2015年12月28日月曜日

鉛筆のぬくもり

寅さんが映画のなかで、甥に鉛筆の魅力を語るくだりがあった。

「いいだろう。木の温かみがあって、書き味に味わいがあるだろう?」

甥はボールペンにはないなんとか、かんとかこたえていた。

この手の昔は良かった説はあまり好きではない。

自らが相対的であることに、無自覚だからだ。

鉛筆を懐かしむ世代にとって、万年筆やポールペンよりも、体温が伝わるような気がするのかもしれない。

しかし冷たい言い方をしてしまうと、それは気のせいだ。

もしも、樋口一葉が聞いたら、嘆くことだろう。彼女の原稿は全て筆で書かれている。当時、前衛的な芥川龍之介が、鉛筆で書いたが、当時としては相当なショックだった。

マジ、鉛筆で書いちゃったんすか? 夏目先生にバレたら、やばくないっすか? 当時のリアクションはそんなところだろう。

当時は鉛筆で名文が書けるわけがないと思われていた。

もちろん、樋口一葉が原稿用紙を使っていたということを知れば、滝沢馬琴は嘆いていただろう。鉄眼和尚が経典の筆者に整理する際に用いただけの、400字という単位を用いて、自由な創作を制限するなどと、到底クリエイティブなことではないと。

しかし馬琴の書いたものを読むことができたなら、新井白石は失笑しただろう。。。

というように、時代によってアイテムや姿勢はどんどん変わっていく。変わって当然だろう。

今時、手書きで、丁寧に書かれても、というような状態ではないか。

タブレット端末に、指でサインをして証明とまですることが、現代では行われつつある。

チャールトン・ヘストンの『十戒』では、封蝋に指輪でスタンプして、自分の文書であると押印していた。

その時代から、基本的な考え方は変わらず、アイテムが指輪から、タブレット端末に変わったのだ(ちなみにモーゼの十戒を記した石板を英語ではtablet。カタカナ表記すると、ありがたみが半減。しかし英語圏ではシナイ山から持って降りてこられたのと、同じ名称をリンゴマークのものに使っているのだ)

本質は変わらないが、手段やアイテムが変わる。

やっぱり日本語はパソコンではなく、ワープロでないと、と主張する人がいるとしたら、今や滑稽である。

鉛筆にぬくもりを感じるのは、自由だが、シャープの恨みを無駄に買うようなシャープペン批判や、ボールペン軽視などは、全然自由ではない。

ジープに乗ったアメリカ人にせがめば、チョコレートを投げてくれると思い込んでいるのと変わらない手あいの、単なる思い込みだ。

パソコンだからといっても、アイデアは手書きがやっぱり便利。

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