どっちもはムリなこと
小学校に上がる前のある日。近所の友人たちを訪ねたが、みんな不在だった。
仕方がなく、うろついているところに、女の子たちが遊んでいるのに出くわした。学校ごっこをしているという。
ちょうど、男性教諭がいないということだったので、その中に採用されることになった。
初回の授業が始まって間もなく、どこにいっていたのか、友人たちが帰ってきた。
ウルトラマンごっこをするという。しかもセブンの枠は開いているというではないか。今日も充実の怪獣退治を予感して、その中に入ろうとする。
すると女の子たちに見つかった。二時限目が始まるというのに、どこにいくのだと。いや、ちょっと怪獣が現れたので、というと、随分怒られた。
しかし天啓にも似た閃きを得た。
「普段は学校の先生だけど、怪獣が出たら、変身する」
なんて、名案なんだ。地球防衛軍の泡食らった連中より、教諭としてちゃんと職務を果たしていながら、なおかつ怪獣まで退治してしまうなんて。
我ながら惚れ惚れするような名案だと思った。
ところが提案して、彼女たちに一層手厳しく怒られた。先生は変身する必要がないというのが、その主張だった。
そうこうしているうちに、友人たちはセブンの登場を待たず、怪獣軍団を追って、飛び去って行ってしまった。
妥協点が必ずしも解決策ではない。今なら、そう言葉にまとめることができる。
議論で何を尽くすのか
しばしば新聞やテレビを見ていると、こういわれる。充分、議論を尽くせと。
主張があり、そのためのプロセスがあり、それが実現不可能だとするなら、どこまで妥協できるのか。
そんな段階的な分析など、ついぞ見たことがない。
そもそも議論を尽くせという表現自体、湾岸戦争時の「なんとなく、全会一致」以来のものであり、野党のごね倒しか、与党の強硬手段という、およそ議論と呼ぶには、程遠いものではないか。
尽くせとは、まるで体力勝負みたいで、うんざりする。
アイデアを出し合い、妥協点を見出し、よりいいヒントを見つけ出す。恥ずかしいぐらい、建設的な方法である。
体力の限り、手段の限りを尽くして、相手の主張を撃破する。そんなものが「議論を尽くす」のだとしたら、呑気にも程がある。
折衷案は妥協点であることが多い。しかしそれでも、建設的である限り、意味はある。
全部肯定されるべきは、やはり教師役をするか、ウルトラマンになるかぐらい、幼稚な世界観なのではないだろうか。
どんなにがんばっても、変身グッズのオーダーは サンタさんに届かなかったような気がする。。。 |
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