夢の神秘
夢でみる風景は、何やら啓示めいたものを感じさせる。古代においては、生殺与奪はもちろん、夢告によって文化が育まれてきた。
また夢は余りにも臨場感があるために、平安貴族は恋愛対象が夢にまで逢いに来てくれたという都合のいい発想になる。
チベット仏教のゲルク派では、師の僧侶から伝授を受けた晩に見た夢は現実になると信じられている。
これらを軽視することは許されない。合理的な近代医学だって、最近までユングの集合的無意識という、オカルトめいたものを最近まで信じていた。(というか、信じている人も少なくない)
夢に何か大きな意味を見出すのは、自然な衝動だろう。
しかし目下、有力な説としてあげられているのは、記憶の整理である。日中の情報でも、脳が長期的な記憶として保存すべきかどうかを、取り出して、検査しているというもの。
皮膚が再生するなど、身体の代謝が行われている間、脳も記憶を整理しているのだ。
そう考えれば、睡眠時間が短いと豪語する人は、冷静に沈思黙考するタイプではなかったし、意外とせっかちで、複雑なことを極端に嫌悪していたような気がする。
じっくりと考えるには、メモリの余裕がないといけないのだ。
デフラグ
夢と分かっている。以前勤めていた会議室で、自分がwebに関する単語をボードに書いた(何かは思い出せない)瞬間、一斉満場の批判を浴びた。
一般的な言葉を書いたのに、パソコンを余り使わない人たちが多かったことへの配慮がないと、言われた。あんまりな物言いに、いらっとして、言うべきではないなと思いながらも言い放つ。
「だったら、yahoo(インターネット検索サービス)とまで、書くべきなのか」
言ってから、目が醒めた。後味の悪い気分である。
だが、何か類似の記憶や、感情を整理するために、脳が取り出して、片付けたのではないか。
そう思うと、にわかに気持ちが楽になった。
ここにことさら、意味を考えると厄介である。勤めていたところでの葛藤が、まだ解決していないのではないか。会社への不満が夢で顕在化したのではないか。いや、幼少期のトラウマが。。。
そんなことはない。
ただの記憶の断片を、整理したのではないか。いわば、脳のデフラグだったのではないか。
試しに自問してみる。
あんなに思い出せなかった、『五輪書』は本棚のどこに片付けたか。
次の瞬間、瞬く間に思い出せた。翌朝思い出して、みると、確かにその位置にあった。
集合的無意識とか、お告げとか、深層心理とか、あんまり信じない。一つの説としては面白いが、仮説にすぎず、結論としてはぶれ幅が大きすぎる。
むしろ脳が記憶の棚卸しをしているのだ。
何か意味がある、という想定自体が、実は夢を意味深にしているのではないか。
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