武蔵をめぐるエトセトラ
歴史小説のなかで、有名な剣豪といえば、宮本武蔵を挙げることができるだろう。柳生宗矩や、上泉伊勢守信綱、塚原卜伝など、当時は有名だった人物たちも、はるかにマイナーだった武蔵のほうが、現代では有名である。
ひとえに吉川英治の作品のおかげである。彼の前に講談で語られる武蔵など、父無二斎の仇である佐々木厳流を倒す、ちゃっちいキャラでしかない。
実は伝承が圧倒的に多く、正確な資料がほとんど残っていないというのも、特徴的で、そのため名人、非名人説が昭和初期の作家の間に広がった。(この論争こそ、『鳴門秘貼』などでメジャーになっていた吉川英治が、連載するきっかけになる)。
さらに特異なのが、武蔵自身の著作というべきだろう。
およそ後世、開祖と呼ばれるカリスマは、著書をほとんど残さなかった。柳生石舟斎宗厳は多くの短歌を残したが、叙情的で論理性に欠く。伊藤一刀斎も著作は残していない。
近代、合気道の開祖植芝盛平翁すら、多くを語らず、弟子たちが言行録をまとめる。その師武田惣角にいたっては、伝聞の集積から推測するしかできない。
つまり弟子たちの中で、インテリな人が師匠の言行や指導をテキストに残すのが、通常なのだ。
それなのに、武蔵は違う。
五輪書しかり、独行道しかり、自筆で弟子たちに熱く語りかける。
その姿勢を押し付けがましいとか、自己主張が激しいと批判された。しかしそれは見当違いで、実際のテキストを見ると、他の開祖たちが太刀の持ち方や、構え、目のつけ方など、微細なアドバイスをしているのとは対照的である。
「他流には型だとか、構えとかいうが、実践でそれにとらわれていては、勝てない。定義にとらわれず、常に工夫しろ」
「武器にはそれぞれの特性がある。よくよく観察して、いつでも使えるようによくよく工夫しなさい」
結局は形式に捕らわれず、実をとって生き残れというメッセージにあふれている。
刀(かたな)の語源が、「片刃」+「薙ぐ」であった。
このことを知っていれば、もともと刀は片手で扱うものであったことは道理だろう。武蔵自身はそのことを体感していたらしく、両手に太刀と脇差をもって戦えという。
それは負けて、重症を負ったり、不名誉な結果の清算で自害する用に、脇差を残していくという、形式を嫌悪したものである。全力で戦いぬけというのだ。ワイルドである。
刀は片手で扱いやすいものである。(実際、刀のフォルムは薙ぎ切ることに適しており、腕力だけで、型通りの位置に止めようとすると、相当な修練を必要とするが、切る動作だけなら決して複雑ではない)
それを全て出し切って、戦いぬけ。
面白いのは、早く振ることが至上命題ではない。正確にさばき、斬れというのだ。これも現代人から見ると奇異なテーゼである。
しかし実際の鉄と鉛でできた合金を、時代劇のようにくるくる回せるわけがない。アルミ製の刀でないと不可能だろう。
そのせいか、二天一流の演武は能のような、抽象的な動きで、派手さに欠く。だが、地味に手首の裏をすくうように絶つなど、野趣にあふれた内容である。
五輪書。しばしば、観念的な読まれ方をしがちだが、それこそ武蔵が嫌った形式主義である。工夫しろ。そのために伸びやかであれ。
テーマはシンプルだったのだ。観念としてはそれ以上のテーマはなく、廃刀令以降の我々にとって、あまり役立つ本ではないが、一つの哲学として価値は高い。
伸びやかにならねば、という気分にさせてくれる。
残った画像が井上雄彦のバカボンドとは似ても似つかないから、 おとろしいのだ。もちろん、三船敏郎や萬屋錦之介とも似つかない。。。 |
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