なんの弾みか、砂場で二チームに別れて、どちらが高い山を作れるかを競い始めたときのこと。
自軍の山が明らかに劣勢になった。
いくら土を頂上に盛っても、流れ落ちるばかりで、高さが伸びなかった。対する隣はどう工夫したのか、明らかにこちらより高い頂きを築き、さらに伸びようとしている。
足場の砂ではなく、他から砂をかき集めるが、一向に伸び悩む。そうこうしているうちに、相手はますます高くそびえていくのだ。
万事休す。仲間はがむしゃらに砂を運び、何人かは壁面を強化していくが、敗色は次第に濃厚になっていた。
すると、年長組の一人が我々の山の傍に立つ。
このままでは、負けるな。そんなわかりきったことを言った。手伝ってやろうかと。仲間が色めく。そうやって年下の前で偉そうに。いや、待て。何か秘策があるのか。
そんなやりとりの後、彼は無造作の五指を伸ばした手を持ち上げた。そして、無造作に頂上にそれを押し付けたのである。
あっ。みんなが息を呑んで、手を止めた。すると彼は言った。
「さらに高みを望むなら、頂上は踏み台にしろ。早くこの上に砂を乗せるんだ」
おお! 一斉に両手にすくった砂を持ち上げる。一度土台になった頂上には、みるみる新しい砂を受け止めて、さらにさらに高く登っていく。
そしてあっという間に、敵軍の山を追い越し、勝利したのだ。その時、確信した。さらに高みを望むなら、頂上は踏み台にしないといけないのだと。
現存する砲術(鉄砲術)の演武などでは、弾薬を詰めて、発砲したあと、小手をかざして残心の構えを取る。まるで弓道のようなフォーマットである。合戦ではそんなポーズなどなかったが、後付で作られたものである。
旧幕府軍が新政府の新式銃に敗北したというのは、現代日本人がもっとも好む話である。
これは何も日本人に限ったことではない。
帝政ロシアの誇り高き近衛兵たちは、新式のライフルを軽蔑した結果、レーニン率いる赤軍に敗北して、ロマノフ王朝は滅びる。
馬鹿でかい車を美徳としていた、ゼネラル・モーターは軽い日本車に負けた。
ゲーム産業やアニメーションも、日本の職人技が90年代までは世界を席巻したが、今やノスタルジィでしかない。
負けた側に共通しているのは、何か。いつも考える。
新しいから、ではない。
過去に成功があったから、その方法を続けていくしか道を見ない。その結果、世界でも類を見ないガラケー文化を作り、今や自国民にさえ、見向きもされなくなっている。
さらに高みを望むなら。全てを捨てよというのは、無責任な発想だと思う。むしろ、頂上を踏み台にする痛みこそ、驚きと活力にあふれているのではないか。
友人でも、昔語りをするのに会うと少々気恥ずかしい。
お互い、まだまだ踏み台どころか、その頂上にすら辿り着けていないのではないかと思うのだが、どうもうまく言えない。
想像のなかでは、これぐらいの高さの山だったような気がする。 |
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