樽と日陰
禁欲的な生活を送る哲学者ディオゲネスは、樽の中で思索にふける。それを珍しくおもった、アレクサンダー大王が覗き込んで尋ねる。
「何か望みのものはないか?」
ディオゲネスは顔を上げて応えた。
「はい陛下。そこに立たれては陰になります」
機転の効いたフレーズや、エピソードに注目されがちだが、この話題は象徴的ではないだろうか。
哲学を前に、世俗の権威や富ができることといえば、日陰を作らないこと。
それ以外に、何か貢献できることはないのか? 答えは一つ。権力者ごときが、思い上がるなだ。
皮肉にもディオゲネスの著作はなく、寓話だけが残される。さながら、不立文字を旨とする禅宗に、問答など公案が多いが、説明が少ないように。
イギリス的
シャーロック・ホームズの兄マイクロフトが主催しているのが、ディオゲネス・クラブである。クラブという、社交的な集まりでありながら、一切会話を許さず、お互いに沈思黙考する場所なのだという。
実在はしないし、ドイルのアイデアでしかない。ホームズ・ファンなら、アイリーンやモリアーティー教授のキャラ同様、一種の共通の記号として認識されるだろう。
わざわざ集まって、銘々が読書したり、思索に耽るという滑稽さ。しずかな場所で、ゆったりとしたソファに座る様子が、映像で表現される。羨ましいと思った。
だが、ふと思い出した。
シャーロックがワトソンに、ディオゲネス・クラブを紹介するくだり。政府の高官や実業界の重席たちが会員なのだよとか、言っていた。
待て。まてまて。ホームズものは現代から見ると、結構覇権主義的な表現が多い。ホームズの横柄な物言いだって、植民地支配をしていた当時の象徴であるともいわれる。いや、それよりも、高級官僚が集うところがスペシャルで、哲学的だというニュアンスに、ドイルのうさんくささを嗅ぎ付ける。
ディオゲネスはアレキサンダー大王をやりこめた。世俗の権力より、彼が師から受け継いだ徳に対する、哲学的思索の方が価値があるということだったのではないか。
官僚だから、哲学的な時間を欲するなどというのは、いささか気取ったポーズではないか。保守的な人たちが喜びそうな話題である。そして進歩的な人たちがやりたがるポーズではないだろうか。
そして、どちらもなんちゃってディオゲネスなのだ。そもそも、そこに集う人のステータスを紹介に当てるということ自体、樽の前に立って覗き込んだ人間と、同じ基準なのではないか。
などと、どうでもいいことを、考えてしまう。
「謝るから、出ておいで」っていうてるみたいなビジュアル http://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AWaterhouse-Diogenes.jpg |
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