結構タフな側面と、インテリでありながら、経典翻訳に詩的な才能も持ち合わせていた、魅力溢れる人物として玄奘三蔵を紹介している。
面白かったのは、冒頭から西遊記が日本でどのように消化されていったのかを、現存する江戸時代の読本などで紹介しているところ。
法相宗の祖師たちが集まる図像に描かれたり、玄奘三蔵自身が般若経典に説かれる十六善神に取り囲まれた図像など、フィクションから尊崇の対象となったり、教学上の実像まで。
キーワードとして玄奘を捉えたときに、現れる姿を多角的に紹介している点が面白く、展示品目が他の国立博物館ほど大規模ではないが、充実したセレクションである。
また今回の展示でよくわかったのは、孫悟空という猿の従者がなぜ登場したのかということ。
玄奘三蔵という実在の人物と、猿の従者孫悟空という組み合わせがどうやって誕生したのか、である。
もともと取経僧と動物という組み合わせで、僧侶と虎、馬、というバージョンは玄奘以前から、組み合わせになっており、伝承上のフォーマットであった。
そこに猿が登場したのは、玄奘の特徴のようである。
ではなぜ、猿であったのか。
猿には、器用に蚤をとったり、甲斐甲斐しく他の動物の面倒を見るという姿を、古くから人間は認識していた。
鎌倉時代の日本の厩舎を描いた図像にも、馬の厄除けの守護として猿が描かれる。古代中国においても、馬を守る守護神として猿はその役割を期待されていた。
つまり玄奘が馬に乗って、天竺に渡ろう行こうとしたときに、馬は必需である。そしてその馬を守っているのが、猿なのだ。そう、猿は馬を守り、さらには馬に乗ることで移動できる玄奘を守っているのだ。
こうした設定は実は、すでに我々に馴染みのある設定なのだ。
つまり悟空が憤慨しているのは、妖怪の卑怯さや八戒たちの失敗ではない。何においても、玄奘自身の人の良さにいつも憤る。それは守護者としての、分かりやすい憤りというべきだろう。
その彼が過激な暴力をもって、事態を打開しようとして、しばしば玄奘に叱責を食らう。
キャラクターボードに、猿の従者として登場してから、早い段階で設定された性格というべきだろう。こうした設定そのものが、実は守護者としての猿という隠喩を象徴しているのではないだろうか。
しかしなんといっても、最大の見どころはトルファンの石窟寺院の再現。
龍谷大学の研究チームがNHKとともに調査し、再現した回廊が極彩色豊かに描かれ、くすんだ木造ばかりみてきた日本人の度肝を抜く。
灼熱の砂漠を経て、玄奘もこうした石窟にある、お釈迦さんの前世譚(ほとんどが自己犠牲をモチーフにしている)をみて、何を感じたのだろう。そんな空想は到底、京都市内で歩ける距離に存在するとは思えないだろう。
ちょっと孫悟空が好きとか、シルクロードの話題が面白そうという程度で望んでも、豊穣な文化遺産に魅了される贅沢な展示である。
孫悟空のモデルになったというキンシコウ |
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