2015年8月4日火曜日

夏だからって読まなくても

なんとなく名作文学

日用雑貨のレジの横に、しおりのプレゼントがあった。見たことのない動物キャラクターがあしらわれ、一冊買うと、おすきなものが選べるらしい。

やだなぁ、といつも思う。

夏休みの課題図書、読みましょうキャンペーン。実は書店も持て余して、返品しているのが、このキャンペーンらしい。

十代に人気のタレントに、文庫を持たせて、本を読むのがおしゃれであるかのような、80年代のカドカワみたいなプロモーションを、競って版元はやりたがる。

やだなぁ。どうせ、ガキどもは中原中也も太宰治も読みはしない。ブックオフでゲームに変わるだけだ。何より、自分自身がその手の名作文学ではなく、柴田練三郎や隆慶一郎といった作家に、首まで使っていたし、そこに後悔はない。

若い人は古典を読まない、など、知った顔で語るのはいけすかん。では、大人がいう古典とは何か。せいぜい、夏目漱石やら芥川やら、近代文学の端をかじった程度ではないのか。

ソクラテスやアリストテレス、四書五経を読破したとでもいうのか。

若い人はものを知らないなどというが、老いたものでも、物を知らない人はいるが、取り繕うのがうまい人はたくさんいる。それをもって、経験知だとするなら、人間は実に浅ましい。成長など到底いえない。

高校生か、中学の夏、吉川英治の初期『龍虎八天狗』を貪るように読みふけった。内容はすっかり失念したが、徳川を倒すために、忍者が丁々発止するのに、夢中になった。

就職してからも、山本周五郎や大佛次郎に夢中になった。

考えてみれば、夏は関係ない。読みかけて、よく昼寝をした。

春でも、冬でも、面白ければ、いつでも読んでいたではないか。

なんで、夏だから、名作を読まないといけないのだ。そもそも古典だからと、なんでもかんでも読めばいいのか? チャタレイ夫人の恋人だって、毛皮をきたヴィーナスだって、ロリータだって、カーマ・スートラだって古典ではないか。

それがダメで、芥川はいいと、誰が決めた。我輩は猫であるとか、坊ちゃんはよくて、こころや、それからがダメなんて、誰が決めた。

どうも胡散臭い。
電子書籍が普及すると、国家が国民の監視できるようになるとか主張する人がいた。
なぜかユダヤ陰謀説なみに、こういう時だけ国家は絶大な権力を持つのだ。あほくさ。

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