2015年2月28日土曜日

呪術とライティング

とんちんかんなことを言う人は、偏在する。

こんなことを書いているのを読んだことがある。幕末史を作品の題材にしている、有名作家がいた。彼を褒めそやすための、あとがきに寄稿した内容であった。

その作家が経営者であったなら、間違いなく大事業を展開していただろうと。

ううん、荒唐無稽さに笑ってしまうぞ。

(先行する大佛次郎の『天皇の世紀』ほどではないが)幕末を俯瞰的に描く、分析ができる=社会を分析できる=先見の明がある=経営者であれば、経済的な成功があったハズ。
というのが、主張だろう。

ということは? PHP文庫で創業者の名作が、広く読まれるということか?

やっぱり、あとがきを書いた人はおつむが不自由であったのではないか。

というか、世の創業者を少々小馬鹿にしていないか。

優れた文才があったからといって、彼には文才があっただけで、それ以外に(経済的な話題ばかりになっていることも、卑猥にも似ている)、成功できたというのは、いただけない。

なぜか?

呪術めいて、幼稚だからだ。

つまり文才があっても、それが人徳者であるとは限らないし、詭弁家はローマの共和制を迷走させ、アメリカの訴訟を増やし続ける。孔子はもっと端的に言った。

「巧言令色少なし仁(言葉巧みな人間で人格者はいない)」

古代において、作物に感謝して土地の神を慰撫(国ほめ)するのが天皇の重要な仕事であった。

白居易の新楽府にあるように、市井の歌を理解して、皇帝に民心を報告するのが、宮廷歌人の仕事であった。

歌や詩文を理解するものは、世界を理解するものと考えられた。

しかしこれが、古代だけと思ってはいけない。

明治時代、柴四郎はナショナリズムを鼓舞する小説を書いて名をはせ、衆議院議員に十回当選するにいたる。

(まるでどこかの知事が、若者の習俗をとらえた作品とかいうもので、有名になり、知名度をいかして、当選してしまったようなものである)

硯をすりながら黙考し、筆に墨を含ませて、一気呵成に揮毫するのならば、まさに、作者の性格や癖は出るだろう。だが、出るのは性格と癖だけだ。人格など表現されない。

しかし現代社会において、テキストデータは簡単に作れるし、推敲など意のままである。

素人ほど、自分のテキストを触られることを嫌う。自分の人格の一部のように感じているからだ。

だが、ライターはテキストを触られても、何とも思わない。むしろ歓迎する。自分が完璧なものを書き起せるかどうかより、完璧に近いものになっていくかどうかにしか興味がないからだ。(逆にいうと、素人とプロの、テキストへの取り組み方は決定的にここで別れる)

自分が精魂込めて書いたものなのに、添削された気分になる。否定されたような気分になる。そういうのは素人。

補修をして、自分のテキストをさらにより良くしてくれ、読み手に伝えてくれるのに協力してくれることが嬉しい。そういうのがプロである。

文才があるというのは、逆にいうと、その程度のことではないか。

ある程度、状況を整理できる。それを表現する語彙を記憶できており、変換候補から見つけることができる。あとは手元を見ずに、キーボードで入力できる。

それ以上に、テキストを書くのに、何か特別な能力が必要があるとしたら、眠気に打ち勝つ方法を知っている程度ではないだろうか。

だから、秀逸な文芸作品を書けることと、経済界で成功するととは、何一つスキルとしてつながったものはないし、あるのだという前提自体は、実は思い込みなのだ。

好きなエピソードがある。

白樺派の有島武郎をインタビューした、若い記者が、一心不乱にその記事をまとめた。なんとか書き上げ、校閲も渋々了解し、〆切に間に合い、紙面に掲載された。

しかし、その文章の稚拙さが酷く、社内でも失笑ものであった。

記者は自分の文才に悲嘆し、退社する。そして紆余曲折を経て、彼も作家になり、別の新聞社で連載することになった。タイトルは『宮本武蔵』。

そうである。吉川英治の記者時代の記事はひどかったらしい。

しかしそんなことに構わず、書くことに挑み続けた。いきなり名文を書こうとか、気負っていくことの不毛さの背景に、文才を人格や能力に直結しているのだとしたら、こんな幼稚な悲劇はない。

根性論も、精神論も、現代のライティングの前に不要ではないか。

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