2015年7月26日日曜日

仏像鑑賞ノススメ

信心深い人と、仏像の展示について、どういう認識であるべきか、ということを話し合ったことがある。

つまり仏像は工芸品と定義することは、是か非か。

彼の主張は、小さな本尊であっても、それ信仰の対象であって、博物館などで展示されるのは、近代主義の傲慢を連想させるというものであった。

なるほど。

しかし近代的な設備で保管・修復しないと、いずれは劣化、損壊してしまうのではないか。ましてや廃仏稀釈のように、社会情勢の変化によって、文化財が損失することも、考えられる。

などなど、話していて、結論めいたものにたどり着いた。

信仰の対象としての側面はある。しかし木や土で作った物体そのものに、何か特別な力を持っているのではない。

むしろそれを造像し、保存してきた篤志にこそ、意味がある。

さらにいうと、厨子にあり、本堂になり、伽藍があって、境内や寺域があってはじめて信仰の対象である。

反対に本尊のみが、近代的な施設に預けられて、保全・管理されているのは、住職や檀家の信心とは関係なく、被造物の宿命である。だから、文化財として管理されるべきだ。(保守的な人は、しばしば境内や本尊のコンディションが、信仰の帰結と捕らえる人がいるし、しばしば不健全な信仰にも引火する)

仏像を展示するのは、不謹慎か否か?

不謹慎ではない。

なぜなら、信仰してきた人々の文化や、精神性を継承していくための行為だからだ。造像された姿の精緻な技巧を、堂内は見えない箇所まで理解することができるからだ。

逆に仏教美術の展示で、手を合わせる人もいる。間違いではないが、実は望ましくない。近代的な視点で、文化遺産を介して、文化に親しもうとする施設と、五体投地して、その功徳にすがる場所とが混在しているからだ。

お寺にあるときの仏像には、手を合わせ、こうべを垂れる。信仰対象の本尊だからだ。

博物館にあるときの仏像には、目を細めて、遠慮なく覗き込む。文化的資料だからだ。

しかし博物館にあっても、できれば、心がけたいことはある。誕生仏などは小さい像に対して、決して頭の上を覗き込むようなことは避けたい。

海外ドラマで時々、飲食店やリビングに仏像を飾っているのと同じくらいダサい。造像した人に対しての敬意と、コンセプト理解がないからだ。

カミカゼ、ハラキリと発音して喜んでいるアメリカ人は、結構おバカに見える。それと同じくらい、仏像インテリアはダサい。

こう割り切ってしまうと、仏像を鑑賞する行為と、尊崇する行為が明確に分けられている。本尊に照明を当てて、間近に見ていることで、罰があたるかのような信仰は、決して理性的ではないし、分析的な思考を尊ぶ仏教にあるまじき、妄信というべきだろう。

ましてや仏教の中では、待機説法という教えがある。人に合わせ、場所にあわせ、いくらでも諸仏は教えを説くというもの。

敬意をもって、文化財を鑑賞し、親しもうとしていることを罰するような本尊など、およそ仏教からかけ離れた呪術である。

多分、増長天。四天王はシルクロードでは半裸だが、
中国で古代中国の甲冑を着るフォーマットにVer.up。

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