2015年12月29日火曜日

達人の話

神経学の話。

視覚で認識した情報を元に、攻撃あるいは防御の動作に移るべく、筋肉を伸縮させる。

この知覚、動作の流れに、個人差はあまりない。特に緊張状態にあると、人間はだいたい同じで、その違いは秒数ではカウントできない。

つまり殴ってくることを感知し、それを避けたり、払おうとすること自体、人間にできることは同じスピードでしか対応できない。

つまり強さとは、その限られた速度で、どう処理しているか、なのだ。

最短距離で加速し、重量あるパンチをくりだせるか。あるいは避けられるか。

ジークンドーでは、その答えを明確にしている。予備動作を最小限に抑え、拳に体重を乗せるような打ち方をする。

筋肉そのものが強さなのではなく、つきの動作一つを正確に出せるように、筋肉を組み立てる。

ブラジリアン柔術はもっとロジカルである。人体の可動方向を整理し、相手の動きを封じながら、いかに優位な体勢を構築・維持するのか。

気合いとか、根性とか、気迫は余り役にたたない。必要なのは、酸素の吸引力と集中力である。

そうした戦術が、正攻法の臨界点を迎えると、次は別の方向に向かっていく。

例えば剣であれば、上段に構えた方が、刀の重さの分、早く振り下ろせると信じられている。下段に構えると、振り上げる筋力が必要なため、遅くなると。

しかし柳生新陰流では、これを逆手にとった。

逆風という技である。

わざと下段に構えて、上段を誘う。上段から打ってくる相手の太刀筋を避けながら、その小手を狙う。

すると相手の拳は早く振り下ろされてくるから、おのずと早くなくても切り上げることができるというのだ。

(考えてみれば、重みがあるだけで、早いというのも、おかしい。実際には遠心力を使うので、上段も、下段も、人間が使う以上、筋力の違いでしかない。)

はっきりいって、ずるい。

スポーツマンシップなど、微塵もない。(なぜなら、スポーツではないから)。

正攻法ではない方法を考えたのだろう。ずっと秘伝として伝えられた。(そのせいで、巌流の燕返しという技法と、かぶっていることは二十世紀後半になるまで分からなかった)

こういうことを見聞するのが面白い。

だから、筋肉や精神論しかないような、メソッドの整備されていないものが、さも古来のものであるかのようにいわれると、なんとなく興ざめしてしまう。

ましてや時代劇で、お面お小手と、殴り合うような殺陣をしていると、がっかりする。

映画のスタントでは、派手なポーズをしたあとは、カメラが表情にズームできるように、特に頭部は動かさない。

その点、演武を見ていると、居合以外は結構揺れている。別に新体操ではないのだから、止まる必要はないのだし、美的なものは結果論だからだ。

『燃えよドラゴン』なども、ズームするが、結構、ブルース自身は揺れている。全身の筋肉を使って、打撃した以上、波紋が起こるように揺れていたのは当然だろう。

強さは見えるし、強くみせることは、特殊効果でも簡単に作れる。

しかし強さに至るための、ロジックは簡単には作れない。

そこが最大の魅力である。

現代の道着は明治の嘉納治五郎考案のもの
居合などでは余り用いないのは、説明に適さないため。

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