ご飯の途中で眠くて、寝てしまう子猫。ボールを投げたふりをするだけで、飛ぶように走っていく子犬。
どれを見ても可愛い。
なぜか?
本質的に愛玩される性質を持っているからだ。まさに愛す可きとは、可愛さのことである。愛さずにはおれない。
逆のことを考えた。ちょうど、コメディとしてやくざ屋さんが映画を作るというコメディ映画をテレビでやっていた。
いくら説明しても、英語混じりだと分からないチンピラ。凄むこと以外、芝居ができない若頭。
どうあってもおバカである。
なぜか?
そうだ、滑稽なのではないか。
親分、子分、兄弟分などといっているが、安物の任侠映画ばりに、その本質はコントじみた関係ではないのか。
その本質は露呈している。彼らほど、タテ社会と称する従属性を重視する組織はない。
なんのことはない。
自らの生産能力が低く、そのために組織や社会に寄生せねばならず、いつでもそれは配下に横領されるリスクが高いからだ。だから、一本調子に従属関係を明確にしておかないと、組織自体の脆弱さが露呈してしまうのだ。
つまり組織といっておきながら、結局は利害でつながっているだけで、自己犠牲や、社会貢献、博愛などとは程遠い、ゲスい寄せ集めでしかない。
だから、大手の組織から独立騒ぎが、取り沙汰されている。
独立心旺盛であっても、妥協点がいくらでもあるのが、我々一般社会であり、そうした妥協点よりも最終的には、メンツと収入を重視してしまうのが、彼ら反社会的勢力ではないか。
黒澤明の『用心棒』はめちゃくちゃ面白い。(西部劇で二回、禁酒法時代を舞台に一回、リメイクされているくらい)
三船敏郎演じる、桑畑三十郎が宿場町で対立するやくざ組織を手玉に取り、互いに殺しあわせて、街を平和にするというストーリー。
今見ても、飽きないアップテンポの展開で楽しめる。
何よりもいいのは、やくざ組織で苦難を強いられている人たちへの愛情と組織暴力への軽蔑である。
三十郎は時に強気に、時におだてあげて、巧みに彼らを破滅においやっていく。
八十年代の抗争事件を知っているから、流弾に倒れた一般人の悔しさは察するに余りある。
三十郎がやったように、彼らは彼ららしい、メンツや収入のために、勝手に殺しあえばいいと思う。協調性のない、反社会的な人同士がいがみあって、彼らだけが総数を減らしてくれれば、実は世のためなのではないか。
「これで少しは、この街もすっきりするだろう」
ラストで三十郎はいう。その通りだと思う。
彼らが必要悪だとか、その威力を黙認するのは仕方がないという意見は全く賛同できない。
高齢者から振り込ませたり、ワーキング プアに法外な融資をしていくことが、到底「仁義」とは思えないし、それを看板にするほど無学な人々が必要な社会とやらが、決して文明的ではないからだ。
彼らの抗争を、大げさに取り上げる社会。
それもコントじみているダサさだ。彼らの風体や、容貌、言動が、その本質を表しているではないか。
マフィアのイメージ画像がなかなかなかったので。。。 |
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