身なりのいい、お金持ちそうな奥様が息子を連れてやってきた。
なんでも、高校受験に合格したご褒美にパソコンを購入したいということであった。
用途にもよるでしょうが、デスクトップがいいか、ノートPCがいいか。どんな風に使いたいか。どんなことをしてみたいか。
そうたずねると、しばし顔を見合わせた末に、母親がこう言った。
「できればいいものを、お願いします」
喉元まで出かかった言葉(ウチは悪いものは取り扱ったおりません)を飲み込んで、見繕った。難しい顔をして、少し割高で、羽振りのいい客がちょっと散財した気分になれる程度の額にした。
使い方を知らないとは、そういうことなのだ。
タブレットPCやスマートフォンが登場するより以前。コンパクトな通信端末といえば、ザウルスやリブレット、シグマリオン、モバイルギアであった。(windows95やwindowsCE、LINUXだったのだから驚きだ)。今のスマホからすれば、失笑もののスペックで今から見ても、結構なお値段したはずである。
特に覚えているのは、リブレットを移動中の原稿作成に使用していると自慢していた初老の編集者であった。
携帯電話や電話回線でインターネットもでき、大人な楽しみのムフフなお姉さん写真も観れるんだぜと自慢していた。
すんごいですねぇ。口でいいながら、思った。ハイスペックが聞いてあきれると。
ウェブブラウザは搭載していたが、はっきりいってお詫び程度。メールも結構華奢であった。
しかし当時にしてみれば、windows95をポッケに入れて、車中でテキスト編集できるのだ。事務所を持ち歩いているようなものだと、驚いた。
その人がその後、スマホを使うようになったかは知らない。
使い方を知らないで、無駄に高いものを買い、持て余してしまうなんて、なんとなく恥ずかしい。いつも思ってしまう。
読みかけで放り出した本や、やりかけて放り出したことに、恥ずかしさを感じる。
使い方を知らないで、やすやすと手を伸ばし、味が薄くなったと泣く、子供のように放り出す。
使い方を知らないことは、恥ずかしい。
ふと思うことは、何も道具やお金に限ったことではないのだろうと思うこと。
使い尽くし、使い切ったのなら、全て納得いく。哲学は全てそう示唆している。
ロリポップキャンディの画像を探していたら見つかったミッキー。 ぱちもん臭いが中国製ではなさそうなクオリティ。 天神さんの夜店にあったっけ? |
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