、テキストに起こされた段階で、日本人が考案してた月読み(天体運行予測)は、中国から流入してきた精度の高い暦法に圧倒されて、廃れていたと考えられる。

 しかも天照大神が昼の世界、月読命が夜の世界を、司るという設定であったのに、あっさり退場。そのかわり、国譲りした大国主命が夜の支配権を譲渡される。

 そのせいか、月は室町時代のかぐや姫まで、そんなにフォーカスされることはない。

 世界的に見ても、月は時間を象徴するだけではなく、海の干満を左右する不可視の力をもっていると信じられていた。(万有引力が法則として認識される前である。)

 ビュルガーの『ほらふき男爵の冒険』では、月は海水を引き寄せていると描写される。もっとも沖に出ると、船は月に吸い寄せられ、男爵は月に飛び移ることに成功する。荒唐無稽だが、イメージの力である。

 しかしバカにしてはいけない。

 NASAでは、ある矛盾にぶつかっていた。探査衛星の軌道修正に、液体燃料を使用するのであれば、膨大なエネルギーが必要であり、それを実現するために、一層打ち上げに燃料が必要というのだ。

 そこで考えられたのが、衛星や惑星にわざと接近し、その引力を利用して、軌道修正しようというのだ。男爵とアイデアは同じなのだ。

 もちろん、伝承では飛躍がある。

 狼男に変身させるのは満月であり、黒魔術も満月の夜に行うと成就しやすいと信じられた。

 ニューヨーク市警では満月だと犯罪率は上がるというデータが、まことしやかに唱えられていた。(もちろん、衛星の照射のされ方と、人体への影響への因果関係は不明。というか、科学ではない)

 初期タントラの密教では、自らの心を満月にたとえる瞑想がある。満月のように、自らの心も丸く、白く、輝いているということを、体感しようとするものだ。月のエネルギーはこのぐらいがちょうどいいのかもしれない。

「月がきれいだな」

 とは昭和初期までは、社会的に公認された比喩表現だったらしい。 意味はI love you.

 婚姻を匂わせる表現でもあったらしい。

 月が高い位置に出ている=夕方から夜の時間に密会している=肉体関係の隠喩。


 現代ではちょっと分かりにくい。月にかわる灯が多すぎるのではないか。
実際に月光に浮かぶウサギを撮影したら目が光ってるはず

2015年10月19日月曜日

分家騒動

子猫の動画を見た後に、考えた。

ご飯の途中で眠くて、寝てしまう子猫。ボールを投げたふりをするだけで、飛ぶように走っていく子犬。

どれを見ても可愛い。

なぜか?

本質的に愛玩される性質を持っているからだ。まさに愛す可きとは、可愛さのことである。愛さずにはおれない。

逆のことを考えた。ちょうど、コメディとしてやくざ屋さんが映画を作るというコメディ映画をテレビでやっていた。

いくら説明しても、英語混じりだと分からないチンピラ。凄むこと以外、芝居ができない若頭。

どうあってもおバカである。

なぜか?

そうだ、滑稽なのではないか。

親分、子分、兄弟分などといっているが、安物の任侠映画ばりに、その本質はコントじみた関係ではないのか。

その本質は露呈している。彼らほど、タテ社会と称する従属性を重視する組織はない。

なんのことはない。

自らの生産能力が低く、そのために組織や社会に寄生せねばならず、いつでもそれは配下に横領されるリスクが高いからだ。だから、一本調子に従属関係を明確にしておかないと、組織自体の脆弱さが露呈してしまうのだ。

つまり組織といっておきながら、結局は利害でつながっているだけで、自己犠牲や、社会貢献、博愛などとは程遠い、ゲスい寄せ集めでしかない。

だから、大手の組織から独立騒ぎが、取り沙汰されている。
独立心旺盛であっても、妥協点がいくらでもあるのが、我々一般社会であり、そうした妥協点よりも最終的には、メンツと収入を重視してしまうのが、彼ら反社会的勢力ではないか。

黒澤明の『用心棒』はめちゃくちゃ面白い。(西部劇で二回、禁酒法時代を舞台に一回、リメイクされているくらい)
三船敏郎演じる、桑畑三十郎が宿場町で対立するやくざ組織を手玉に取り、互いに殺しあわせて、街を平和にするというストーリー。

今見ても、飽きないアップテンポの展開で楽しめる。

何よりもいいのは、やくざ組織で苦難を強いられている人たちへの愛情と組織暴力への軽蔑である。

三十郎は時に強気に、時におだてあげて、巧みに彼らを破滅においやっていく。

八十年代の抗争事件を知っているから、流弾に倒れた一般人の悔しさは察するに余りある。

三十郎がやったように、彼らは彼ららしい、メンツや収入のために、勝手に殺しあえばいいと思う。協調性のない、反社会的な人同士がいがみあって、彼らだけが総数を減らしてくれれば、実は世のためなのではないか。

「これで少しは、この街もすっきりするだろう」

ラストで三十郎はいう。その通りだと思う。

彼らが必要悪だとか、その威力を黙認するのは仕方がないという意見は全く賛同できない。

高齢者から振り込ませたり、ワーキング プアに法外な融資をしていくことが、到底「仁義」とは思えないし、それを看板にするほど無学な人々が必要な社会とやらが、決して文明的ではないからだ。

彼らの抗争を、大げさに取り上げる社会。

それもコントじみているダサさだ。彼らの風体や、容貌、言動が、その本質を表しているではないか。
マフィアのイメージ画像がなかなかなかったので。。。

2015年9月27日日曜日

チャンスな瞬間

『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』という映画。

マット・デイモン演じるウィルが、幼馴染で親友のベン・アフレックに言われる。二人とも、高い教育を受けることができず、肉体労働しか仕事がなく、低所得の生活に甘んじていた。

「本当にお前に、能力があって、それを生かすチャンスがあったのに、俺たちとつるむのが楽しいからって、ズルズルと怠けて年をくったとしたら、俺はお前を許さない。絶対に」

そして続けていう。

「ある日、お前の家に、いつものように迎えにいく。ベルを鳴らしても、いつまで経っても出てこない。窓から、お前の家を覗くと、引越しした後だと気づく。お前はチャンスを生かして旅立っていったのだと、やっと分かる。その日が来るのを、俺は楽しみにしている」

もうめちゃくちゃいい。ロビン・ウィリアムズとのやりとり以上に印象的なのは、ラストシーンである。

早朝、ボロい車で迎えにくるベン・アフレックが、面倒くさそうにベルを鳴らし、いつまでも出てこないマット・デイモンにしびれを切らして、家を覗く。。。

そばにいてほしいとか、いつまでも一緒だとか、そんなことは子供や、十代の女の子を喜ばせるためのものだ。

成人男性が成人男性に対していう言葉ではない。スプリングスティーンのボビー・ジーンの世界である。

福田和也の本の中で、紹介していた。

友人のシェフが開業した。繁盛し、予想外に多忙を極めた。寝る間を惜しんで働きながら、疲労を母親にぼやいた。

すると母堂は穏やかな口調で言った。

「シェフになりたくても、なれなかった人たちがいる。開業したくてもままならない人がいる。開業しても、客を得られない人がいる。そういう人たちがいるのに、あなたは休みたいという。二度と、そんな泣き言を口にしてはいけませんよ」

チャンスをものにしないで、不平ばかり口にしている。がんばっているというのは、何かを耐え忍んだり、息をひそめることだけではないだろう。どうも、努力という忍耐だけが、美化されがちだが、そうなんだろうか。

何も年末ジャンボ宝くじの発売開始日だけが、チャンスなのではない。

怠っていないかどうか。自戒すべきはいつもそこである。
MI-2をみた時はロッククライミングも面白そうと思ったけど。。。


2015年9月17日木曜日

古書の苦しみ

初版本を収集したり、せどりをするのとは少し訳が違う。

本を収集するが、基本的に読むことを目的にしている。

地方に出かけたときに、いいものが見つかったことはあまりなく、やはり都市部に出かけて古書店をめぐるのがいい。

たまに本のリサイクルのフランチャイズで、せどりの仕入れをしている人を見かけるが、なんとなく好きになれない。本が好きで購入するならともかく、転売目的で安く仕入れようということ自体、どこか不純であるような気がするのだ。

そうはいっておきながら、そうした店で、掘り出しものがあると嬉しいし、つい大人買いしてしまう。

源義経が大陸に渡り、チンギスハーンになったという、「義経=チンギスハーン説」を大正時代に最初に唱えたのが、小谷部全一郎。彼の日猶同祖論『日本人のルーツはユダヤ人だ』が缶コーヒーよりも、安く手に入ったときは、本当に嬉しかった。奇書珍本を入手できる。

こうしたリサイクルのフランチャイズの店長をしていたという人に話を聞いたことがある。

版元によって、そんなに個性はないが、横山光輝の三国志や、水滸伝のうち、初版の新書サイズだけは手に入りにくいという。

なぜか。

製本の糊が悪く、カバーをとって、背中以外の三方を削るが、そうした作業をする間にうっかり背中が割れてしまったりするぐらいだと。本としての性能が悪く、保存に不向きであるため、流通しないという。内容がレアというのとは、少し事情が異なるという。

なるほどねぇ。決して版元は大手ではないが、作品自体は有名である。はっきりいって、鉄人28号や忍者赤影を読んだ世代ではないが、三国志や水滸伝は知っている。

しかし、フランチャイズである。人気のある本をできるだけ仕入れ、利益を乗せて、早く棚を開けたいというのが、常識だそうだ。

当然、人気のないもの、変わった本は低価格になる。

そこが古書店と、決定的に違うところである。

とある古書店に入ったときのこと。

中村元監修の仏教語辞典を、店主がめくっているので、いくらかと尋ねたことがある。店主は顔をあげると、めくる手を止めた。

「面白いから、今読んでるところです」

商売人としては失格だが、本読みとしては見上げたものである。

二ヶ月後、店頭に並ぶ。金一万円の値札。読み飽きたものを、その値段で売るとは。商売人としても見上げたものである。

2015年9月10日木曜日

砂場で習ったクールなフレーズ

幼稚園の年少組の記憶で一つだけある。

なんの弾みか、砂場で二チームに別れて、どちらが高い山を作れるかを競い始めたときのこと。

自軍の山が明らかに劣勢になった。

いくら土を頂上に盛っても、流れ落ちるばかりで、高さが伸びなかった。対する隣はどう工夫したのか、明らかにこちらより高い頂きを築き、さらに伸びようとしている。

足場の砂ではなく、他から砂をかき集めるが、一向に伸び悩む。そうこうしているうちに、相手はますます高くそびえていくのだ。

万事休す。仲間はがむしゃらに砂を運び、何人かは壁面を強化していくが、敗色は次第に濃厚になっていた。

すると、年長組の一人が我々の山の傍に立つ。

このままでは、負けるな。そんなわかりきったことを言った。手伝ってやろうかと。仲間が色めく。そうやって年下の前で偉そうに。いや、待て。何か秘策があるのか。

そんなやりとりの後、彼は無造作の五指を伸ばした手を持ち上げた。そして、無造作に頂上にそれを押し付けたのである。

あっ。みんなが息を呑んで、手を止めた。すると彼は言った。

「さらに高みを望むなら、頂上は踏み台にしろ。早くこの上に砂を乗せるんだ」

おお! 一斉に両手にすくった砂を持ち上げる。一度土台になった頂上には、みるみる新しい砂を受け止めて、さらにさらに高く登っていく。

そしてあっという間に、敵軍の山を追い越し、勝利したのだ。その時、確信した。さらに高みを望むなら、頂上は踏み台にしないといけないのだと。

現存する砲術(鉄砲術)の演武などでは、弾薬を詰めて、発砲したあと、小手をかざして残心の構えを取る。まるで弓道のようなフォーマットである。合戦ではそんなポーズなどなかったが、後付で作られたものである。

旧幕府軍が新政府の新式銃に敗北したというのは、現代日本人がもっとも好む話である。

これは何も日本人に限ったことではない。

帝政ロシアの誇り高き近衛兵たちは、新式のライフルを軽蔑した結果、レーニン率いる赤軍に敗北して、ロマノフ王朝は滅びる。

馬鹿でかい車を美徳としていた、ゼネラル・モーターは軽い日本車に負けた。

ゲーム産業やアニメーションも、日本の職人技が90年代までは世界を席巻したが、今やノスタルジィでしかない。

負けた側に共通しているのは、何か。いつも考える。

新しいから、ではない。

過去に成功があったから、その方法を続けていくしか道を見ない。その結果、世界でも類を見ないガラケー文化を作り、今や自国民にさえ、見向きもされなくなっている。

さらに高みを望むなら。全てを捨てよというのは、無責任な発想だと思う。むしろ、頂上を踏み台にする痛みこそ、驚きと活力にあふれているのではないか。

友人でも、昔語りをするのに会うと少々気恥ずかしい。

お互い、まだまだ踏み台どころか、その頂上にすら辿り着けていないのではないかと思うのだが、どうもうまく言えない。

想像のなかでは、これぐらいの高さの山だったような気がする。

アップルは禁断の実

上方落語の枕(本題の前の余談)として、こんな話を聞いたことがある。

祭で夜店を見て回っている少年に、中年のオヤジが声をかける。

声を潜めていうには、裸で二人が抱き合っている写真があるという。特別に格安で販売するという。人に見られてはいけないところで、密かに見ろという。

その特別価格で購入して、幾重にも油紙で包まれたものを、鼻息を荒く取り出してみると、その通り。

お相撲さんが二人、がっぷりと四つに組んでいたとか。。。

新しいi-phoneが販売されるかもという噂もあって、テストユーザーに選ばれたとメッセージを表示して、個人情報やカード番号を盗もうという輩がいる。

アップルストアに、端末の不調を訴えにいくだけでも、予約しないといけないぐらい、セキュリティや個人情報にうるさいappleが、どうしたことか。突然、テストユーザーを無作為に選ばないといけないほど、新作の端末に自信を失うのだ。そんな馬鹿な。

ダジャレも何もあったものではない。単なる詐欺である。裸で抱き合ってる、など、ふざけたことはいってくれない。

普段はAndroidを使っている人も、いざi-phoneが無料で手に入るとなると、色めきたつのだろうか。

警戒はしないのだろうか。自分も、macbookairが格安で販売されたと思って、詐欺にかかりかけたが、何よりも最初に疑ったのは、そんなに安くなるのはなぜか? である。

1000円で食べ放題なんて、まずいものしか出てこない。1万円でカニが食べ放題など、採算がとれるわけがない。(そもそも100円以下でうまいコーヒーが飲めるなんてこと自体、物理的に不可能なのだ)

我々西側の自由主義経済に生きるのなら、安いことを競争することも自由である。

だが、Apple製品は別だ。

中古の買い取りもそこそこな値段もする反面、中古販売でも結構いい値段がつく。決して安くはならない。法外に上乗せしようものなら、たちまち新品の方が安くなってしまう。そのぎりぎりをいつも堅持しているからこそ、ユーザーはあの食べかけのりんごマークに信頼を寄せているのだ。

しかし、それが突然、うっかりしてしまうのだろう。なぜか、自分だけが得することになる。しかし、そんなうまい話はない。宝くじはあたらないのだ。ちょっと深呼吸して、原価を想像すればカンタンにわかることなのに。

そして何よりも、Appleへの冒涜というより、Appleへの過剰な期待や、羨望がこうした詐欺を存在させることになるのではないだろうか。

Mac OSXは使いやすいが、普段、i-cloudは全く使っていない。gmailアカウントで十分足りるからだ。何より、(少々酷評だが)keynoteをお試しでクラウドでは使え、ローカルではフリーではないという商売の仕方は、まるで旗印ブランドのone noteを思わせるような仕様である。はっきりいって、失敗している。

Apple内部でも色々あるのだろうと想像される。それはブランドとして万能ではないことの証ではないか。それで十分ではないか。

無料でいいものなどない。それに近いものを求めるのであれば、FirefoxOSやUbuntoOSを探せばいいではないか。そこは省略して、という物臭で、詐欺にひっかかるようでは、あまりにも悲しい。

Appleは禁断の果実なのか。否。知識の樹であったがために、神を試すことを知り、あの二人は楽園を追い出されたのだ。試すこと、考えることの象徴なのではないか。逆によくいいすぎか。

Mac bookを使ったことがあればマウスではなくトラックパッドが使いたくなるハズ。。。

2015年9月8日火曜日

もったいない話good bye Giga file便

圧縮をかけるだけではなく、メールでやりとりするときに、快適なのが、オンラインストレージサービスである。

仕事で頻繁に使うのだが、気に入っていたGiga file便の使用を断念することにした。

ほかのオンラインストレージよりも、大きな上限で、動きも軽快であり、URLの短縮もアップロード時に使える。非の打ち所がないぐらい便利である。

しかし使わないことにした。

なぜか。

広告がひどいからである。

女の子とデートするゲームや、女の子が戦うゲーム。あるいは女の子を育てるゲームや、女の子と冒険するゲームといったように、結構、偏った趣味に偏った内容であることが、目に余ったからだ。

これでは、到底、 仕事として活用していたくない。

何回か目をつぶっていたが、ちょっと引くぐらい出てきた。 無論、無料で使っているのだから文句はいえないが、できれば他で代用したくなる。

実際、そんなに頻繁に、大きな容量が必要かというと、そうでもない。十分、他で代用がきいた。

はっきりいって、広告が控えめで、操作しやすいものは他にもたくさんある。スーパーのチラシの裏に走り書きされたものを、渡される気分にならなくてすむようなものも、しっかりしている。

問題なのは、ゲームのキャラクター・デザインが類型的なのではなく、ましてや、広告が単調なことでもない。商品の方向性がそれしかないということなのではないだろうか。

多様性を喪失し、単調さに甘んじて、類型化していくことはどんな文化現象にもあてはまるだろうが、それは決して自由ではない。

とか、考えすぎか。

2015年9月2日水曜日

Netflixで、ベター・コール・ソウル(ソウルに電話しよう!)を見始めた。

ブレイキング・バッドのスピンオフ『ベター・コール・ソウル』。

日本での配信が待ち望まれていたが、9月1日よりNetflixでウェブ配信されてたので、早速見てみた。

ブレイキング・パッドに登場する、チャラい弁護士ソウル・グッドマン。

彼がウォルター・ホワイトたちと出会う前の、2002年という設定(確かにスマホはなく、色んな形のフィーチャーフォンが最新鋭の機器であるかのように使われている)。

本編で、奇妙なスタッフたちを従えており、彼らと難事件をコミカルに解決してくれる連続ものかと思いきや、ちょっと違った。

まだタイトルのような名前を名乗ることはなく、本名のジェームズ・マッギル(確かに地味な名前。これでは両親の経営するガソリンスタンドに来られても、ジュニアのようにテンションは上がらない)という 名前で公選弁護人として、収入にならない弁護を引き受けているところから始まる。

ウォルターとの出会いが、安物パンツが宙に舞い、ガスマスクをつけた男が運転するキャンピングカーであったのに対して、今回のソウルは期待したほどのことはない。つかみとして、弱すぎる。

あの、銃口を前に怯えながら、それでも法律アドバイスを売り込もうとするソウルには程遠い、単なるチャラい中年オヤジが、惨めに失敗し、振られ続ける。なんと 第一話のラストにいたっては、キレやすさにドン引きしたトゥコに銃を向けられる。(ガス・フリングではなく、当初のシナリオではトゥコ・サラマンカがウォルターと戦う予定だったぐらい、凶悪なキャラ)

生活苦を理由に、ハイゼンベルクの名で、次第にカルテルのボスに(追い詰められて)なっていくウォルターと、憎しみ合い、助け合いながら、生き残るジェシーたちの日常に比べて、ソウルの日常は結構まったりである。

派手さにかける。

しかし電磁波恐怖症の兄チャック、昔なんかあったんだろうキム、といった新キャラたちに混じって、のちに私立探偵になるマイクが、駐車場係として難しい顔でクロスワードをしながら座っていたり、ジェシーに買収をすすめるネイルサロンにマッギル自身が事務所を持っていたりと、オリジナルをみた人間を楽しませる工夫が随所に光っている。

2002年って、そんなに昔なわけではないが、70年代ドラマのようなタイトルクリップなど、制作者の偏愛も光る。

オリジナルほど、手に汗握る展開ではないが、徐々にのし上がろうとする、したたかなマッギルを見ていると、次の一話と、見てしまう。(特にマイクが渋々事件を片付けるのがそれらしくていい)

何より楽しみなのは、タイトルにもなるキャッチ、「ベター・コール・ソウル」がどこで思いつくのか。その瞬間に立ち会えるかどうかなのだ。

日本でテレビの視聴率は急減しているらしい。今までテレビを見ていた人の半数は、実はウェブで動画や映像作品を楽しんでいるらしい。

今回の配信はまさに、そうした潮流を象徴するようなものだろう。

「ブレイキング・バッド」シリーズもウェブで配信されており、本作もシーズン1は全話配信されている。一ヶ月無料とか、やすい価格設定である。

もちろん、ウェブでの動画配信は万全ではない。

ちょっと前の映画棚卸しや、廃れたドラマの再利用的なサービスもあったり、バケツいっぱいのスーパーボールをひっくり返してみた、みたいなものも混じり、玉石混交なところもある。

しかし確実に言えることは、もうテレビに客は戻ってこないということだ。

広告の合間に笑い声を挟んだものや、CM明けのくどいリフレイン、音声を必要としないテロップなど、ここ十数年で、一般民放放送は基本的な求められ方も役割も変わった。

力道山がシャープ兄弟と戦った時代は、インフラとしてテレビが少なかったからだ。

狼煙であったか、チャットであったか。そこに優劣はない。だが、狼煙の味わいを語り始めた時に、すでに目的から逸脱している。

追記。
第6話のマイクのエピソード。警官。めちゃくちゃ良かった。

2015年8月31日月曜日

防災の日の反対側

「天災は忘れた頃にやってくる」

関東大震災の後の、寺田寅彦の名言である。

東京が大規模祭を体験するのは、その前が幕末の安政の大地震だから、68年前。本当に忘れた頃にやってきたのが、関東大震災ではなかっただろうか。

9月1日は防災の日である。関東大震災(1923)が起こった日である。

現在、震災と言われると、岩手県三陸沖地震か阪神・淡路大震災を連想だろう。忘れなければ、震災がこないわけではないが、被災したあとの助かり方は圧倒的に変わる。

経済ではない。経済の打撃が問題であるかのように言われるが、それは一旦でしかない。

阪神淡路大震災後、十年経っても、景気が悪いままだといっていた人がいたが、彼は被災時に頭をぶつけてしまったのだろう。被災する前から景気は悪かったではないか。

ましてや一回や二回の震災で、破綻するような経済や社会システムなど、江戸幕府以下の脆弱さではないか。

防災の日をわざわざ訴えるのは、生産手段もなく、納税義務を持たず、投票権のない子供であろうとも、同じ人間が一人でも助かるようにという悲願が前提にあるからではないか。

人権よりも先に、同胞が苦しみにあっても、なおかつ生きていてほしいと思うからだ。宿願であり、悲願である。業である。

そんなに生き残っていて欲しいと願っているのにも、関わらず、もっと不謹慎な数字が出た。

9月1日の自殺者数である。1973年から2013年までの間で、1972~2013年の42年間の18歳以下の自殺者を日付別に整理すると、9月1日が131人で最も多いのだ。

防災の日だから、備えて、サバイブしようぜ、といっているのにも関わらずだ。この皮肉。夏休み明けに憂鬱になって、思いつめてしまったのだ。

しかしナーバスな問題である。自殺を衝撃的に伝えることで連鎖を引き起こすという警戒から、WHO・世界保健機関の定めた、メディアへのガイドラインがある。http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/link/kanren.html

その中で、センセーショナルに取り上げないように指導されている。

ここでいくつか思うことがある。

センセーショナルに扱わないということの結果、実は避けている。見ないでいる。両手で目を塞いでいるから、存在しないという報道姿勢を感じる(ガイドラインでは、当然の行為のように扱わないと規定されているが、落ち目のタレントの自殺など、残念ぴょん程度の扱いではないか)

遺書がないと、自殺ではなく、変死として扱われるとか。警察庁の発表は3万人でしかない。しかし年間15万人の変死者がいて、その半分を自殺とカウントしたら、11万人弱が自殺とカウントされてもいいという。

いやいや、そんな馬鹿な。それだけの人間が毎年死んでいて、なんともないなんて、法治国家としておかしい。そう思った。

我が国は確か、宣戦布告を過去75年していないし、どこからもされていない。非戦闘状態なのだから、国民が大量に死ぬなんてことはあり得ない。

まてよ? 気になって、東京大空襲を調べてみた。

当時の警視庁の調査が出ている。8万人が死亡。4万人が負傷。え? 足してやっと12万人。

いや、死亡は8万人だと? 空襲で死んだ人たちが8万人で、空襲を受けていないはずの我々が11万人だと? 東京大空襲よりたくさんの人が、一年で死んでいるだと? 非戦闘状態の法治国家で、基本的人権をうざいぐらい主張している国が?

まあ、政府のお口ぽかんなデータなど、そんなものではないか。よかった、遺書がなかったぁ。じゃあ、変死カウント1ね? ぐらいのノリなんだろう。

問題を直視しなければ、存在しないなどと、おまじないみたいなことをいっていてはいけない。

関東軍は負けたことがないから、南方の皇軍も負けないハズ、といっているようなものだ。一億玉砕など、無責任きわまりない。

ひとごとにしない。寺田寅彦が言いたかったのは、NHKの被災者のドキュメンタリーをみて感傷的な気分に浸ろう、ではない。生き残ることに、油断するな、である。

我々の祖先は、霊長類の中でも、高度なコミュニケーション能力で生き残ってきたのだから、自分一人で生き残るより、隣人と助け合った方が圧倒的に生存率が高まる。

助け合うのは美学でも、美徳でもない。本能なのだ。だからこそ、寺田の言葉に意味がある。そしてその反対の自殺にしても、決して他人事にしない。我々には食欲や性欲以外にも、本能があるのだ。助け合う本能があって当然である。

pinkのRaise your glassでも使われた、大戦中のポスターなんだとか。
一般的に知られたのは80年代以降。

2015年8月27日木曜日

本の自炊その後

書籍を断裁し、両面をスキャンしてPDFデータを電子ブックとして読む。

著作権を侵害するとか、結構議論された割に、今や下火である。もう電子書籍が普及したからだろうか。

先日、電化製品をみていると、見開きにした本をスキャンしてくれるスキャナーがあった。見開きで数秒でデータにしてくれる。しかし本をスキャンしようとしたら、相当な時間がかかるだろう。

やはり両面スキャンにかなわない。

8年ぐらい前。断裁機と両面スキャナーを買って、自炊をはじめた時に嗤われた。

「今はページをさっとめくるだけで読み取ってくれるスキャナーがある。それが出回ると断裁なんて誰もしなくなる」

その説明を聞いてみると、国会図書館の貴重書をそうしてデータ化するのだというニュースがあったらしい。

素晴らしい技術だが、絶対市販されるレベルにはならないだろうと思っていた。そして未だに商品化には至っていない。断裁しない見開きスキャナーは上記のように、数秒かかる。

しばしば新しい技術に、目を見張ることがある。

しかしいいものが必ずしも、成功する訳ではない。あっさり市場から消えていったベータは、VHSより格段にいい画像を残していたのではないか。

メーカーがいいといっても、ほとんど信用しない。カッコイイことを売りにしていると、まず除外する。

本当にいいのかどうかを熟慮するのが楽しい。

両面スキャンをするとどうなるのか。蔵書が一つの電子ブックで大量に持ち歩ける。しかも安く買った本を、大事に所蔵しておくより、はるかに取り出しやすい状態で簡単に読み始めることができる。

そうしたことを悩み抜いていくことがいい。そうして失敗したら、心底納得がいく。誰のせいでもなく、自分の悩みが浅はかであったことを痛感し、悔しくてたまらない。たまらないから、いい。

また蔵書をどんどん電子化しようと焦って、岩波の金枝篇をバラしたことが悔やまれてならない(索引が充実しているが、電子書籍だとさっぱり使えない)。

そして今や、電子ブックリーダーが売れていないのだとか。

理由は簡単。

スマホでも電子書籍を読むアプリが、普及しているためである。

スマホとは別に本を読むために、あらたに一台買う必要はないのだ。なるほど。

自分の浅はかさを思う。

国内で販売されるのが待ちきれずに、Kindleを買ってしまった。それもipodを真似て、kindle touchという、日本では流通していないものを。

切歯扼腕。ほぞを噛む、と思いきや、そうでもない。

多少国内販売の方が安いが、そんなに大差はない。そんなことを悔しがるより、本を読んでいる方が楽しい。そういう意味で、心底悔しがれないのは、残念でもある。

こんなに頑丈な上製本は国内でみたことがない。
英語圏は全てペーパーバックの文化だと思ったら大間違いなのかもしれない。

2015年8月25日火曜日

龍谷ミュージアム『迷い続けた人生の旅路 玄奘』にいってみた。

夏目雅子や宮沢りえ、深津絵理が演じたような、可憐な存在ではない。

結構タフな側面と、インテリでありながら、経典翻訳に詩的な才能も持ち合わせていた、魅力溢れる人物として玄奘三蔵を紹介している。

面白かったのは、冒頭から西遊記が日本でどのように消化されていったのかを、現存する江戸時代の読本などで紹介しているところ。

法相宗の祖師たちが集まる図像に描かれたり、玄奘三蔵自身が般若経典に説かれる十六善神に取り囲まれた図像など、フィクションから尊崇の対象となったり、教学上の実像まで。

キーワードとして玄奘を捉えたときに、現れる姿を多角的に紹介している点が面白く、展示品目が他の国立博物館ほど大規模ではないが、充実したセレクションである。

また今回の展示でよくわかったのは、孫悟空という猿の従者がなぜ登場したのかということ。

玄奘三蔵という実在の人物と、猿の従者孫悟空という組み合わせがどうやって誕生したのか、である。

もともと取経僧と動物という組み合わせで、僧侶と虎、馬、というバージョンは玄奘以前から、組み合わせになっており、伝承上のフォーマットであった。

そこに猿が登場したのは、玄奘の特徴のようである。

ではなぜ、猿であったのか。

猿には、器用に蚤をとったり、甲斐甲斐しく他の動物の面倒を見るという姿を、古くから人間は認識していた。

鎌倉時代の日本の厩舎を描いた図像にも、馬の厄除けの守護として猿が描かれる。古代中国においても、馬を守る守護神として猿はその役割を期待されていた。

つまり玄奘が馬に乗って、天竺に渡ろう行こうとしたときに、馬は必需である。そしてその馬を守っているのが、猿なのだ。そう、猿は馬を守り、さらには馬に乗ることで移動できる玄奘を守っているのだ。

こうした設定は実は、すでに我々に馴染みのある設定なのだ。

つまり悟空が憤慨しているのは、妖怪の卑怯さや八戒たちの失敗ではない。何においても、玄奘自身の人の良さにいつも憤る。それは守護者としての、分かりやすい憤りというべきだろう。

その彼が過激な暴力をもって、事態を打開しようとして、しばしば玄奘に叱責を食らう。

キャラクターボードに、猿の従者として登場してから、早い段階で設定された性格というべきだろう。こうした設定そのものが、実は守護者としての猿という隠喩を象徴しているのではないだろうか。

しかしなんといっても、最大の見どころはトルファンの石窟寺院の再現。

龍谷大学の研究チームがNHKとともに調査し、再現した回廊が極彩色豊かに描かれ、くすんだ木造ばかりみてきた日本人の度肝を抜く。

灼熱の砂漠を経て、玄奘もこうした石窟にある、お釈迦さんの前世譚(ほとんどが自己犠牲をモチーフにしている)をみて、何を感じたのだろう。そんな空想は到底、京都市内で歩ける距離に存在するとは思えないだろう。

ちょっと孫悟空が好きとか、シルクロードの話題が面白そうという程度で望んでも、豊穣な文化遺産に魅了される贅沢な展示である。

孫悟空のモデルになったというキンシコウ

2015年8月24日月曜日

使い尽くすためのもの

友人が電気店に勤務したときのことを話してくれていた。

身なりのいい、お金持ちそうな奥様が息子を連れてやってきた。

なんでも、高校受験に合格したご褒美にパソコンを購入したいということであった。

用途にもよるでしょうが、デスクトップがいいか、ノートPCがいいか。どんな風に使いたいか。どんなことをしてみたいか。

そうたずねると、しばし顔を見合わせた末に、母親がこう言った。

「できればいいものを、お願いします」

喉元まで出かかった言葉(ウチは悪いものは取り扱ったおりません)を飲み込んで、見繕った。難しい顔をして、少し割高で、羽振りのいい客がちょっと散財した気分になれる程度の額にした。

使い方を知らないとは、そういうことなのだ。

タブレットPCやスマートフォンが登場するより以前。コンパクトな通信端末といえば、ザウルスやリブレット、シグマリオン、モバイルギアであった。(windows95やwindowsCE、LINUXだったのだから驚きだ)。今のスマホからすれば、失笑もののスペックで今から見ても、結構なお値段したはずである。

特に覚えているのは、リブレットを移動中の原稿作成に使用していると自慢していた初老の編集者であった。

携帯電話や電話回線でインターネットもでき、大人な楽しみのムフフなお姉さん写真も観れるんだぜと自慢していた。

すんごいですねぇ。口でいいながら、思った。ハイスペックが聞いてあきれると。

ウェブブラウザは搭載していたが、はっきりいってお詫び程度。メールも結構華奢であった。

しかし当時にしてみれば、windows95をポッケに入れて、車中でテキスト編集できるのだ。事務所を持ち歩いているようなものだと、驚いた。

その人がその後、スマホを使うようになったかは知らない。
使い方を知らないで、無駄に高いものを買い、持て余してしまうなんて、なんとなく恥ずかしい。いつも思ってしまう。

読みかけで放り出した本や、やりかけて放り出したことに、恥ずかしさを感じる。

使い方を知らないで、やすやすと手を伸ばし、味が薄くなったと泣く、子供のように放り出す。

使い方を知らないことは、恥ずかしい。

ふと思うことは、何も道具やお金に限ったことではないのだろうと思うこと。

使い尽くし、使い切ったのなら、全て納得いく。哲学は全てそう示唆している。

ロリポップキャンディの画像を探していたら見つかったミッキー。
 ぱちもん臭いが中国製ではなさそうなクオリティ。
天神さんの夜店にあったっけ?

2015年8月23日日曜日

京都国立博物館『特別展観 第100回大蔵会記念 仏法東漸―仏教の典籍と美術─』にいってみた。宗派不問の不思議なセッション

仏教東漸を京都国立博物館で開催している。

特別展観といいながら、常設展料金で入れるし、常設展会場であったが、関連展示が充実していたのが特徴的。

仏教の典籍と美術、というサブタイトルの通り、紺地金泥の写経や、経箱、木活字など、活版、装丁、表装というプロセスの、当時の最新鋭な機器が紹介されている。

こうした背景があって、最終的に近代仏教文化の精華、大正時代の大正新脩大蔵経につながっていくことがわかる。

そうしたなかで、特に面白かったのは、各宗祖と呼ばれる人たちの真筆を比較できること。

通常だと、宗祖とその後継者をテーマにすることが多い。そこで終わるから、宗派 を越えて、俯瞰することはまず、ない。

しかし今回は各宗派が京都にたどり着き、展開していった”仏教”という大括りで展示。なんと空海と最澄(御請来目録)、親鸞(教行信証)の真筆と伝えられる文献を間近に見ることができる。

それもそれぞれの宗派で重要な文献であり、結構緊張感をもって書かれたであろう背景を考えると、筆使いも力んだものにみえてくる。

もちろん、日本に渡ってきた仏教は京都ではなく、奈良が先である。そうおもうと、奈良も含めた関連展示があればとも、贅沢に想像してしまうだろう。

チベット語の経典を目録には記載していたが、展示スケジュールが終わっていたのか、見られなかったのは残念。

紙を経本のように折り曲げるのではなく、一葉ずつ両面を読み上げる形式のもの。(ダライ・ラマ十四世は幼少の頃、これを散らかして大目玉を食らったということを自伝で紹介している)

仏教の裾野の広さをより深く堪能できただろう。

一番のみどころはこうした、表現の多様性である。活字あり、イラスト付経典あり、頂相(師匠を描いて提出し、師匠から賛というポエムをつけて返されたら、後継者として認められたことになる)ありと、むにゃむにゃ唱えるための仏画と文字だけと思ったら大間違いの充実さである。

また、外伝的に面白いのは夏の納涼企画か、百鬼夜行図を展示していること。

打ち捨てられた道具たちが、積年の恨みをもって、生き物に化けて練り歩くというストーリーだが、なんの展開もなく、あっさり陀羅尼の功徳で追い立てられて終わる。

その練り歩く描写が一番の面白さ。

現代の漫画のルーツに、葛飾北斎や鳥獣戯画を求めることが多いが、それより先にフルカラーで確立していた表現技法に親しむことができる。(現代の漫画家の多くが、筆を使った表現に一度は挑戦するのも、こうした背景があるからかもしれない)

タイトルがおどろおどろしい割に妖怪たちは、村上豊のイラストか水木しげるの漫画のように、どこまでもコミカル。

仏教伝播の変遷を清流とするなら、傍流たる妖怪たちもあり、清濁合わせて堪能できる。

繰り返すが、内容的にかなり、お値打ちである。

2015年8月17日月曜日

言い訳がましく下書き

書き物の仕事をしていた時のこと。

深夜に書いたものは、翌朝に送信すべしということを言われた。

夜のうちに書いたものは、結構ハイになって、書いてしまうことがある。翌朝、出社して、コーヒーを飲みながら、クールダウンした頭で再読してみると、てんこ盛りになっていたり、全体が支離滅裂であったことがわかる。

チェックは翌朝の自分に発注した方がいいというのだ。

人間の生体を捉えた至言である。夜に書いたラブレターは絶対投函してはならないというジンクスみたいなものだ。

ブログのテキストを書いていく。書いたところで、何か貰えるわけでもないし、書かなかったからといって、痛くもかゆくもない。ただ寝つきが悪い。

思いついて書き始めるが、書いているうちに、別の話題も盛り込む。結構、フォーカスが甘くなる。別のテキストに分けてみる。やった、二つできた。そう思って、二つ目から仕上げる。

ところが、アップロードしようとしていると、ふとある疑問がよぎる。似たような話を書いたのではないかと。

検索してみて、予感が的中する。例えは違うが、落とし込みが大体似ていたりする。もう少し変えるべきは、どこか。考えても仕方邸ので、とりあえず、一つ目を片付ける。片付けようとして、ふとまた思う。同じ話題を取り上げていないか?

検索して、愕然。やっぱり書いていた。しかし今度は違う。

下書きにしたまま。下書きのストックが結構な数になっている。

ならば、ここで仕上げてしまって、と思うのだが、触り始めると物足りなくなる。

ああでもない、こうでもないとしているうちに、眠さがピークになる。

結局、何も書けないで寝てしまうのだ。何か敗北感は否めない。否めないが、仕方ない。幸い、疲れて寝つきはいい。

実は下書きのままで、処理に困っているテキストがある。

一体、なんだって、こんな徒労を繰り返さないといけないのか。

何かを食べたとか、誰かとあったとか、どこにいったとか。そんなブログ記事を書いている人を見ると、タレント気取りか、と思うと同時に思う。羨ましい。いや、そういうときこそ、Facebookやinstagramの出番ではないか。

なんで、わざわざブログに書くのだ。それで記事というのか。羨ましい。。。

下書きの話は書いていないはず。。。というラビリンス。
もっと薄口を目指すべきか。

2015年8月16日日曜日

余はいかにしてmacユーザーとなりしか

自前で最初に買ったのは、確かwin95の売れ残りであったと思う。

Macにすべきか、windowsにすべきか(この二択しか、当時の一般社会にはなかった)。

そうした中で、パソコン通という人が教えてくれた。Macはメモリを増設できないし、一つずつのオプション単価が高い。だからwindows環境でパソコンになれた方がいい。

納得した。こうして旗印派の末席に加わった。

ところがDTPに関係が深い職場に転職すると、mac環境が標準である事を知る。

使いこなせるかどうか。そんな心配をしている暇はなかった。

そして使ってみると、その心配も大半は自前のフィクションであることに気づいた。ちょっとショートカットを習得してしまえば、直感的な操作が可能なのだ。(要はディスプレイで机と引き出しと、ペンとノートを再現して、動かせるようなもの)

それがmacOS Xになったら、もっと加速していく。リアルの机よりはるかに簡単に複雑なことができるのだ。

テレビドラマや、ドキュメンタリーの中で、よくMacBookを使っている風景を見受ける。windowsが売れていないわけではない。Microsoft製品とApple製品でいえば、圧倒的にMicrosoft製品の方が売れているはずだ。

ところが結構な頻度で光るリンゴマークを見受けることが多い。

実は好みの問題以上に、Mac製品の強みが基調にあるように思われる。

つまりApple社自身が公表はしないが、数年使っていくと、それは判明する。

設計が安定している=ハードディスクの経年劣化が少ない=中古製品でも安定している。これが決定的なのではないか。

PCを安価に手に入れようとして、中古のwindowsなど買おうものなら、単に店舗に寄付しているようなものだ。

基本的に古い端末は切り捨てられるという思考で、windowsは設計されている。それによって経済を円滑に回そうというモデルである。

これに逆行しようなど、ビル様に逆らったも同然である。いくら大金を払おうが、間違いなく、2、3年で廃棄処理に困るか、物置の肥やしである。

一見、高いように見えるが、4年目も同じ端末を使いたいなら、Macを使うべきだ。

同じ値段でwindows製品を買えば、きっとハイスペックな物が買えるだろう。しかし結局、安定して使っていくのにはMacほど安定することはない。

Mac信者に対して、いけすかん感じがあったが、この点については議論の余地はない。macbookairMacminiを使っているが、どちらも安定しており、目立った不具合はない。

そしてどちらも中古製品でまかなっているが、古いものを何一つ感じさせない。(これがwindowsであったら、各社が好き勝手にデザインしたフォルムで、3年も経てばレトロ感を否めなくなる)

Apple製品を全て褒めるのが、Mac信者だとするなら、自分はそうではない。

がたがたと見た目の印象ばかり語りたがる、i-osは全然興味がない。何が変わったのか。こんなデザインに。こんなアニメーションに。(まるでXPが出た時のデザインが柔らかくなった程度ではないか)

利便性や機能性に、保守的なMacユーザーは小うるさかったが、いつの間にかVAIOのデザインを語るような、デザイナー気取りではないか。

OS Xは安定していて、長期的に使えて安心だが、i-osは信用できない。

ましてや、なんとなく便利そうで、i-osを使っているが、パソコンを持っていないからキーボード操作ができないなどという若い人をみると、愕然とする。

毎月、1万円弱の通信費と端末代金を支払っているくせに、Macmini3-4万円で買えることに興味はないだと?

ちょっと信じがたい話だが、リアルに起こっていることだ。

携帯会社に完全に踊らされていないか?

ちっさいだけではなく、頑丈でハイスペックだが、
i-osほどは回収率は良くないのか宣伝は大人しいmac mini。