2015年8月15日土曜日

戦争の話をしないといけない気分

調子のってんのか批判

日本よりも先にIT化が進んだ国で数年前にあったこと。

テレビ番組で歌い終わった女性歌手がステージを歩いていて、転んだ。幸い怪我はなく、画面から数秒消えただけで終わった。

しかし問題は起こった。

彼女の行動に対して批判が殺到し、彼女のブログやら、番組サイトやらが炎上したのである。

曰く、緊張感が足りない。調子に乗っている。人気が出たから尊大になった。

いやな社会である。直接因果関係がないことに対して、歪な根性論を塗りつけるグロテスク。

目立った人がうっとうしいなら、目をそむければいいのに、執拗に見定めて、糾弾する社会。矮小化した価値観で、平気で他人を裁く社会。低俗な社会正義で、犯人を暴き出す社会。実に息苦しい。

ところが、それが他山の石ではなかった。

6日、9日に、原子爆弾投下とは関係ない日をキャッチにした企業や、タレントが糾弾された。一瞬、無神経だなとも思ったが、はたと気がつく。

そのうち”忘れてはいけない日”尽くしになってしまうのではないか。そういっておきながら、自分自身も、大半のめでぃあ今月末にはとっくに忘れているのではないか。

発表ではなく、雰囲気

地上波でニュースはほとんど見ない。朝は10分程度で足りる。それ以上は見ない。

BSなどで海外ニュースを見ている時がほとんどである。

理由は一つ。

地上波は、どのチャンネルも大抵、読み上げる人が違うだけで、内容は同じだからだ。

言論の自由は現行憲法で保証されている。弾圧など、言語道断である。

だが、今日はこの話題が無難だろうと、選択しているのだとしたら、それは自由とは対極というべきだろう。

大本営発表が戦時中にはあり、その言論統制下にあっては、自由な報道はできなかったという。

しかし実際に、言論の統制に前のめりで貢献していたのは、識者で構成された大政翼賛会と、各地の婦人会である。

国家存亡の危機に瀕して、国民の一致団結を促進するという、正義に基づいて、積極的に戦時の雰囲気を盛り上げていた。むしろその意を 汲まない軍人など、臆病者であり、その意を汲まない報道など、反社会的なものであった。

何も226事件たちの将校が、新聞社を襲撃したように、言論を銃下で封殺したのではない。(もちろん、規制はあったが、ライフルをもった軍人が、新聞記者のデスク脇に立っていたという想像はフィクション。封殺したかのようにいうのは、GHQが東京裁判で行ったパフォーマンスである。そして彼らこそ、原爆被害の実態について、何年も報道を禁じていた)

社会の雰囲気に流されるのではなく、社会でおこった実際の姿を伝えるのが、報道の自由である。そうだとするなら、現代社会は恐ろしいことになっているのではないか。

つまりとっくに、戦時下の政府よりも、視聴者の雰囲気に飲み込まれ、その求めに応じて、南方進出であろうが、連合国敗退だろうが、見たいものを見せているのではないだろうか。真実など、どうでもいいのだと。

そして月末には、すっかり忘れて、夏休み終わり中の水難事故と、ハワイで過ごしたセレブの生活を伝えることに終始して、3週間前は”忘れてはならない日”があったことすら、忘れてしまうのではないか。

ケーブルテレビも、なんとなく戦争と感傷気分である。あんなに人類だの、愛だののために、戦うのがカッコイイといっていたくせに、戦うことの悲惨さを何週間にわたってお届けしてくれるのだ。そうなんかなぁ。。。

戦争の悲惨さを語り継ぐことに意味がある。何も8月だけに限定して、終戦記念日ついで、みたいな姿勢が実は一番不謹慎なのではないか。

年中、感傷的でいろというのはおかしいが、二週間前後、感傷的になりませんか? というのでは、すでに大政翼賛会の発想ではないか?

そんなものは自由ではない。

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